2つの「レッドライン」を越えた金正恩氏(上)保衛省犯行の「怪」と金元弘氏解任の「点と線」--平井久志

今回の金正男氏殺害で、金正恩党委員長は、ある「レッドライン」を越えたような気がしてならない。

金正男(キム・ジョンナム)氏がマレーシアのクアラルンプールで暗殺されて約2週間が過ぎた。

テレビのワイドショーを含め日本のメディアは連日、大騒ぎを続けているが(筆者もその1人かもしれないが)、長年、北朝鮮をウオッチしてきた者としては、今回の事件に何とも言えない失望感を抱いてしまう。

北朝鮮は特異な国ではあり、われわれは同意しがたいが、北朝鮮なりの論理があり、それは、それで、北朝鮮はそういう道を行くのか、と思わせるようなことも時々ある。

しかし、今回の金正男氏殺害で、金正恩(キム・ジョンウン)党委員長は、ある「レッドライン」を越えたような気がしてならない。

本サイトで、事件発生5日後の2月18日に報告したが、それは「白頭の血統」という視点でこの事件を見るということであった。

金正恩氏は何か業績があり、何か特筆すべき才能があって、北朝鮮の最高指導者になったわけではない。

これは「世襲」といわれながらも、実質的には熾烈な権力闘争で後継者の地位を争取した金正日(キム・ジョンイル)総書記と根本的に異なる点だ。

金正恩氏は「金正日総書記の子供」だから、最高権力者になれた。

その人物が金日成(キム・イルソン)主席の孫であり、金正日総書記の長男であるいわば「白頭の血統」の嫡流を暗殺することは自らの存立基盤をないがしろにすることであった。

金正日総書記の「遺言」破り

金正日総書記は2011年12月17日に死亡した。

朝鮮労働党中央委員会政治局会議が同12月30日に開かれ、同会議は「偉大な領導者金正日同志の主体100年(2011年)10月8日の遺訓に従い、党中央軍事委副委員長である敬愛する金正恩同志を朝鮮人民軍最高司令官に高く奉じたことを丁寧に宣布した」とし、金正恩氏は最高司令官に就任し、後継者としてのスタートを切った。

この党政治局会議の報道で金正日総書記が死の約2カ月前に「10.8遺訓」という遺言を残していたことが明らかになった。

韓国紙・中央日報は2013年4月13日に「10.8遺訓」の内容が明らかになったと報じた。

北朝鮮戦略情報サービスセンターのイ・ユンゴル所長が「北朝鮮の最高位層と連絡が取れる複数の消息筋から入手した資料」とし、約40項目の内容だという。

金正日総書記は、ここで「中国は近いが最も警戒すべき国」と述べるなどした。

この文書が「10.8遺訓」であるかどうかは公式には確認されていないが、内容的には理解できるものだ。

遺言執行は金正日総書記の妹である金慶喜(キム・ギョンヒ)氏が行うとして、金正男氏については「金正男に配慮する。あの子は悪い子ではない。彼の苦労を減らすこと」とある。

金正日総書記の正妻の金英淑(キム・ヨンスク)氏との間にできた娘の金雪松(キム・ソルソン)氏については「金雪松を金正恩の幇助者にすること」と指示していた。

今回の金正男氏の殺害は次第に、北朝鮮が国家ぐるみで行ったテロ行為である可能性が高まっているが、そうであるなら、最高指導者・金正恩党委員長の指示でなくしては行えない事件だ。

そうなると、金正恩氏は「白頭の血統」を継承する金正男氏を暗殺し、父・金正日総書記の「遺言」までも破った可能性が高い。北朝鮮なりの論理の枠組みを脱した行為だったといえる。

金正恩氏は父・金正日総書記の遺言を破り、「白頭の血統」という北朝鮮の統治イデオロギーを破り、北朝鮮という国家がつくった「レッドライン」を越えた。

「VX」というレッドライン

マレーシア警察のカリド・アブバカル長官は2月24日、金正男氏の顔などから猛毒の神経剤VXが検出されたと発表した。

マレーシアのスブラマニアム保健相も同26日に記者会見し、司法解剖の結果から、体内に致死量をはるかに超える猛毒の神経剤VXが吸収され、心臓や肺などが影響を受け死亡したと推定されるとした。

