岡口基一裁判官が懸念する、最高裁の「王様化」とは。異例の戒告処分を受けた今だから思うこと

「裁判所は少数者保護ではなく、社会秩序を維持するための機関になっている」とも批判した

岡口基一裁判官=現・仙台高裁=は、自身に対して異例の戒告処分を決めた最高裁を、誰からも批判を受けない「王様」のような状態になっていると指摘する。

裁判官についても「劣化」していると語る岡口氏に、裁判所の問題点を聞いた。

(国会の裁判官訴追委などについて語ったインタビュー前編はこちら

「少数者保護でなく、秩序維持に」

━━ 今度は裁判所全体のことについてうかがいます。著書の中で裁判官の「劣化」という表現を使い、組織の問題点を指摘していますね。

色んな切り口があるとは思うのですが、まず1つには、裁判所という組織には権力がないので、どうしても権力者の方を見ながらやっていくしかないという雰囲気がありますね。それが裁判所全体を覆っていると思います。

戦後、日本国憲法によって諸外国のように三権分立ができ、裁判所は少数者保護と行政、立法というほかの2権を監視する役割を果たせるよう、頑張っていたんです。

ところが佐藤栄作首相が慣例を破り、本命ではなく保守派にとって都合のいい人物を最高裁長官に選んだんですね。

これ以降、裁判所は少数者保護や権力の監視ではなくて、むしろ社会秩序を維持する役割へと変わってしまったんです。

これはとても日本的で、江戸時代は特にそうだったんですよ。北町奉行とか南町奉行とかありましたよね。お白州ってやつです。当時はまさしく、裁判所が秩序を維持するための機関だったんですね。

今でも結局、社会秩序維持の一環になっているなと感じさせる出来事はありますね。例えば、車を運転中に赤信号を無視して摘発された男性をめぐる事件がそれです。

男性が現場で証拠のビデオ映像を見せるよう警察官に求めたところ、警察官は「ビデオはない」と嘘をついたんですね。

男性は反則切符の受け取りを拒んだんですが、検察庁の取り調べの中でビデオを見せられて。男性は自分が違反していることがわかったので反則金を払いますって申し出たら、反則金ではダメです、罰金ですと検察庁が起訴したんですね。

一審は罰金の支払いを命じたんですが、二審の大阪高裁は「最初にビデオ見せなかったのは許さない」と、起訴自体が不法だとして公訴棄却にしたんです。

そしたら先日、最高裁がひっくり返して有罪にしたんです。でも理由は「明らかである」ぐらいしか書いてなくて。

そういうときは警察に従わなければいけませんよという考えがにじんでますよね。秩序維持のための典型的な判決ですよ。最近多いんです。こういうのが。

振り込め詐欺の裁判でもありました。「受け子」と呼ばれる運び屋が詐欺の共犯に問われたんですが、荷物の中身が何か知らなかったので、詐欺に問えるわけがないですよね。そこで大阪高裁は無罪を言い渡したんです。

ところが最高裁は「いや、なんか怪しいものを運んでいることはわかったでしょう」と有罪にしてしまいました。

怪しいものって言っても、詐欺かどうかはわからないですよ。薬物だって怪しいですしね。ほかの犯罪の可能性もあります。これもまた、社会秩序をきちんと守りなさいという形の判決です。

━━ 社会秩序の維持という視点は、裁判官に任官してからだんだんと染まっていくのでしょうか。

裁判官になってから次第にそうなっていく気がしますね。学生時代はみんな、司法とは少数者保護とか、ほかの2権を抑制するためにあるんだという、欧米型の三権分立がしっかり頭に入っているんですよ。

しかも昔は、そうしたい人が司法を目指していたんですよ。東大法学部の人たちが一流企業に入らず、何年もかけて難しい司法試験を目指したんです。

そこには、自分たちが少数者を守らなきゃいけないんだという自覚があったんです。

でも今は、司法制度改革によって合格者が増えた。世の中も変わってきて、ビジネスとして法曹界を目指している人が多いと思います。そういう中で、裁判官になる人もまた変わりました。

