「金正男暗殺」と「マレーシアの闇」(上)北朝鮮「武器貿易」の拠点--竹田いさみ

本暗殺事件を冷静に振り返ってみると、マレーシア側の対応は決して迅速ではなく、むしろスローペースだった。

マレーシアの首都クアラルンプールにある国際空港第2ターミナル(LCC専用)の自動発券機の前で、北朝鮮の金正男暗殺事件が2017年2月13日(月)に発生してから、およそ1カ月が経過しようとしている。

暗殺には猛毒のVXガスが使用されたことが判明し、金正男氏は2名の女性実行犯にVXガスを顔面に塗られてから、15-30分の範囲内に死亡した。

この暗殺事件の対応を巡って、マレーシアと北朝鮮は急速に関係が悪化し、両国の駐在大使は本国へ引き揚げ、両国で非難の応酬が続き、お互いに両国民の出国を相互に禁止するなど、外交関係は悪化の一途を辿っている。

日本国内で連日流れるメディア報道を見る限り、今回の暗殺事件が発生して以来、マレーシア政府は北朝鮮に対し、当初から迅速で、強硬な姿勢を打ち出してきたことになっている。

事件に対するマレーシア政府の対応は次のようになる。

クアラルンプール国際空港第2ターミナルの防犯カメラの映像を公表して、ベトナム人とインドネシア人の女性実行犯2名を逮捕。

実行グループの北朝鮮工作員4名がクアラルンプール国際空港第1ターミナルから海外へ脱出したとして、4名の顔写真と氏名を公表。

工作員の実行グループの現地支援者として、北朝鮮国籍のリ・ジョンチョル容疑者を潜伏先のクアラルンプール市内マンションで逮捕。

さらに駐平壌のマレーシア大使を本国に呼び戻した。報道は、マレーシア政府が金正男暗殺事件の全容解明と実行犯の逮捕に全力を挙げてきたかのようになされてきた。

しかしながら、本暗殺事件を冷静に振り返ってみると、マレーシア側の対応は決して迅速ではなく、むしろスローペースだった。

表面的には北朝鮮に対して強硬姿勢を打ち出してきたが、それもどこか腰が引けており、チグハグな対応が目立った。

だからこそ、事件の全容は一向に解明されていない。マレーシア政府のチグハグな対応と思われる点を以下に整理してみよう。

① マレーシアと北朝鮮の両国とも、金正男氏が殺害されたことを正式には認めていない。

② マレーシア政府は金正男氏のDNA鑑定を実施していない。

③ 実行犯や容疑者を逮捕する決め手となったのは、国際空港の防犯カメラ映像だが、これもシンガポールが公表してから、あわててマレーシア政府が公表した。

④ 北朝鮮の工作員4名がクアラルンプール国際空港からジャカルタへ向けて空路で脱出し、ドバイ、ウラジオストクを経由して平壌に到着したと報道したのもシンガポールで、重要情報の提示はシンガポール主導で進められた。

⑤ 実行犯である北朝鮮工作員を支援したとされる北朝鮮国籍のリ・ジョンチョル容疑者を逮捕しておきながら、3月3日に証拠不十分として釈放したことで、マレーシア政府は暗殺グループの全容解明を実質的に放棄した。

⑥ 初動捜査が遅く、旅行者や空港関係者が自由に現場へ足を踏み入れるなど、事件現場の現状保存はせず、現場検証を実施したのはようやく1週間後であった。

⑦ 毒殺であると発表しておきながら、VXガスの認定に手間がかかり、防毒マスクで装備した警察官が現場検証したのも2週間以上経過した後で、市民からは失笑される事態となっていた。

ここで③および④について補足すると、シンガポールが国策メディア「チャンネル・ニューズ・アジア(CNA)」を使って、北朝鮮工作員や実行犯の防犯カメラ映像をいち早く流したのは、マレーシア政府が暗殺事件の解明に本気で取り組まないとの判断があったからであろう。