顔に毒を塗り付けられて15~20分後に死亡したと推定した。

日本ではオウム真理教がサリンやVXを製造、使用したが、通常は軍などの国家機関が関与しない限り製造が困難な化学兵器だ。

この事件でVXを使える国は北朝鮮しか考えられない。今回の暗殺にVXが使われたこと自体が北朝鮮の犯行を裏付ける大きな根拠になっている。

韓国国防省は、北朝鮮がVXやサリンなど25種類の化学兵器を2500トンから5000トン保有していると推定している。

しかも、韓国軍は、北朝鮮が弾道ミサイルや多連装ロケットの弾頭のうち相当数を化学弾の形で保有しているとみている。

ノドン・ミサイルは、韓国はもちろん日本までも射程に入れているが、ミサイルの弾頭に爆弾を装填しなくても、生物化学兵器を装填すれば大規模な被害が出ることは、オウム真理教のサリン事件を経験した日本人ならばよく理解できるだろう。

北朝鮮は、自国の核・ミサイルは米韓などの脅威のために自衛の手段と保有を正当化している。しかし、北朝鮮がいかなる理由を付けても化学兵器を正当化することはできないだろう。

化学兵器禁止条約には世界の大半の国が締結しているが北朝鮮など3カ国が未締結だ。未締結だからと言って、化学兵器の製造、保有、使用が許されるものではない。

VXという化学兵器が戦場ではなく、空港という公共の場で、しかも金正男氏という民間人に使われたということは単なる暗殺という意味を超えた重大な意味を持つ。国家が公共の場で、民間人に化学兵器を使用したということは明らかに「レッドライン」を越えている。

韓国国情院「事件は保衛省が主導」

韓国の情報機関、国家情報院は2月27日、国会の情報委員会で金正男氏暗殺事件は「北朝鮮の金正恩党委員長が組織的に展開した明白な国家テロだ」と断定した。

さらに、事件にかかわったとされる北朝鮮籍の8人の男性のうち、4人が国家保衛省、2人が外務省に所属しているとした。

国情院によると、犯行は暗殺実行組と支援組に分かれ、暗殺実行組は別々に活動していたがマレーシアで合流したとした。

金正男氏の顔にVXを塗ったベトナム人の実行犯、ドアン・ティ・フオン容疑者(28)には保衛省所属のリ・ジェナム(57)、外務省出身のリ・ジヒョン(33)の2容疑者が接触、犯行を持ち掛けた。

インドネシア人の実行犯、シティ・アイシャ容疑者(25)には保衛省所属のオ・ジョンギル(55)、外務省出身のホン・ソンハク(34)の2容疑者が接触、犯行を持ちかけた。

また国情院は、在マレーシア北朝鮮大使館のヒョン・グァンソン2等書記官(44)は、保衛省から派遣された駐在官で、正男氏の動向を追跡し実行犯グループに伝える役割などを担ったとした。

保衛省と外務省以外は北朝鮮の国営航空会社職員や内閣直属の貿易会社シングァン貿易の職員とした。

国家情報院は事件直後の2月15日にはこの事件は北朝鮮の工作組織、偵察総局が中心になって実行したとみていたが、これを国家保衛省と外務省が共同で行ったと修正したものだ。

これは容疑者8人の氏名や写真が出たことからその身元を割り出したとみられる。

偵察総局と国家保衛省

北朝鮮の偵察総局と国家保衛省はどちらも公安機関だが、少し性格が違う。

偵察総局は2009年に軍偵察局と朝鮮労働党の党作戦部、党35号室を統合して出来た組織だ。

最初の偵察総局長は、現在は党統一戦線部長を務めている金英哲(キム・ヨンチョル)上将(当時)だった。これは対南工作や海外テロを主に担当してきた。

一方、国家保衛省は、国家安全保衛部が昨年6月に名称変更した組織だ。人民保安省が警察なら、この国家保衛省は秘密警察でCIAのような組織だ。

これまでは海外テロはだいたい偵察総局がやってきたので、国家情報院も当初はそう考えたようだ。

国家保衛省の主な業務は国内の情報収集、反国家分子、反党分子の摘発だ。海外へ要員を派遣はするが、情報収集などが主で、テロはあまりないように思う。

規模が大きい大使館には保衛省の職員が派遣される。海外でのテロではなく、大使館員の監視が主な業務だ。

今回、国家情報院はリ・ジヒョン容疑者とホン・ソンハク容疑者を外務省所属としたが、これは過去に海外公館勤務の実績があったからかも知れない。

そうであれば、本籍は外務省でなく保衛省所属で海外へ派遣された可能性もあるように思う。

今回の暗殺事件では空港の監視カメラに犯行の様子が撮られたり、インドネシアとベトナムのどうみても素人の女性をスカウトしてテロの実行をやらせるなど、北朝鮮の従来の海外テロのやり方と違うのは、あまり海外テロに慣れていない保衛省の犯行だったためなのかもしれない。

