ホームレスだった私は今、大学で博士号を目指している。路上生活から学んだこと

「一体、なんでこんなことになったの」。それはホームレスの人たちの多くが、何度も自分に尋ねる質問だ。

ほとんどの人たちは知らないだろうが、ロサンゼルスには川が流れている。

サンフェルナンド・バレーから始まる川は、ダウンタウンを横切って50マイル流れた後に、太平洋に流れ込む。

このロサンゼルス川のことが知られていない大きな理由は、大体いつも乾いていて水が流れていないからだ。

乾いているときのロサンゼルス川は、コンクリートの溝のように見える。そして子どもたちの遊び場や、落書き用のキャンバスになっている。

しかし、川を利用しているのは子どもだけではない。大人たちの中にも、川を使っている人たちがいる。ただ、その理由は子どもたちとは全く違う。川を使う大人たちにとって、そこは「家」だ。

ロサンゼルスには約6万人のホームレスが暮らしていると言われているが、実際はもっと多いだろう。他に行くところがない人たちが、この川で暮らしているのだ。

2018年12月に嵐がロサンゼルスを襲った時、川があふれて洪水が起きた。そして川に暮らす人たちは家を追われた。中には命を失った人もいる。しかし、地元ニュースは、ホームレスのことをきちんと報じなかった

嵐の翌日、私は川に沿って車を走らせた。そこにあったのは水に浮かぶテントやキャンプ用のストーブ、買い物かごや靴だった。親を失った子どもたちの靴もたくさんあったはずだ。

ロサンゼルスの人気DJが、ホームレスの問題を「放浪者問題」と呼んで注目を集めたが、この嵐の時に初めて、ホームレス問題が目に見える形になって現れたのかも知れない。

しかし私にとって、これは未知の世界ではなかった。ホームレスの人たちの生活の場所が破壊されているのを目にした時、私の中で眠っていた記憶が洪水のように押し寄せた。

ロサンゼルス川沿いに作られた、ホームレスのキャンプ
GETTY IMAGES
ロサンゼルス川沿いに作られた、ホームレスのキャンプ

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計画してホームレスになる人はいない。もちろん私もそうだった。

私はロサンゼルス郊外の、中流階級の家庭で育った。私の父はセールスマンで、コーヒーからオフィス用品までありとあらゆるものを販売していた。母は給与事務の仕事をしていた。

私たちの住む街はカリフォルニアで最も安全な地区の一つで、私が通っていた学校の校区は、郡のトップ10に入っていた。

「バム」「ホーボー」「渡り労働者」「落後者」「物乞い」「放浪者」「飲んだくれ」「ルンペン」「流れ者」――こういった蔑称で呼ばれる人たちを、私はティーンエイジャーになるまで見たことがなかった。彼らだけではない。自分と全然違う人たちを私は見たことがなかった。それは私が多様性の少ない環境で育てられたことを表している。

両親は、私が12歳の時に離婚した。その後しばらくの間、私の10代の生活は平穏な道を進むかのように見えた。高校を卒業した後、州立大学に進み、就職する。安定した生活だけれど、ワクワクするようなことは特にない。もしかしたら結婚して、子育てをするかもしれない。そんな生活が待っていると思っていた。

しかし、現実はそうはならなかった。私は17歳で高校を退学し、家を飛び出した。最終的にたどり着いたのは、ラスベガスにある男性の家だった。その男性とは、フレモント・ストリート(ラスベガスにある通り)にあるカジノで一度会っただけだった。

私には、卒業証書も職歴もお金もなかった。どこに行けばそれらを手に入れられるかもわからなかったし、自分で生きていく方法もわからなかった。

ラスベガスについてから1週間後、なんとか頼み込んでカジノのレストランで皿洗いの職を得た。それが、私の年齢と経験で唯一雇ってもらえる仕事だった。

そのすぐ後に、私は偶然に受かったオーディションで、ショーガールとして働くようになる。ラスベガスにいる間、クレオパトラやシザーズ・パレスなどいくつかの場所で、私はショーガールをした。

しかし、いつも楽しかったわけではない。ラスベガスで一緒に暮らした男性は、ひどい暴力をふるった。私はすぐに大量のお酒を飲むようになった。

私の家系には、アルコール依存症の歴史があることを知っていた。そして、男性の暴力は、私のアルコール依存症を加速させた。ずいぶん後になるまでわからなかったのだが、私はうつ病とパニック障害も抱えていた(30代になって診断された)。そしてそれは、私の飲酒量を増やした。

すべてが崩壊し始めていた。私は仕事を失い、お金を失い、そして間も無く恋人も失った。それは悪いことではなかったが、彼がいなくなるということは、家賃を支払ってくれる人がいなくなるということだった。

