日本のお金持ちは、なぜ「カッコよく」なれないのか? 平野啓一郎さんが指摘する、いま私たちに足りないモノ

「カッコいい」とは何か、という問いについて、そろそろ本気で議論しなくてはならないのではないか。
Kaori Nishida

小説家の平野啓一郎さんが新書『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)を出版した。平野さんによると、「カッコいい」とは「しびれるような生理的興奮を与えてくれる存在」。音楽、ファッション、セレブの生き方。理屈を乗りこえて身体がゾクゾクと反応してしまう”あの感じ”を分析した本だ。

それはそうと、今の日本に「カッコいい」はあるのだろうか。たとえばあの有名人は?あの起業家は? こうした疑問を次々と平野さんに投げかけて気づいたのは、何がカッコいいかも分からなくなってしまった日本の淋しい姿だ。

「カッコいい」とは、一体何なのか?

——平野さんは「カッコいい」をどう定義しているのですか。

「カッコいい」を一言でいうと、しびれるような生理的興奮を与えてくれる存在で、これまで美学や美術史の中で研究されてきた「美しさ」や「崇高さ」などの上位概念ともいえる、と考えています。

僕たちは美しいものを見ても、俊敏なものや野生的なものを見ても、生理的興奮を覚える。目にした瞬間に「うわっ」としびれるという意味では、ランボルギーニも新型iPhoneも、嵐も三代目J Soul Brothersも、カラヤンも、全て同一線上で論じることができます。

——頭で考えるのではなく、身体が「反応」するという点が面白いですね。

自分が「しびれた」という身体的感覚は、自分自身の“個性の発見”でもあります。その人だけの特別な感情です。だから自分の「カッコいい」は人から否定されたくありませんし、自分がカッコいいと思っている人のことを誰かに話した時、「ダサい」とか「誰それ?」と言われるのは腹が立ちますよね。

本の中でも、1997年に京都大学の近くのバーでアルバイトをしていたときの「論争」を書いています。カウンターに座っていた会社員風の男性客2人が、プロボクサーの辰吉丈一郎の評価をめぐって険悪になり、つかみ合いの大げんかになったのです。

目の病気になっても引退しない辰吉に対して「往生際が悪い」と批判する声もあれば、「貫き通してほしい」と擁護する声もあったのは知っていましたが、辰吉が「カッコいいかどうか」をめぐって論争することが、そこまでだとは…。

この繊細さこそが、「カッコいい」が体系立てて論じられてこなかったひとつの要因でもあると思っています。

平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)
平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)
ハフポスト日本版

ではなぜ今、「カッコいい」論が必要か?

——そこまで個人的なことだったら、わざわざ「新書」に書いて、社会で広く議論をする必要もないような気もするのですが…

大前提として、他人の「カッコいい」に安易に口出しすべきではない、と思います。多様性という意味でも、様々な「カッコいい」を認め合うべきです。その上で、もしもその「カッコいい」が、倫理的に問題のあるような場合には、その是非が社会で議論されるべきではないでしょうか。カッコいいとは何かを徹底的に分析して、その上で「カッコいい」の社会への影響を考えることが、そろそろ本格的に必要だろう、と思って書きました。

例えば、ナチスについて考えてみてください。これまでのファシズム研究では、大衆動員に関する膨大な研究の積み重ねがありますが、制服にせよ、ブルジョワ批判にせよ、プロパガンダ映画にせよ、「カッコいい」の政治利用という視点は、やはり必要ではないか。

クラシックな美意識は、何らかの教養がないと身につけられないところがありますが、「カッコよさ」は、理屈抜きに、直感的に人を引きつけます。それが悪用されるとどうなるか。

AKBグループの「欅坂46」が、ナチスの制服に模した洋服を着用しましたよね。アーティスト側には、ユダヤ人を差別する意識はなかったでしょうが、ナチス・ドイツでも使われた黒鷲に似た紋章の帽子や黒いマントなどを、歴史的文脈を無視して「カッコいい」と思ってしまった可能性があります。

ベルリンの警察が没収し、公開したナチスの制服とハーケンクロイツの旗(ベルリン、2014年9月撮影)
ベルリンの警察が没収し、公開したナチスの制服とハーケンクロイツの旗(ベルリン、2014年9月撮影)
ロイター

——ナチスは「カッコいい」のか、という問いを立てると、人種問題とは別の見方でファシズムのことを考えられますね。

ヒトラーを前にした群衆の中にいて、ウワァァ、という轟音を聞いたら、人は興奮してしまうものではないでしょうか。その生理的体験とは何か。何に「しびれた」のか。

「カッコいい」存在は、人の模倣・同化願望を刺激しますから、その倫理性を問われざるをえない。「真善美」という考えがヨーロッパにありますが、それが三位一体となっているかどうか?美しいかもしれないけど真実じゃない、真実かもしれないけど倫理的には正しくない——。こうした観点で検証することが極めて重要です。ナチスは人類史上で決して許されない虐殺をおこないました。当然そこには「善」がありません。カッコいいには「美」だけでなく、「善」の要素も含まれる必要がありますね。結局、真善美がそろって私たちは本当の意味で何かをカッコいいと感じるのではないでしょうか。