東京地裁や高裁の建物の隣には法務省の「赤れんが棟」がある。ああいうところに毎日お昼を食べに行ったりすると、やっぱり法務省の方がよく見えてくる。

赤れんがってすごく効果的なんですよ。「やっぱり我々、法務省と一緒に赤れんがの伝統守っていきたい」みたいな思いに駆られるんでしょうね。

だから少数者はたまらないですよね。こういう国で今後問題が起きた時、救済してくれる人がいないので。

世の中には色んな紛争があって、それを公平公正に解決するということはどんな裁判官でもきちんとやっていると思います。

ただ、その中で少数者保護を大事にする欧米型のスタンスを取る人と取らない人がいるんです。

例えば公害の被害者がそうです。日本では虐げられてきたわけですが、彼らが裁判所に来た時に、まさに救済すべき案件だと思えるかどうかですね。

裁判官も実は世論や権力者の意向を意識しちゃうんですよね。そうしたものを全部はねのけて、きっちり司法の役割を果たすには、強い意思と度胸がないとだめなんです。

取材に応じる岡口氏=東京
取材に応じる岡口氏=東京
Kazuhiro Sekine

最高裁は「王様」

━━ 最高裁の「王様」化ということもおっしゃっていますね。どういう意味ですか。

最高裁がやりたい放題ということですね。一番大きいのは、判決の理由を書かなくなっていることですね。さっきの反則切符の裁判も「理由は明らかだ」ぐらいしか書いていないわけです。

もっと問題なのは、三行半(みくだりはん)判決というものです。そもそも理由を書かないんですよ。「高裁判決でおかしくはない」という程度しか書かない。

「日の丸・君が代」関連の訴訟がいくつか残っていますが、最高裁に上告されたら全部この三行半の判決になると思います。

━━ どうしてそうなってしまっているのでしょう。

誰も批判しないからです。批判勢力が弱体化してしまっていて、だからやりたい放題ですよね。あとは最高裁判事の能力の低下もあると思います。

━━ 国民を納得させられる理由が書けないということなのでしょうか。

それもあります。それに対して誰も批判しないという。

━━ 昔であれば批判勢力はしっかりしていたのでしょうか。

昔は裁判官が批判されるということはなかったですね。というのも裁判官自身がちゃんとやっていましたから。

昔の最高裁判事は責任感とプライドがあり、「それは明らかだ」と書くことはあり得なかったです。

羞恥心とも言えますね。その3つが完全になくなってますね。今は刑事系の人たちが多く、最高裁で審理するものは民事の方が多いので自分たちでは書けないというのもあるんでしょう。

昔の最高裁判事はみんなドイツ語もペラペラで優秀でした。今はそんな人いませんね。

━━ 最高裁だけに、組織内で批判できる人もいませんか。

そうですね。

━━ 外部はどうでしょう。

マスコミの皆さんはそこまで専門的な知識がないので難しいですね。弁護士は色々と言うのですが、「あの人たちはどうせ左翼でしょ」って、ほとんど相手にしてもらえないんです。

可能性があるとすれば学者の皆さんですが、学者も最近では社会的な地位が落ちてしまい、憲法学者たちが「この判決おかしい」って言うんですが、ほとんど社会的な影響力がないですよね。業界内の影響力もないですよ。

だから最高裁は王様なんです。

━━ メディアについてうかがいます。分限裁判の時、当局の情報や「見立て」に引きずられるような報道が散見されました。岡口さんも嘆いていましたね。報道に対する注文はありますか。

メディアの人たちはもう少し表現の自由についてわかっていると思っていました。表現をしている人たちなので。

でも会見の時、人を傷つけたというだけでなぜ表現を批判してはいけないのか、ということについて結局一から説明することになったんです。

もっとも、去年はいろんな人に説明してきました。一番最初に言ったのは東京高裁長官でしたけど(笑)。

申立書に「傷つけた」としか書いてないんですね。私が「表現行為で誰かを傷つけました」と。傷つけたというだけでは申し立てにはならないはずなんです。どういう理由で傷つけたのか、その部分が必要なんです。