ある夜、深夜に及ぶ長いパーティーから帰ってくると、ドアに立退き通知が貼られていた。私は詰められるだけの荷物を車に詰め込んで、ストリップ(ラスベガスの大通り)にあるバジェットスイーツ(長期滞在型ホテル)へと向かった。

しかしそこに長くとどまれるだけのお金はなかった。数週間後、私は車で暮らすようになった。

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住む家がなくなったという話をすると「親戚や友人、以前の同僚、わずかな知り合い、誰でもいいから、とにかく誰かになぜ“電話を一本”かけなかったの」と多くの人は尋ねる。

だけど大抵の場合、それはそんなに簡単な話ではない。

17歳で家を飛び出した時、私は家族と口を聞かない状態だった。フレモント・ストリート近くの駐車場で暮らし始めた時には(皮肉にも、そこは全てが始まった場所だった)、私は家族と何年も連絡をとっていなかった。

ラスベガスに来ることで家族と大喧嘩したことを考えると、彼らに電話をすることは、私には耐えられないことだった。

私の顔や髪や洋服は、次第に汚れ始めた。食べ物や生活必需品を求めて、ホテルやカジノのゴミ捨て場を漁るようになった。瓶底にほんのわずかに残っているかも知れないアルコールを求めて、酒瓶を探した。

一人娘のこんな姿を父が目にしたら、ショックを受けるだろうかと想像した。そして自分を責めるだろうか、などと考えた。

仕事も探した。カジノのゴミ処理場の仕事を受けに行こうとした時に、私の姿を見て(においを嗅いで?)すぐにドアの外に追い出されたことを思い出す。

この頃、求人広告は新聞からネットに移ろうとしていた。自分で仕事を探すのは、不可能になっていた。どうやって見苦しくない外見を保てるのかもわからなくなっていた。

まだ車は持っていたが、ガソリン代を払うお金はなかった。住所や電話番号がない状態で、仕事を得るのは難しかった。この板挟み状態が、路上生活者を路上から抜け出せなくしている。

私は、観光者や地元の人たちからの施しで生き延びることができた。多くの人が、「かわいくて正気な女の子」が「こんな場所にいる」のは珍しいと言った。

仲間のホームレスにも助けられた。彼らは私に、食べ物や恵んでもらった小銭をわけてくれた。私が読書が好きだと知って、捨てられた本や雑誌をわけてくれた人もいる。

彼らは私を、嫌がらせや暴力、セクシュアルハラスメントからも守ってくれた。私は彼らに守られて、安全だと感じた。彼らに面倒を見てもらっているとも感じた。彼らは私にとって、代理家族のようだった。

実際の家族に私の暮らしを伝えないことについては、私はそれを彼らを守るためだと感じていたが。ただ伝えなかった理由の大半は、自分のプライドによるものだった。

今でも、「プライドが、ホームレスの人たちの葛藤にどう影響するのだろうか」と考えることがある。

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博士課程の学生になって最初に取ったクラスの一つが、「ロサンゼルス川の川岸」という、人生のサイクルについて語る授業だった。

文学を研究するようになって、ロサンゼルス川をこれまでと全く違う視点で見るようになった。

ロサンゼルス川は2018年の嵐であふれた川ではなく、レイモンド・チャンドラー、ナサニエル・ウエスト、ジェームズ・ケイン、ジョーン・ディディオンといった文学者視点から描かれた川になった。

学術研究の道を進むことは、その他の私の人生の出来事と同じように、計画も予測もしていなかったことだ。自分が短期大学を卒業するなんて思わなかったし、ましてや、博士号を目指すだろうとは思ってもいなかった。

自分が何者かになるだろうなんて考えなかった。ましてや教授になろうとは想像もしなかった。しかし同時に、自分がホームレスになるだろうとも思っていなかった。そしてそのことを、こうやって大勢に触れる形で書くことになるだろうとも。

私は、ホームレスとして生きた過去を、今までほとんど誰にも話してこなかった。それは、恥ずかしいという気持ちがあったというのが大きいが、周りが信じてくれるかわからなかったこともある。

私は今、かつて車上生活をしていたようには見えない。自分の過去を安心して語れるグループはただ一つ。同じホームレスの人たちだけだ。

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巨大な嵐が去ってから数カ月後、ホームレスについて研究している同僚が、ロサンゼルス川にあるホームレスのキャンプ地を訪ねたいと言い出した。ただ彼女は、ホームレスの人たちに話しかけるのが怖いと言ったので、私は同行を申し出た。

私は彼女に、ホームレスの人たちは全く恐れる必要がないと伝えたかった。そして、ホームレスの問題とその原因を調べるのはとても大切だが(高騰する住宅価格、賃金の停滞、超過密、無保険……)、同時にホームレスの人たちが、私たちと同じリアルに生きる人たちだということも伝えたかった。

