キャリア
2019年10月29日 07時34分 JST

「野獣」と呼ばれた松本薫はいま、あのときと同じように全力でアイスクリームを作っていた。

2月にあった引退会見で「アイスを作ります!」と発表したオリンピック柔道女子金メダリストの松本薫さん。競技と育児の両立、新たな挑戦、アスリートのセカンドキャリアについて聞きました。

KAORI SAWAKI/HUFFPOST JAPAN
松本薫さん

抜群の運動神経と闘争力で、ロンドン五輪柔道女子で金メダルを獲得した松本薫さん。2017年に出産後、「ママでも金」を目指して東京五輪に向けて柔道を続けてきたが、今年2月に引退を発表した。その場で「第二の人生は、アイスクリームを作ります!」と発言して多くの人を驚かせた。

引退後、東京・高田馬場の「Darcy’s(ダシーズ)」の店頭に立ち、日々アイスクリーム作りに格闘してきた。ダシーズがこだわる、乳製品や小麦粉、白砂糖を使わない「罪悪感なく食べられるアイスクリーム」というコンセプトには、アイスが大好きな松本さんの考えが強く反映されているという。

華々しい競技生活を終えたメダリストは何を考え、セカンドキャリアを歩んでいるのか。第2子出産のための産休に入る前、ダシーズの店頭で松本さんに話を聞いた。

Kai Pfaffenbach / Reuters
現役時代の松本薫さん

■引退会見で「アイスクリームを作ります!」

――どうしてセカンドキャリアにアイスクリーム作りを選んだのですか?

もともとアイスが大好きでした。(所属先の)会社に引退を報告したとき、すでにある事業のひとつにアイスクリーム事業があったので、「やりたいです」と言いました。2月の引退会見では言うつもりがなかったんですが、引退後に何をするのか何度も聞かれたので、「言っていいのかな」と思いながら言ってしまった。みなさん驚いていました(笑)

 

――会見では「柔道が好きでなかったと気がついた」ともおっしゃいました。引退を決めた当時、どんな精神状態だったんでしょうか。

柔道に対する未練はまったくなく、むしろ、すごく気持ちが楽になりました。「あ、もう辞めていいんだ」って。(2017年に)娘が産まれて、自分にとっての一番が柔道ではなく子どもになり、闘争心がだんだんなくなっていました。未練が何もなかったので、逆に、まったく新しいことに挑戦できたのかな、と思います。

 

 

■難しかった、「ママでも金」

――「育児と競技の両立の難しさ」についても触れていました。2020年の東京五輪に向けて「ママでも金」と子育てをしながら五輪を目指していた当時は、どんな生活を送っていたんでしょうか。

もともと、産後にアスリートを続ける女性が少なく、自分がやってみることで「社会に何が足りないのか知りたい」と思っていました。同世代のアスリートが結婚し、子育てをする姿を見る中で、「なぜ男性アスリートは当たり前にできることが、女性アスリートは当たり前にはできないんだろう」と思っていたんです。同時に、何かやり方を工夫すればできるんじゃないか、とも考えていました。 

実際の生活では、常に寝不足の状態で練習し、練習不足のまま試合をする感じでした。夫も私も実家が遠いので、親族のサポートが得にくい状況でした。娘が保育園に入る前は、練習場まで連れて行くしか選択肢がなかった。自分が練習している間は、後輩に面倒を見てもらっていました。娘が保育園に入ってからは、練習前に保育園へ送り届け、練習を途中で抜けて迎えに行くという生活でした。

Kai Pfaffenbach / Reuters
現役時代の松本薫さん

――どんなことに困りましたか?

(トップレベルの選手が練習する)ナショナルトレーニングセンターには託児所があるんですけど、練習時間しか子どもを預けることができなかったんですね。託児所のスタッフも、お昼休憩を取らなければなりません。必然的に、お昼休憩の時間は私が食事をしながら娘の面倒を見て、また託児所に預けて練習に向かうことになります。つまり、私自身の休憩時間はなかったんです。

谷亮子さんのように、出産後も現役を続けていた先輩はいましたが、まだまだモデルケースは少なく、自分で試行錯誤しなければならなかったんですね。

もともとストイックになりやすいので、出産前は自分が納得するまで何時間も練習をすることがありました。出産後は、それができなくなりました。あの環境では限界だったと思います。ただ、それを選んだのは自分自身なので、後悔はありません。

 

――挑戦を通して、育児中のアスリートの練習環境の支援について、どんな点が不足していると感じましたか。

女性アスリートに対する支援制度はいくつかあり、栄養面のアドバイスや産前産後ならではのトレーニングを受けることができ、託児所も使えました。

ただ、使い勝手が悪い面もありました。一律の支援メニューではなく、ひとりひとりに合った、オリジナルのサポートが必要だと思います。

あとは、理解の部分です。もっと多くの人に育児の大変さ、第三者の助けが必要なことを、まずは理解してもらえたらな、と思います。海外ではアスリートの支援制度が充実していて、産後も現役を続けるアスリートがたくさんいます。