例えば名誉毀損で傷つけたのかとか。理由なく、ただ傷つけたということで表現を批判すると、みんな表現できなくなってしまいます。

そういうことを裁判官や訴追委のメンバー、記者たちに説明し続けた1年間でした。

メディアの人たちだけでなく、裁判官や官僚、学者、あるいは日本全体に言えると思うんですが、教養人がいなくなっている気がしますね。「これは譲れない」という価値観を持っている人も少ない。

━━ 岡口さんとしても当然、傷つけたことは認めるわけですよね。ただ、それと表現の自由とが全然別の次元だと。

ええ、そうです。例えば「カルロス・ゴーンさんが逮捕されました」って書くと、ゴーンさんの家族は傷つくわけです。

だからといって「ゴーンさんは逮捕されました」と書いてはいけないのか。傷つけたからだめだということであれば、ゴーンさんは逮捕されましたと誰も書けなくなります。それでいいんですかという話なんです。

━━ メディアの記事も毎日、多くの人たちを傷つけていることになりますね。

そうそう、そうなんですよ。だから傷つけたというだけでは理由になってないですよと。それを記者さんたちに一から説明しなくちゃならなかったです(笑)。

説明しているその矢先、「傷つけていることに反省の言葉を述べてください」とか質問がくるわけです。どうしても反省の弁を言わせたがるんですよね。

記者会見に応じる岡口基一判事(右)ら。懲戒を決める「分限裁判」の手続きが最高裁で開かれた=2018年9月、東京・霞が関の司法記者クラブ
記者会見に応じる岡口基一判事(右)ら。懲戒を決める「分限裁判」の手続きが最高裁で開かれた=2018年9月、東京・霞が関の司法記者クラブ
時事通信社

━━ お話を聞いていると、裁判所はやはり変わらなくてはいけないのだと思います。同じように閉鎖的だと感じる検察庁は、大阪地検特捜部による証拠改ざん事件をきっかけに組織の改革がありました。開かれた裁判所になるため、内部から変わろうという機運はあるのでしょうか。

いやあ、ないですね。裁判所はとにかく権力がないので、戦後70年以上がすぎてもいまだに組織を作っている最中なんですね。

何とかほかの2権に対抗できるくらいのものになれればいいんですけど。とりあえずそちらを見ていて、国民の方を見る余裕はないですね。

もっとも検察庁だって、あの事件を受けて取り調べの可視化を義務付けるなどの改革をしましたけど、一方で司法取引も始まるなど、結局あの改革は何だったんだろうという感じですね。

検察・特捜を追認?

公判前整理手続きのため、東京地裁に入る日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告(左)=5月、東京・霞が関
公判前整理手続きのため、東京地裁に入る日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告(左)=5月、東京・霞が関
時事通信社

━━ 私も司法記者を担当したことがあるので聞くのですが、例えば、カルロス・ゴーン被告の事件では身柄の勾留問題がクローズアップされました。人質司法だとも言われました。検察、とりわけ特捜部が手がける事件では、勾留請求を裁判所が認めなかった例は記憶にありません。そのほかの令状についても、裁判所は特捜に対しては追認の姿勢を取っている気がしてなりません。実際どうなのでしょうか。

検察庁は1つの組織として一体としてやってるんですよね。それに対し、裁判官は1人で判断を求められる。裁判所で一緒になって協議しようということはないんですよ。

それでも自分が自信を持ってやれるというのはよほどのベテランであり、自信のある裁判官だけですね。勾留について言うと、仮に自分が保釈を認めて被疑者が逃げてしまったら、自分の責任問題になりますよね。それは怖いわけです。

責任といっても、法的に問われるわけではないんですが、やっぱり躊躇(ちゅうちょ)しますよね。

プロフィール

岡口基一(おかぐち・きいち) 東京大法学部を卒業後、1994年に裁判官に任官。水戸地裁判事や大阪高裁判事や東京高裁判事をへて2019年4月から仙台高裁判事。東京高裁判事のころ、Twitterなどで判例情報などを紹介し、注目を集めるが、投稿をめぐって2回、厳重注意処分を受けたほか、2018年には分限裁判をへて最高裁から戒告処分を受けた。法曹界では、民事事件のバイブルとも言える「要件事実マニュアル」シリーズの著者として有名。近著に「最高裁に告ぐ」「裁判官は劣化しているのか」。

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