今も「戦後」であり、そして「戦前」かもしれない。『暮しの手帖』に届いた2390通の手記は伝える

日々の営みの描写や記録が、戦争が始まる前の不気味さを教えてくれる。

平成が終わり、令和が始まった。流れに押し出されるように、昭和という「戦争の時代」はますます遠ざかっていく。

令和元年にあたる今夏、雑誌『暮しの手帖』は庶民の体験を書籍化するプロジェクト『戦中・戦後の暮しの記録』シリーズを完結させた。

現在の『暮しの手帖』編集部に、昭和の戦争を肌身で知る当時者はもういない。けれども、全3集を手掛けた担当編集者は、「私たちには、戦争を体験した人々と共に生きた世代としての責任がある」と矜持を語ってくれた。

戦争報道が一段落した8月終わりに、担当編集者の村上薫さんと、『暮しの手帖』編集長である澤田康彦さんに話を聞いた。

(左から)「暮しの手帖」編集長の澤田康彦さん、「戦中・戦後の暮しの記録」シリーズの担当編集者村上薫さん
(左から)「暮しの手帖」編集長の澤田康彦さん、「戦中・戦後の暮しの記録」シリーズの担当編集者村上薫さん
Kaori Sasagawa

戦後は「遠い過去」ですか?

Kaori Sasagawa

――『戦中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へ』の背景については昨年お聞きしましたが、続編として『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』『なんにもなかった(同)戦後編』の2冊が刊行されることになった経緯を教えてください。


村上:第1集の『戦中・戦後の暮しの記録』を作り始めた当初は、続編を出す予定はなかったんです。

でも2390通もの応募原稿を読んでいく中で、どうしてもテーマや地域性が重なるなどして、掲載に至らなかった手記が数多くありました。

東京大空襲や満州引き揚げの話などは、どうしてもエピソードが似通ってしまうんですね。それでもやはり、その方だけの、独自の体験や視点がある。そういった手記をどうにかして伝えたい、という思いから「拾遺集」という形で続編を出すことになりました。

澤田:第1集は、写真や絵をたくさん盛り込んだ関係で必然的に大きい判型となりましたが、続編にあたる2冊はとにかく手記、文章を多く入れたかった。それならば前回よりは小さく、手に取りやすい価格ということでA5判型になりました。

鉛筆で書かれた原稿。
鉛筆で書かれた原稿。
Kei Yoshikawa

村上:『暮しの手帖』が作る戦争の本とは何か、ということはシリーズを通して常に頭にありました。近代史の書棚に収められるような、若い人がとっつきにくいと感じてしまうような本にはしたくなかった。

澤田:僕は1957年、つまり敗戦からたった12年ひと回りの生まれなのですが、既に戦争についてはわからないことのほうが多かった。母親は当然、戦争をずっと引きずっていましたが、自分にとっては「ガダルカナル? ラバウルって何?」という感じで。

1950年代を境に「もはや戦後ではない」と意識が作り変えられて、そんないわゆる平和ボケ状態のまま、ずっと今日まで進んできた。それが今の日本だと思っています。

村上:私たちは「戦後」を切り離された過去のものだと思ってしまいがちですが、そうじゃないんですよね。

あの頃と地続きにある今も「戦後」であり、そして「戦前」かもしれない。
続編となる『戦争が立っていた』『なんにもなかった』では、そのことを強く伝えていこう、という思いがありました。


昭和の闇を知っている世代の責任がある

最終的に2390通の応募があった。
最終的に2390通の応募があった。
『暮しの手帖』編集部

――第3集まで刊行したことで、どんな反響がありましたか。

村上:教育の現場にいる方々からの感想が予想以上に多いことにまず驚きました。『戦中・戦後の暮しの記録』を出版した背景について、これまで日比谷図書文化館や表参道の山陽堂書店、長野の辰野図書館などで今回のプロジェクトについての講演をさせていただく機会があったのですが、そこにも教育関係者の方がたくさん参加してくださって。

そういった方々が、「若い世代にどうやって戦争の記憶を伝えたらいいのか悩んでいて、何かそのためのヒントを得られるのではと思って参加しました」と一様におっしゃるんですね。

今、大人になっている我々の世代は、戦争自体は体験していなくても昭和の闇の気配はなんとなくわかるじゃないですか。暗い闇、過去があったことを、肌で感じられる部分がある。

