アメリカの歴史学者から見る「慰安婦問題」 戦争と記憶は過去の問題か?

コロンビア大の歴史学者、キャロル・グラックの新刊『戦争の記憶』が、慰安婦問題とも絡み話題になっている。彼女は学生との対話を通して何を伝えようとしているのか?
Associated Press

東京有数の繁華街・池袋駅東口から徒歩10分足らずでサンシャイン60にたどり着く。連日、夏休みの家族向けのイベントが開催され、この日も多くの人たちで賑わっていた。道路を挟んだ向かいには、アニメファン、漫画ファン向けのショップが立ち並ぶ。

そのすぐ隣―あるいは向かいにー小さな公園がある。東池袋中央公園という。ビルのせいで日は入り込まず、それなりに木々が生い茂っていることもあり夏はひとときの涼しさを感じる。仕事の合間にタバコをふかす人、水分を補給する人が目立つーー。

この一帯が戦後、GHQに接収され、戦犯を収容する巣鴨プリズンだったことは、今どのぐらいの人の「記憶」の中にあるのだろう。

ここに小さな碑が残されている。かなり古くなり、裏の文字は読みにくくなってはいるが碑だけが、巣鴨プリズンの跡地であることを知らせる唯一の「物」である。

注目すべきは、今はほとんどの人が存在すら忘れている様な小さな石碑でも、設置にあたって訴訟にまでなったという事実だ。

Satoru Ishido

戦争の記憶

歴史と記憶は時には様々な論争を引き起こす。あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」では、慰安婦をイメージした「少女像」をめぐって様々な人の歴史観をもとに激しい論争が起きた。

元慰安婦たちの「記憶」の解釈も様々だ。

複雑な歴史問題を解きほぐすために必要なのは、「自分たちの記憶」だけでなく、「別の立場からの記憶」を知ろうとする力だ——。そう私たちに問いかける、コロンビア大教授で日本近現代史の専門家、キャロル・グラックの『戦争の記憶』(講談社現代新書)は問題をクリアにし、思考する力を鍛えるための一冊と言えるだろう。

戦争の歴史をどう記憶するかは、世界各地で大きな火種となっている。近現代史は過去のものではなく、現在の政治と生々しくリンクする。「表現の不自由展」で起こった一連の出来事も、その一つと位置づけることができるはずだ。

フェアに語るということ

グラックがアメリカだけでなく日本、韓国、中国といった多様なルーツをもつ各国の学生と文字通りの対話を通じて、やっかいな「記憶の政治」に向き合う方法を探っていく。

いま、最もタイムリーなのは第3章「慰安婦の記憶」だ。慰安婦問題をどう考えていけばいいのか。重要なテーマがぎゅっと凝縮されている。

一級の歴史家であるグラックの特徴は、常にフェアであろうとする姿勢である。彼女は、日本にとって都合が悪いことも、韓国にとって都合が悪いことも、アメリカにとって都合が悪いことも隠さずに語っていく。

いくつかグラックの発言を抜粋しておこう。

「慰安所というのは、あえて一般的に呼ぶならば、軍の売春宿のことです。当時、慰安所は軍にとっては珍しいものではなく、それぞれの国の軍隊が売春宿を持っていました。軍人たちは慰安所の存在をもちろん知っていましたし、それは戦争の一つの側面でした」

彼女は、1991年に韓国の元慰安婦3人が日本政府に補償を求めた提訴が契機となり、1993年にいわゆる「河野談話」につながったという流れを整理する。

そして、同時多発的に起きていた世界的なフェミニズムの台頭、戦時「性暴力」の犯罪化、アメリカのアイデンティティポリティクス、韓国の民主化といった潮流が元慰安婦たちの証言を支えてきたという話を展開する。

日本では、とりわけ朝鮮半島出身の慰安婦が「強制連行」されたか否かが最大の争点になり、「強制連行」の定義をめぐり、激しい論争が繰り広げられていたが、グラックによって複層的に問題を考えることができる。

簡単に整理すれば「日本の国内問題」、あるいは「日韓問題」にとどまらず、幅広い争点を持った問題になっているという現実だ。

背景にあるもの

「『慰安婦』は、アメリカだけでなく、今や国境を超えて過去における戦争の記憶の一部となり、将来に向けては人権や女性の権利擁護という視点からも語られるようになった。もはや慰安婦像があろうがなかろうが、グローバルな戦争の記憶から消えることはないだろう」

彼女のフェアな姿勢を端的に示しているやりとりがある。グラックは学生に問いかける。

「アメリカで慰安婦問題について、精力的に活動していたカリフォルニア州選出の下院議員マイク・ホンダが、2007年、『従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議』を下院に提出したのはなぜか」

正解は選挙区にいるアジア系の票を狙ったからだ、という。では、日本政府と韓国政府はどうか。両者とも問題は当然ながらある。韓国政府にも慰安婦問題には冷淡な時期があった、とグラックはシビアに指摘する。

「韓国政府は金大中大統領が1990年代末に慰安婦に補償すると言うまではあまり『便乗』しませんでした。韓国人元慰安婦が、『韓国政府は私たちのために何もしてくれていない!』と言っていた時期もありました」。

「河野談話は強制性を認めていましたが、現在の安倍晋三政権は強制性を疑問視しています。一方で韓国政府は2011年から、慰安婦問題に大きく便乗してきました。日本の場合も韓国の場合も、その背景にあるのは国内政治です」

慰安婦像の背景についても、こう言及している。

グラックが「日本政府が慰安婦の強制性を否定し、慰安婦像の撤去を求めると、何が起きると思いますか」と聞くと、数人のゼミ生が「もっと建てる」と反応する。

そうした声を受けて、彼女はこう続ける。

「日本政府が抗議するたびに、雨上がりのキノコのように世界のさまざまなところに慰安婦像が生えてくるようです。抗議すればするほど、相手方に燃料を与えることになるのです」

知ることから始まる

私たちはメディアを通じて、「記憶の政治」に直面し、メディアを通して「対立」を知る。対立は感情を刺激する。どこに対話の可能性があり、どこに対立点があるのか。

対立はどこから生まれるのか。どのような立場を取るにしても、相手の論理を知ることに少なくない意味はあるだろう。

あいちトリエンナーレを単なる騒動で終わらせないために。知ることから、すべては始まる。

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