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2019年11月28日 07時00分 JST | 更新 2019年11月28日 09時43分 JST

イトマン事件から28年。“利用し、利用されていた”許永中氏と戦後の日本社会。

ハフポスト日本版、許永中氏インタビュー第2弾。許氏は、自身が引き起こしたとして有罪判決を受けることになった一連の事件について、どう語るのか。

トラブル処理をする人間として政界へ

在日韓国人2世として大阪で生まれ、“戦後最大のフィクサー”と呼ばれた許永中氏。いわゆる不良として高校時代を過ごし、大学へ進学。在学中も「身分は大学生だけど、不良学生やった」と自身で振り返る。大学を中退してからは一層、不良の世界へのめり込むようになったという。

「一番最初に大きな現金を見たのが、5000万円。21歳か22歳の時かな。事業らしい事業はしてません。単なる不良、単なる取り立て屋みたいなもんですね。でも、悪い人からですよ。悪くない人から金取るのは趣味じゃないし。5000万円まとめて満額回収できた時はスカっとしましたね」

許氏は「暴力団の組員になったことはない」と断言するが、許氏の話の大半には、暴力団の組織名やその幹部の名前が登場し、ハタチそこそこで5000万円もの大金を扱っていたという話からも、改めて、許氏の身の回りには暴力団やその関係者が大勢いたことが伺える。

そして23歳の時、大阪から東京へ。「大阪にいた時は、政治の世界とは全くというほど関係がなかった」という許氏だが、東京に出てからは、徐々に政財界とも繋がりが増えていったという。

「流れの中でね、とんでもないお偉い人と接点をいただいたんです。面白い男と思われたんでしょうね。『東京に来たらいらっしゃい』とか『こういうことがあるさかい、一緒に行かないか?』とかね。ただ、政界財界いうても、表に出てる綺麗事の世界じゃなしに、トラブルがある分野の処理をするような場面で、私は最初スタートしましたね。門前の小僧じゃないですけど、やっぱり実践していくとノウハウ、落とし所、攻め所が、わかるようになるんですね」

そこで許氏は、様々な交渉事の作法を学んでいったという。それに伴い、扱う金額も次第に大きくなり、1回の案件で動かしたお金は「兆は超える」と語る。

許氏は、頭の回転の速さ、相手の懐に入る巧みさ、話術を存分に発揮し、“人たらし”と呼ばれていたと言われている。次第に、暴力団組織、財界、政界にわたるまで様々な人たちから、“トラブル処理”を頼まれるようになっていった。

一時期は、地方テレビ局の関連会社の社長に、また、ある地方新聞の実質的なオーナーとまで言われるほど、影響力を持つまでになった。

許氏がそこまで人脈を広げ、多額の金を動かし、影響力を持った背景には、許氏が日本社会を利用したのと同時に、日本が高度経済成長していく中で、許氏という人物を利用する人たちがいたこともまたひとつの事実だろう。

イトマン事件は「作られた事件」と主張

そんな中、1991年。大阪の総合商社「イトマン」に対して、およそ528億円もの高値で大量の絵画を購入させ、およそ263億円の損害を与えたとして、許氏は特別背任の疑いで大阪地検特捜部に逮捕。その後、起訴され、7年6ヶ月の実刑判決を受けることとなった。

もともと繊維商社だったイトマン(当時は伊藤萬株式会社)は、経営悪化により、主力銀行であった住友銀行の社長・河村良彦氏を社長に迎え、経営の立て直しを図っていた。そんな中、許氏はイトマンに対して、法外な価格で絵画への投資話を持ち掛け、イトマンに対して損害を与えたとされる事件だ。他にも、ゴルフ場開発などの投資を持ち掛け、損害を与えたとされている。

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イトマンを巡る一連の事件では、暴力団組織から大手企業まで、多くの人々の思惑が錯綜していた。

許氏は、イトマン事件について未だに罪を認めておらず、一貫して「作られた事件」だと主張し続けている。

「絵画の分だけでもね、何百億と私がイトマンにね、どうこう言うけどね、『資金がショートしてどうにもならん』ってイトマンの河村さんから頼まれてね。二者択一。私を守るか、住友銀行を守るか。みんな住友を守りますよね。これもやっぱり私が在日だったから、そういうことになったでしょう。私がいわゆる被差別の人間であってもね、日本人ならばね、そこまでしなかったと思いますね」