けれども今の小中高生は、本当にまるでわからないんです。雰囲気すらも。戦争体験の文章をいくら読んでも、イメージできないようなんです。

そこを埋めるための手がかりを探して読んでくださった方がこんなにも多いんだな、という印象を受けました。

Kaori Sasagawa

――終戦から74年。戦争体験者がいなくなっていく中で、今の日本は語り継いでいくための方法を模索する段階に入っています。

村上:それはもう我々の世代の課題ですよね。祖父母をはじめ、あの時代を知る人たちと共に生きた世代としての責任が、私たちにはある。そう思っています。

本を作っている間はずっと、自分の不勉強さに頭を抱える日々でしたね。「私、戦争についてなんにも知らなかったんだ」と痛感しました。

澤田:でも村上は向いています。本当に丁寧なんですよ。応募してくださった方々と内容について確認するときも、ずーっと長電話しているんです(笑)。皆さん、すごくじっくり語ってくださるから。

村上:「戦争の記憶を、どうしても次の世代に伝えなければいけない」という必死な思いが、電話口から伝わってくるんですよ。

投稿に添えられたお手紙も、まるで遺言のような気持ちで書いていらっしゃって。自分がここで書いておかないと、犠牲になった人たち、書き残せなかった人たちの分も背負っているのだから、という思いが溢れんばかりに。お聞きしているうちに一緒に何度も泣きました。とても切り上げられないんです。


ミサイルにも戦争にも、人間は慣れてしまう

Kaori Sasagawa

――「戦中編」のタイトルは、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という渡辺白泉の俳句にちなんでいます。戦争はある日唐突に始まるのではなく、気づけばひっそりと日常に立っていた。日々の営みの描写や記録が、戦争が始まる前の不気味さを教えてくれる。

澤田:(韓国政府の)GSOMIA破棄のニュースによって、また一歩前進してしまいましたね。何の検証もせずに、ただ感情に流されて「韓国とは断交したらいい」「戦争だ」なんて簡単に言ってしまう人々もいる。勢いのいい言葉はキケンです。歴史から学習しないんですね。

北朝鮮のミサイル報道もそうですが、人間は慣れちゃうんですよ。それが怖い。異常なことがだんだんと当たり前のことになっていく。その変化の瞬間に私たちはもっと敏感でいなければいけない。

村上:2390通の応募原稿を読んでいても、ご自身の体験談の最後に「今の時代の空気は、あの頃(戦前)と似ている」と書き添えてくださった方が多かったんですね。じわじわと、きな臭くなっていく空気が似ている、と。

庶民にとっては、戦争って始まるときも終わるときも劇的ではないんです。気付いたときにはもう巻き込まれていて、また気が付いたら「どうやら終わったらしいよ」と言われるようなものだった。

戦争の被害者は誰なのか

終戦後の新橋闇市(東京都・新橋)撮影日:1945年12月
終戦後の新橋闇市(東京都・新橋)撮影日:1945年12月
時事通信社

――そして1945年8月15日を境に、「なんにもなかった」戦後という時代が始まった。戦中より戦後数年のほうがもっと暮らしが苦しかった、という証言も多く見られました。

村上:終戦を迎えても、日常はそんなにすぐには変わらない。相変わらず戦地へ行ったお父さんはいつ帰ってくるのかわからないし、食糧も日用品もすべてが足りていなかったんですね。

姉は起き上がって「お腹がすいてねむれないよォー」と何度も訴えた。私も同じ思いであったが、その時こちらを振り向いた母の悲しそうな顔を見た時、声を出せなかった。
(『なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編』)

澤田:誰にとっても本当に大変な時代だった。でも、その前に避けようがあっただろうと考え続けることも、とても大事なことですよね。

あの戦争で被害者になったのは日本人だけではなかった。日本にとって8月15日は終戦記念日ですが、韓国にとってその日は日本の植民地支配から解放された日(光復節)ですから。そういった立場の違いを理解する客観性、知性が必要ですよね。

村上:今回のプロジェクトに取り組むにあたって、弊社の先輩たちに相談に行ったんですね。そのときに「今ならインターネットもあるし、海外からの投稿や、いろんな国の人の証言が集まった本になるといいよね」という話が出たんです。日本人だけの戦争の記録になってしまうと、どうしても被害者意識だけが強く出てしまう面もありますから。

それで募集要項には「海外からの投稿も歓迎します」と添えたのですが、残念ながら在日の方、朝鮮や中国などの方からの応募はありませんでした。日本に収容された外国人捕虜の方のお話などは入れられたのですが。

澤田:在日の方々がどんな苦労をしたのか。戦争終わったときの日本ではどんなことが起きていたのか。そういった体験談をできればひとつでも入れたかったですね。

戦後70年を経て、繋がった縁

人の縁がつながり家族のもとに届いたお守りは、「暮しの手帖」編集部に寄贈された。
人の縁がつながり家族のもとに届いたお守りは、「暮しの手帖」編集部に寄贈された。

――「戦中・戦後の記録」一連のシリーズが完結しましたが、読者からはどんな声が届きましたか?