KAORI SAWAKI/HUFFPOST JAPAN
松本薫さん

■柔道もアイス作りも「やっていることは変わらない」

――「罪悪感を感じずに食べられるアイスクリーム」というダシーズのコンセプトは、松本さんの考えが強く反映されているそうですね。

ロンドン五輪後の取材で「パフェを食べたい」と言ったら、帰国後に行く先々でパフェを出していただき、1日5食食べました。あれがすごかったんですよ。おいしいから食べちゃうんですけど、身体がすごいことになって。胃もたれをするし、身体にぶつぶつもできました。その頃から、体に負担のないアイスはないのかなって思っていました。 

KAORI SAWAKI/HUFFPOST JAPAN
松本薫さん

――柔道家からアイス作りの道へと、まったく違う分野への挑戦でした。戸惑ったこと、新たに学んだことはありましたか。

もう、戸惑うことばかりです(笑)。接客業や飲食業で働くということ自体、初めてだったので、常に疑問しかなかったですね。接客していても、「こういうやり方でいいのかな」「この人に対してはこういう接し方の方がいいかな」って。もともと柔道をやっていたときからのくせで、「これでよいのか」と常に考えています。

私の中では一緒なんですよね、柔道もアイスも。ただ、畳の上で戦うか、地面の上で戦うかの違いで。考えていることは常に一緒で、「なんでだろう」「もっとこうしたらいいのかな」って。戦う場所が変わっただけなんです。

KAORI SAWAKI/HUFFPOST JAPAN
ダシーズのアイス

学んだことはたくさんあります。柔道は個人競技なので、結局は自分ひとりが強くなることを考えていました。人それぞれ役割があるとか、あまり考えたことがなかったんです。

引退して色んな人と一緒に働かせてもらう中で、得意な分野で働いていくと、その人の良さが発揮されることを知りました。

そのことに気づいたのも、実は最近なんですよ。私は「何でだろう」ってずっと考えるタイプで、スタッフの接客中のちょっとした動作で「何でそんなことするの?」ってイライラ、モヤモヤしちゃっていたんです。「お客さんからこんなふうに見られるって思わないのかな」って。上司に相談して、人それぞれ考え方があること、きちんと伝えれば伝わることを教えてもらい、言葉にして伝えるようになりました。

 

――コンセプトなど自分の経験がビジネスに生かされるということに、何を感じましたか。

ただ単に「こういう風にできたらいいな」「こうやったら楽しいだろうな」って、楽しんでいるだけなんです。スタッフはたぶん大変です。「また細かいこと言いやがって」と思われていると思います(笑)

もともと偏食で、アイスも、お菓子も、炭酸飲料も好きでした。その結果、けがが多かったんです。これじゃだめだなと思い、体の勉強をして、そこから体がすごく敏感になっていきました。そういう経験が、アイス作りに生きているのかもしれません。

嗅覚が人より敏感で、アイスを試食して豆乳などのにおいが強すぎると感じれば、スタッフに意見を言っています。人と違う感覚を持っているんだろうなって認識はしていますね。

ベネシード提供
柔道の世界選手権の会場では、ともに世界で戦った選手も数多く訪れた

――今後の目標は?

もっと世界とコラボしていきたいなって、妄想しています。8月末に東京で開かれた柔道の世界選手権の会場で、ダシーズのお店を出させてもらいました。これまで一緒にたたかってきた選手が、次々に顔を出してくれました。やっぱりおいしい物を食べるとみんな笑顔になる。体に負担のないアイスを世界に伝えて、同じ思いを持つ人とコラボレーションしたいなという思いがあります。

 

――引退後の生活に不安を感じるアスリートも多いと思います。後輩たちに向けて、経験を踏まえてどんなことを伝えたいですか。

私も現役中はすごく不安でした。「引退したら何ができるんだろう」って。私は恵まれた環境にいたので自由にやらせてもらえていますが、不安に感じているアスリートの支援は何かしらできたらなとは思います。「こういう選択肢もあるよ」って、視野を広げるきっかけや支えになれたらな、とは思います。

山口絵理子さんの著書名「Thirdway(第3の道)」というメッセージは、ハフポスト日本版が大切にしてきた理念と大変よく似ています。

これまで私たちは様々な人、企業、団体、世の中の出来事を取材してきました。多くの場合、そこには「対立」や「迷い」がありました。両方の立場や、いくつかの可能性を取材しつつ、どちらかに偏るわけでもなく、中途半端に妥協するわけでもなく、本気になって「新しい答え(道)」を探す。時には取材先の方と一緒に考えてきました。

ハフポストは「#私のThirdWay」という企画で、第3の道を歩もうとしている人や企業を取材します。ときどき本の抜粋を紹介したり、読者から寄せられた感想を掲載したりします。