明日は我が身のシンガポールとしては、事件を解明することで、自国で起きるかもしれない第2の暗殺事件を未然に防ぐことができるとの計算が働いているはずだ。

シンガポールによる防犯カメラ映像の放映を突きつけられて、マレーシア政府はしぶしぶカメラ映像を提供し始めたというのが実態ではないだろうか。

なぜマレーシア政府が北朝鮮に対してどこか曖昧な対応を示し、事件の真相解明に消極的な姿勢を見せているのか。一言でいえば、マレーシアは北朝鮮との関係で弱みを握られているからである。その弱みは2つある。

第1の弱みは、北朝鮮がマレーシアを武器貿易の拠点として利用し、マレーシアの政治家や企業家が北朝鮮の自称貿易商や工作員に名義を貸して就労させるなど、便宜供与を行っていたからである。

マレーシアの政治家は名義貸しで、多額の報酬を受け取っていた可能性がある。

第2は、マレーシアがゴム農園、パーム油農園、石炭の炭鉱などの過酷な労働環境で、多数の北朝鮮労働者を雇っていたという事実だ。

第1と第2の目的を円滑に進めるために、マレーシア政府は異例にも北朝鮮からの渡航者に入国ビザ(査証)を免除したのである。

こうした両国関係の緊密化を象徴しているのが、北朝鮮の金正恩労働党委員長に対して、マレーシアの私立「ヘルプ(HELP)大学」(1986年創立)が2013年10月3日、経済学の名誉博士号を授与したことであろう。

学位の授与式は、クアラルンプール市内の北朝鮮大使館で行われた。

武器貿易や労働者の就労などの実態が明らかになると、新たな政治スキャンダルに発展する恐れがあり、ナジブ政権としては2つの矛盾する対応策を採用したことが見えてくる。

第1の対応策は、国内外の世論を操作するために、表面的にはマレーシア政府が北朝鮮に対して強硬な姿勢を取っているというポーズを見せる、第2の対応策は暗殺事件の全容を解明せず、事件の幕引きを早期に行いたい、ということだ。

こうした2つの矛盾した対応策を前に、メディアの報道も振り回され続けたのではないだろうか。

以下では、マレーシアがひた隠しにしておきたかった北朝鮮による武器貿易の拠点作りと、労働者の受け入れに関して詳述してみたい。

マレーシアは現在、グローバルな武器ビジネスの有力な拠点となっている。世界中から武器の商人、メーカー、バイヤー、防衛コンサルタントが、クアラルンプールに大挙してやってくる。

各種兵器の需要が高い中東、南アジア、アフリカの紛争当事国からも、軍服を着た沢山のバイヤーが訪れる。

なぜマレーシアが、世界的に武器ビジネスの拠点になったかと言えば、防衛装備品の大型展示会を政府主導で定期的に開催しているからである。

ここに目を付けたのが、北朝鮮であった。北朝鮮はクアラルンプールを武器貿易の最前線と位置付け、ここから世界中に武器を販売していた可能性が指摘されている。

しかも北朝鮮に対しては渡航ビザの免除という特権が与えられており、マレーシアには特別な制約もなく自由に渡航できたわけで、北朝鮮にとってこれほど有難い国はない。

武器ビジネス関係者は、北朝鮮から一般の旅行者として入国して短期滞在し、もしくは就労ビザを取得して長期に滞在することも容易であるなど、マレーシアの利用価値は想像以上に大きい。

金正男氏にとってもマレーシアは訪問しやすく、頻繁にクアラルンプールを訪れていたようだ。

北朝鮮からすれば、多数の工作員を送り込んで金正男包囲網を整備しながら、暗殺事件を企てることをプランニングできる環境が整っていたということになる。(つづく)

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竹田いさみ

獨協大学外国語学部教授。1952年生れ。上智大学大学院国際関係論専攻修了。シドニー大学・ロンドン大学留学。Ph.D.(国際政治史)取得。著書に『移民・難民・援助の政治学』(勁草書房、アジア・太平洋賞受賞)、『物語 オーストラリアの歴史』(中公新書)、『国際テロネットワーク』(講談社現代新書)、『世界史をつくった海賊』(ちくま新書)、『世界を動かす海賊』(ちくま新書)など。

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(2017年3月9日フォーサイトより転載)

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