村上:このシリーズがきっかけで私が「会わせ屋さん」のような役割を果たすことにもなったんです。本を読んでくださった方から、「この人を知っている」というお問い合わせがあって。

「ここに掲載されている人は私の同級生に違いない。ずっと連絡を取りたかったが消息がわからずにいた」「爆撃にあった我が学び舎のことを書いてくれて、一言ありがとうを伝えたい」「同じ引き揚げ船に乗っていた人だと思うので、ぜひ当時のことを語り合いたい」「満州の教会で日曜日に一緒に礼拝に行っていた人だ」……。

個人情報ですから連絡先を直接お伝えするわけにはいきません。となると私が間に入ることに。そういった経緯で、いろんな方々にサポートしていただきながら、これまでに10組ほどのご縁をつなぐことができました。

皆さんご高齢ですから、「いつか会いたい」じゃないんですね。すぐにでもお会いしなくては、というお気持ちが強い。ですから、積極的な「お尋ね」の問い合わせが編集部に来ています。

応募者の中には、誰かに気づいてもらうために「あえて旧姓で掲載してほしい」という方もいらっしゃいました。

澤田:そういう意味では、10年後にはきっと実現できないことでしょう。ギリギリ今のタイミングだったからこそ間に合った、ともいえるかもしれません。

村上:月に2~3通ほど、掲載者の訃報がご遺族から届きます。「最後にいい記念になりました」「お葬式でみんなに本を配りました」などのお手紙を頂くこともあるんです。

そして、今でもポツン、ポツンと投稿が来るんですよ。募集はもうしていないのですが。投稿してくださる方々も、「募集が終わっているのは知っていますが、この本を読んで私も書きたくなりました」と添えて送ってくださるんです。

澤田:戦争の体験談って、本当に貴重なんです。でも身内にとってはおじいちゃん、おばあちゃんの日常の繰り言になりがち。

今回の応募は、身内の方による「聞き書きも可」という形をとってみたのですが、結果として全体の20%が聞き書き形式の原稿でした。

それはつまり、祖父母の体験をたんなる繰り言と捉えず、ちゃんとご本人から話を聞いて、「聞き書き」という形で言葉として定着させたご家族がいるということ。そこに介在した思いやりも含めて、尊敬します。そういうのも成果のひとつと考えています。

――NHKスペシャルから生まれた「#あちこちのすずさん」も今の時代ならではの繋がり方でした。祖父母の戦争体験を聞いた若い世代が、SNSで拡散していく。

澤田:子どもたちに何を伝えていくか、先達から何をいただくか。それを続けていくことこそが、暮らしという人の営みであり、私たちの会社が一番大事にしていることでもある。

普通の営みを分断してしまったのが、あの戦争だった。

『暮しの手帖』は反戦雑誌ではありません。でも『暮しの手帖』を作ることと、『戦中・戦後の暮しの記録』を編むことは、結局同じことなんです。

美しい未来に向かって、どんな暮らしを私たちは選び、作りあげていったらいいのか。

未来って海原にぽっかり浮かぶ理想の島ではないんですよ。今この足場からずっと広がって続いている地平こそが、未来になる。だからこそ間断なく努力を積み重ね、意識を高く持つことが大事なんだと思います。

(左から)創業者の大橋鎭子さんと初代編集長の花森安治さん。
(左から)創業者の大橋鎭子さんと初代編集長の花森安治さん。
Kaori Sasagawa

――「戦後とは、戦前のこと」の言葉にハッとさせられました。気づけば知らぬ間にカードが裏返されてしまうのかもしれません。

澤田:人類の歴史を振り返ってみると、為政者が庶民をうまく使って、正義を振りかざしながら隣の国と戦うことの繰り返しなんです。国民を守るために国家があるんじゃない。逆なんです。国家を守るために、国民が使われる、というのが歴史的真実。

だから、私たちはもっと疑っていい。「国を疑う」ことを標準装備にしていいくらいに。

戦争によってどんな悲惨なことが起こりうるのか、ということを身をもって語ってくれる先輩たち、証人が今も大勢いるのですから。

近い将来にはまた、子孫である私たちの町は戦場と化すでしょう。また空襲から逃げ惑い、どぶねずみのように彷徨い、残飯に飛びつき、誰かの死体を焼かねばならないかもしれません。もはや戦前である?
まさか、ですか? 本書を読んで尚そうおっしゃるとしたら、あなたはあまりにも無防備でノウテンキなお嬢ちゃまお坊ちゃまだと、私どもは思いますよ。
(『なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編』 まえがきより)

暮しの手帖社 創刊70周年記念特設サイト

(取材・文:阿部花恵 編集:笹川かおり)

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