上野千鶴子さんの東大入学式祝辞が、20年以上ネット業界にいる自分に跳ね返ってきた話。

「学問にもベンチャーはある」という言葉は、ネット業界に長く関わってきた自分の胸に響いた。

上野千鶴子さんによる東大入学式の祝辞を目にしたのは旅先だった。

その時は全文読んで個人的な感想を持ち、それで終わりだった。
数日後旅を終えてネットに割く時間が増えた結果、賛否両論吹き荒れていることを知ってからこの数日、頭の中にずっと居座っていて、チラチラと考え続けている。

最初読んだ時「よくぞ言ってくださった」と膝を打つ……と同時に「抑えめであるとはいえ相変わらずのファイティングポーズでいらっしゃる」とも感じたのだった。
一方で「まだ、これぐらいの攻撃性、強度を持ちえないと、刺激になってくれずメッセージを受け取ってもらえない時代環境でもあるのは確かだな」ということも痛感した。

本当はもっと穏やかに語りたい、不要な敵は増やしたくない、攻撃対象から外れる男性も多くいるし、攻撃する必要がなくむしろ擁護賞賛すべき環境もあることに理解を示した上で問いたい、それでもこの祝辞を私は皆に読んでほしいと心底欲した。
多く含まれる攻撃性に目をつぶっても、広がってほしい言葉と趣旨がそこにはあったからだ。
がんばってもそれが公正に報われない社会があるということ、頑張ったら報われるだけでそれは素晴らしい環境であること、自分が勝ち抜くためだけに頑張ることの独りよがりを示してくれたこと。

弱者と強者はいとも簡単に入れ替わる。

「学問にもベンチャーはある」という言葉も響いた。

私が所属する広告業界にも、ベンチャー的領域があった。

デジタル領域だ。

もう20年ほど前ネット活用がまだ黎明期だった頃、TVラジオ新聞雑誌活用が主流の中、ネットを管轄する部門の立場は弱く、時に差別されることもあり、理解されない怒りがあった。
それ故に、かなりの攻撃性を持っていた事が頭に浮かぶ。
いや、闘わなければ勝ち取れないものが確かにあったのだ。

ネットがコミュニケーション構造を変える、マーケティングを変える、それに乗れないやつは死ぬのだ、さあどうするお前ら、いつまで「ネットはよくわからない」と言い訳し続けるのだ?……みたいな攻撃的論調が主流だった。

それによって不要な衝突を起こしたことも勿論合ったけれど、時間の経過とともにそんな攻撃性を持たずとも、理性的に語れば理解も仲間も増える環境へと変化していっている。

そして今、黎明期の時代からずっとファイティングポーズをやめられない人が、なんだか不思議な……こう、どう関わっていいのかわからない手触りの人になっているのを感じる事が増えた。
あなたは一体いつまでベンチャーの顔を、理解されないパイオニアの顔を、弱者の顔をしているのかと。
強者になろうとする弱者の戦いをいつまで続けるのかと。

また別の話になる。
最近喫煙者が肩身が狭いと口にする声を耳にする。
場面によっては疎まれている、弱者だと訴える。
まあ実際そう感じる場面に日々遭遇しているのだと思う。

場のルールの範疇で喫煙する権利は守られているし、喫煙を好まない側が必要以上に嫌厭するものではないが、そうなっていないことも多い。
嫌煙家たちも沢山いることであるし。

一方で、例えば8人で飲んでいて私以外全員喫煙者だった時「分煙や禁煙じゃない店でいいよね?」と7人から言われたら私は断れない。
あるいは仕事のチームで私以外全員喫煙者だった時、喫煙ルームで会議室では出さなかった話題を頻繁に交わされたら、私だけが知らない事が増えて、阻害されているように次第に感じてしまうだろう。

しかし広く外に出れば、おそらく喫煙しない私のほうが多数派に見えるだろう。

弱者ポジションから、恵まれている人に過度な攻撃性をぶつけることを、ネットスラングで「下から目線」と言ったりする。
たしかにあなたは弱者かもしれないが、それは流石にやりすぎだろうという、揶揄と諦念を含んだ言葉に感じている。

正直、祝辞の内容にその気配を感じたのは確かだった。
今の時代、いまだこの攻撃性と、弱者ポジションを保持し続けるのか、と違和感を持った自分がいたし、そもそも目の前の相手は本当に
なんだかちょっと時代錯誤じゃないのかな、と。

……それでもやはり冒頭に述べた通り「いや、今の自分の環境が恵まれているだけで、まだまだこの攻撃性が必要な環境が日本にはたくさん残っていることが現実なのだろう」という結論に至った。
だからやっぱりこれは多くの人に受け取ってもらうべきものである、と自分の中で整理した。

と、ここまでが大体旅先で感じたことだが、この後ネット上の反応に目を通していくに連れ「反発している人は何に反発しているのだろう?」という疑問が浮かんだのだった。

「指摘」の拳を振りかざす“強者性”、それは私の中にもあるのではないか。

「趣旨はわかるけど」と前置きしながらも、一体何故ここまでの攻撃性を持って「指摘」の拳を振りかざすのだろうか。
そこまでして躍起になって、文章の粗や引用の粗、態度の粗、礼儀の粗を探さねばならないものなのだろうか?

そんな、反論ではなく指摘の嵐を眺めながら浮き上がってきたのが「あれ?これ自分の中の痛い部分を突かれてイラッとした気持ちを正当化したい行為?」という方向性だった。

「自分は悪くない!糾弾される側ではない!なぜならこの糾弾者が破綻しているからだ!」という声にも見えてくる。
無事に叩ける要素を見出して、溜飲を下げている状態。
そして自分を叩かれないポジションに置こうとする。

ここまできて、私はハッとした。
私もまた、他の領域でやっていないだろうか。

自分とは違う意見、あるいは自分の立場と敵対する立場の人の目線の意見などを聴いて、イラッとした時。
自分の方に原因があるのではなく、相手が悪い、相手のほうが間違っていることにしようという思考回路が働いていないだろうか?
いや「いないだろうか?」とかすっとぼけている場合ではない、確実にいる、そういう自分は確かにいる。

そうか、強者であるということは、自分の悪さを認められるということでもあるのだなと辿り着く。
他人の我慢の上に自分の幸せが成り立っていないかどうかを、考え続けながら生きる社会。
それが祝辞にある「弱者が弱者のままで尊重される社会」を保持することにもつながっている。
気を付けよう、心掛けよう、認めよう。


そしてここまで色々と考えさせられる時点で、やはりあの祝辞は素晴らしかった、としみじみと感じ入るのである。


※改めて2019年東大入学式祝辞全文リンクを貼っておく
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

この記事は、2019年4月19日にnoteに掲載された記事を転載したものです。

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