金元弘は軟禁中

しかし、そうなってくると、極めて不可解な謎が生じてくる。

国家情報院の李炳浩(イ・ビョンホ)院長は2月27日の国会情報委員会で、金正男氏暗殺事件について説明すると同時に、北朝鮮内部で現在進行中の国家保衛省への摘発についても説明を行った。

既に、韓国の統一部は2月3日に、国家保衛省のトップ、金元弘(キム・ウォンホン)国家保衛相が1月中旬に解任されたと明らかにした。金元弘氏の軍事階級も大将から少将に3階級降格されたとした。

さらに韓国政府関係者は、保衛省次官級を含む「多数の幹部」が処刑されたとした。

国情院は「金元弘氏は党組織指導部の調査を受け、現在は軟禁中。国家保衛省の次官級5人以上が高射銃で銃殺された」と説明した。

さらに保衛省にあった金正日総書記の銅像も「保衛省には金正日総書記の銅像を置く資格がない」として他に移されたという。

党組織指導部による保衛省の調査は現在も続いており、さらに犠牲者が出る可能性も指摘されている。

金元弘保衛相の容疑は金正恩党委員長に「虚偽報告」をしたことだとされているが、それがどのような内容の虚偽報告だったかは不明だ。

トップ不在で金正男氏暗殺?

韓国の統一部は、金元弘保衛相は1月中旬に解任され、組織指導部の調査を受けているとし、国家情報院は現在軟禁中とした。

しかし、金正男氏の暗殺は2月13日だ。国情院は金正男氏の暗殺は保衛省主導で行われたとしたが、その保衛省のトップは不在だ。

単に不在であるばかりか、次官級幹部5人以上が処刑されるなどの組織的な危機に直面している。

国家情報院が主張しているように金正男氏の暗殺は2012年から「スタンディング オーダー」(取り消されるまで有効な命令)だったとしても、Xデイを前に「決行」の報告を上げ、本国の最終的な許可を得るはずだ。

マレーシアの実行部隊は誰に報告をしていたのであろうか。

普通に考えれば、この事件は金正恩党委員長の許可なくは行えないはずだ。最終的には報告は金正恩党委員長に行くとしても、マレーシアの実行部隊に最終的な判断を示す勢力は存在するはずだ。

金元弘保衛相の解任と金正男暗殺事件が関係しているのか、無関係なのか? 関係しているとすればどういう可能性があるのか疑問は広がる。

党組織指導部による一元支配か?

金正恩体制がスタートして5年余が経過した。2012年7月に李英鎬(リ・ヨンホ)総参謀長が粛清された。2013年12月には張成沢(チャン・ソンテク)党行政部長が粛清された。

張成沢氏粛清を断行した中心勢力は党組織指導部と国家安全保衛部(当時)だった。組織指導部は党内で拡大する党行政部との権力闘争の側面を持っていた。

保衛部には、張成沢氏が1997年ごろから人民保安部を動員して国家安全保衛部を圧迫した「深化組事件」への恨みがある。党組織指導部と国家安全保衛部が両輪となって張成沢氏粛清を行った。

現在進行中の国家保衛省への査問で、金元弘氏が粛清を逃れることができるのか、復権できるか。2012年7月の李英鎬総参謀長の粛清では、総参謀長の解任だけが発表されたが、その後、粛清されたもようだ。

金元弘氏が「少将」の軍事称号を持っているのは、現時点ではまだ粛清を免れている根拠ともみえるが、部下が処刑されている状況では党組織指導部の調査が終わった時点で最高指導者の判断が下されるとみるべきだろう。

金元弘氏が粛清されなくても、国家保衛省が傍若無人ぶりを発揮した時期は過ぎ、党組織指導部の権勢下に組み込まれる可能性はある。

そうなれば、北朝鮮は金正恩党委員長とそれを支える党組織指導部という一元化された指導体制になるのかも知れない。

しかし、「白頭の血統」を無視した金正男氏の暗殺、化学兵器VXを公共の場で民間人に使ったという2つのレッドラインを超えた金正恩体制の前途はこれまでになく厳しいものになろう。(つづく)

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平井久志

ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

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(2017年3月2日フォーサイトより転載)

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