平野啓一郎さん
平野啓一郎さん
Kaori Nishida

日本のお金持ちはなぜ「カッコ悪い」のか

——現代の日本の話に戻します。たとえばTwitterを見ていても、発言力や影響力がある人がカッコいいとは思えないんです。日本にはカッコいい人はいるのでしょうか。

難しい問題ですね…。ただ、先ほどお伝えしたように、「カッコよさ」の中に、正しさが含まれることは大事で、個々には多様でも、社会全体でどういう振る舞いが「カッコいい」かを一度議論し直す時期にきているんじゃないか、というのが僕の問題意識です。

たとえば日本のお金持ちはアメリカなどに比べると、寄付をしたり社会貢献をしたりというのがあまり一般的ではないですよね。儲けたら「正しい」ことをするという意識が低いように見えます。

TwitterでZOZOTOWN創業者の前澤友作さんが、100万円のお年玉をみんなにあげたり、心臓病の手術が必要な子供への寄付を募ったりしましたが、炎上もしました。

平野啓一郎さん
平野啓一郎さん
Kaori Nishida

——良いことをしているのに、どうして炎上するのでしょう。

みんなから“尊敬”されるお金の使い方が、社会の中で曖昧だからでしょう。難しいのは、本人は良かれと思っているという点です。それでも大ブーイングになるのは、現代の日本社会における「カッコいい」の基準が十分に議論され、何らかの合意がなされていないということです。

「カッコいい」という概念自体がうまく言語化されてこなかったし、「カッコいい人ってこういう人のことだ」という像も共有されていないまま、お金持ちが社会に何か還元しようとしても、トンチンカンなことになったりする。難病を抱えている子供がいたら、手術が出来るアメリカまでの渡航費を寄付するのは尊い行為です。ただ、それが移植手術なら、現地の子供が手術を受けられる機会を奪ってしまうことになる。そうした時に、「何が正しいのか」という問いが十分議論されていない社会なんだと思います。だからこそ、なかなか「カッコよく」なれない。

企業経営者なら、何でどう儲けて、顧客と社員、それに社会そのものがそれでどれだけハッピーになったかとか、というのは、やっぱり大事でしょう? あとは、海外に目を向けてみると、アメリカの俳優、ジョージ・クルーニーがダルフール紛争にコミットしたり、ブラッド・ピット、マット・デイモンらと人権団体を立ち上げたり、レオナルド・ディカプリオが環境問題に取り組んだり、と色々ありますよね。寄付も盛んだし、つい先日も、モアハウス大学の卒業式で、富豪の投資家が、卒業生の学費のローンを全額肩代わりするといって話題になったり。そういうの、僕は「カッコいい」と思うし、何でもかんでも真似すればいいわけじゃないけど、「美」だけでなく現代の「善」や「真」の有り様を、社会的に考えないといけない、と思うんです。ああいうふうに振る舞いたい、というような。

日本人には「公共」の概念が足りない

——どうすれば日本のお金持ちや著名人はカッコよくなれますか。

課題としてあるのは、「公共」の概念の欠如だと思います。

日本人はパブリックな場で共同体の構成員としてどう振る舞うべきかを考えるということが不足してるんじゃないでしょうか。自分の「迷惑」が社会全体の「迷惑」に短絡してしまっている。電車に、ベビーカーと一緒に乗ってきた人がいた時、公共的な考えを持ち合わせていれば、社会に新しく生まれてきた命を大事にして、もっと子育てしやすい環境をつくろう、という思考になる。ところが日本の少なくない人たちは「こんな所に乗ってくる方が悪い」「朝の通勤電車は働く人のためのものだ」みたいに、自分の事情の延長上に「マナー」があると考えてしまう。非常に幼いです。

欧米にはキリスト教があったので、人から褒められなくても神様が見てくれているというような伝統がありましたよね。今では信じていない人が多いかもしれないけれど、“do the right thing(正しいことをする)”とか、やっぱり慣用表現として使われますし。そりゃ、「正しいこと」なんて相対的だと言うのも大事だけど、だからこそ、社会はそれが何なのかを絶えず考え続けないと。

一方で日本は、俗世からの解脱を目指す仏教が支配的だったこともあり、思想史的には日常的な振る舞いや、いかに生きるべきかについての行動指針が弱いという問題がありました。「人倫の空白」という表現を本の中では使いましたが。

平野啓一郎さん
平野啓一郎さん
Kaori Nishida

あるべき社会の姿についてのイメージが薄いから、みんな自分の肌感覚でわかるところで「だよねー。」と語り合ってしまう。自分の都合を超えたところに、「公共性」を意識する感覚が稀薄です。だからこそ、唐突に公共性というと、「国家」に飛躍してしまう問題もある。国の役に立つ、国に迷惑をかけない、……とか。そうじゃなくて、いいことをした人をリスペクトする空気や文化、つまり「公共的な善とは何か」という問いに対して、社会で向き合っていかないといけないと思うんです。

僕は、「こうあるべき」「こう生きるべき」と何かわかりやすい唯一の解決法を示して、読者に信じてほしいわけでもない。僕なりの考えは表現するにしても。ただ、社会に生きる一人一人がーーそれぞれ事情はあるだろうけれどーー、立ち戻ったり参照したりできるフレームワークの、その“種”のようなものを示すことができればいいな、と思ったりはしています。その土台に、この「カッコいい」論がなっていけば嬉しいです。

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