それ以上に、メンタルヘルスの問題がホームレスの人たちに影響を与えていて、彼らの生活を困難にしていることを理解するのは欠かせないということも知って欲しかった。

ホームレスの人たちの45%がメンタルヘルスの問題を抱えていて、25%が深刻な心の病を抱えている。そしてメンタルヘルスの問題は、彼らを探し出して必要な助けを提供し、路上生活を終わらせることを難しくしているのだ。

メディアはホームレスの人たちを同じように描きたがる。路上生活者がすべて同じような背景を持っていて、同じ問題を抱え、同じ不幸な運命にあるかのように。

そういう描き方はしばしば、ホームレスの人たちから人間性を奪い取る。

ホームレスの人たちを、同じような描き方をする必要はない。代わりに、彼らがホームレスになる前にどんな人だったかを考えてみてはどうだろうか? その人は、誰かの子どもだっただろう。父親、母親だったかもしれない、姉妹、兄弟がいるかもしれない。友達もいたかもしれない。

彼らが今どんな生活をしているのかに目を向け、ホームレスでなくなったらどんな生活が送れるのかを考えてみるのはどうだろう。

ホームレスの人はしばしば、酒飲みで、ハイで、働くのが嫌いで、頭がおかしくて、恐ろしい人であるかのように描かれる。

無視されず目を背けられていない時には、馬鹿にされ非難される。

そうではなく「本当は彼らがどんな人なのか」ということに目を向けてみてはどうだろう。

フルタイムで働いても家を借りることができない親かもしれない。深刻な心の病や中毒の問題を抱えているのに、治療するお金がないのかもしれない。もしくは病気なのに保険がなくて、自己流の治療をせざるを得ないのかもしれない。

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私はラッキーだった。約1年間のホームレス生活の後、私はついにプライドを捨てて、ラスベガスにいた数人の友人に電話をかけた。

彼らは私を迎えにきて、モーテルに住めるように手配してくれた。彼らが助けに来てくれた時、とても恥ずかしくて、彼らの顔をほとんどの見られなかった。「一体、なんでこんなことになったの」と、彼らの顔に書かれているようだった。

「一体、なんでこんなことになったの」。それはホームレスの人たちの多くが、何度も自分に尋ねる質問だ。

多くの人たちが、私と違って頼れる人が誰もいない。家族や友人から縁を切られている人もいれば、家族や友人がいない人もいる。そして政府やNPOは彼らを見つけ、路上生活から完全に抜け出すために本当に必要な助けを提供できない。

モーテルに移ってからすぐに、私は母に電話をかけた。母は真夜中に私を迎えに来てくれた。そしてカリフォルニアの自宅に連れ帰ってくれた。

私は幸運だった。行く場所があり、もう一度やり直せるよう助けてくれた家族がいた。私は今でも、路上生活をしていた時の経験を全部伝えてはいない。少しずつ話したいと思っている。

アルコール依存症の治療を受けて1年経った頃、私は学校に戻った。過去はもう振り返らない、とは言えない。なぜなら何度も、過去を思い出しているからだ。

一度路上生活をした人が、なぜまた路上生活に戻ってしまうのかわかる。彼らがそれを望んでいるからではない。“リアルな社会”にもう一度溶け込むのが、乗り越えられないほど難しいからだ。

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ゼロからスタートするのは大きな挑戦だが、不可能ではない。

すぐに食べ物や水や電話を手に入れられる、温かいシャワーを毎日浴びられる、基本的な生活必需品を買うためのお金がある。そういった生活のちょっとした便利さに、私は今でも驚嘆してしまう。そしてそのこと全てに心から感謝している。

路上生活から抜け出した今でも、私は定期的に路上で生活していた時のこと、そしてそこで生き延びようとしていた人たちのことを考える。

そして、自分に多くの問いを投げかける。

車の中で暮らしていても、ホームレスなのだろうか?自分の生活は、路上や公園のベンチやテントで暮らしていた人ほどつらいものだったのだろうか? 電話をかけて助けを求められる相手がいたとしても、私は本当の意味でのホームレスだったのだろうか? 自分で選んでそうなったのではないだろうか? 路上生活を抜け出せたら、その過去を消してしまうべきだろうか。それとも他の人を助けるために使うべきだろうか?

すべての問いへの答えはみつけられていないが、最後の問いの答えは、ようやく見つけられた。このエッセイが、変化をもたらすための一歩になって欲しいと心から願っている。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました(翻訳:安田聡子 )。

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クリステン・ブラウネル
カリフォルニア大学リバーサイド校で、クリエイティブノンフィクションの美術博士号を取得。現在クレアモント・カレッジズで、留学生のクラスを教えながら英文学の博士号を目指す。ラスベガスでショーガールをしていた時のことをつづった自伝「ロストベガス」を執筆。