その後、イトマン事件の公判中に、法事で訪れていた韓国で失踪。しかしその間、堂々と日本に戻り悠々自適な生活をしていたという。

失踪から2年2月後の1999年。東京・お台場の高級ホテルで身柄を拘束された。

2005年10月に懲役7年6カ月・罰金5億円の判決が確定。更に、石油卸会社の石橋産業に対する手形詐欺事件でも、逮捕、起訴され、2008年に懲役6年の実刑判決が確定した。

その後、2012年、許氏の希望により国際条約に基づき韓国へ移送。ソウル南部矯導所に服役し、2013年9月に仮釈放。2014年9月に刑期を満了し、現在も韓国・ソウルで生活している。

もしお台場のホテルで身柄を拘束されていなかったら、その後、許氏はどこへ向かっていたのだろうか。

「この世に“たら”はないじゃないですか。私はこの世の理は全て必然やと思ってます。偶然はないと思ってます。今、特に思ってます。だから私が44歳で、ああいう事件(イトマン事件)に遭遇したというのは、そうしなかったら私、成人病のオンパレードで死んどったでしょ。もしくは殺されとったでしょうね。あの事件がなかったら本当にこの世に居てませんて。病気で逝ってる可能性も高いしね。なんせ裁判中に二回心臓止まってるしね」

許氏は、一連の事件がなかったら“今は生きていない”と繰り返し話した。

3000億円はどこに消えたのか?

一連の事件について、容疑事実を認めてないとはいえ、許氏は起訴され、合計13年半の実刑判決を受けている。反省の気持ちはないのだろうか。

ATSUSHI HOSOYA
インタビューに答える許永中氏

-反省の気持ちはあるんですか?

「反省はしてるよ」

-どのポイントで?

「やりすぎたりとか、むちゃしたとか、当然あるやんか、完璧じゃないから人間なんてのは。だからああすればよかったとか反省することはいっぱいあるわな。だけど事件じゃないやろ?ということ。それが刑事事件なの?と。至らんことが刑事事件じゃないやんか。だから自分の至らなさについては反省もしてるし、後悔もしてるし」

-その反省っていうのは、もっと自分がこうすればよかったっていう意味での反省なんですか?

「そうそうそう。だけど、今となっては、この歳までくると、そんなことは恩讐の彼方にある。そんなことよりも、ちょっとでも健康で10年間生きられたら、あれができる、これができる、あれをせないかんって頭がいっぱいやん。そんな済んだことを、今さら証明して何になんの?」

許氏は、あくまで容疑事実については認めず、“自分の至らなさ”については反省の言葉を述べた。

最後に、一連のイトマン事件で、闇に消えたと言われている3000億円についても尋ねてみた。

ー(イトマン事件で)闇に消えたと言われている3000円億円はどこに行ったんですか?

「3000億円?3000億って言ったら見たことないでしょ?1000億言うたら1億のパックが1000個で1000億じゃないですか。1000個言うたらどれだけの量になんの?それが3つ言うたら、どれだけの量なる?1000億のコンテナ言うのも、ごついで。

で、今はもうお金というのは現物が移動するということは、ほぼないやんか。大きい金は。全部電子送金であり、全部そうでしょ。そんなんを、ちょっとでも動いたら、世界中に瞬時に情報がわかってしまうやん。隠しようがないもんな」

-今はそうですけど、昔は違いますよね。 

「昔は全然そんなん関係ないな。韓国は5万ウォン札が一番おっきいねんけど、その3分の2が市場に流通してないわけ。全部どっかにかたまってあるわけやんか。何千兆というお金がね。億じゃなくて兆やから。だから今日本も韓国も考えているのは、新しい紙幣をすることやね。そしたら古いやつどうするの?出すに出せないやんな?そういうことや」

結局、許氏は、3000億円の行方について明確な回答はしなかった。 

では、世間の許氏に対する見方について、許氏自身はどのように感じているのだろうか?率直に聞いてみた。 

「僕は若い時から、周りが敵ばかりでも一人の理解者がいれば良いと思っている。だから周りに誤解されようが何されようが、理解者が一人おったらそれで満足。僕は人にも世の中にも迎合しないからね」

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11月29日、続編「許永中氏が語る日韓関係。『日韓どちらも振り上げた拳を下ろせなくなってる』」を公開予定。