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2019年11月29日 06時00分 JST

許永中氏が語る日韓関係「どちらも振り上げた拳を下ろせなくなっている」

ハフポスト日本版、許永中氏インタビュー第3弾。韓国・ソウルで取材。日韓関係について、どう見ているのだろうか。

“戦後最大のフィクサー”と呼ばれた許永中氏。許氏いわく、「日韓関係の国家的な話し合いの場にいたことはない」が、かつては複数の日本の政治家だけでなく、故・全斗煥元大統領の実弟を始め、韓国の政治家とも深い繋がりをもっていたという。

日本と韓国を結ぶ在日韓国・朝鮮人の存在

日韓関係という政治、外交の舞台に、なぜフィクサーと呼ばれるような人物が関与するのだろうか。在日問題に詳しいジャーナリストによると、「かつては日韓関係において、在日韓国・朝鮮人たちが、ある種の橋渡し役を担っていた一面がある」という。

「在日韓国・朝鮮人のルーツは朝鮮半島ですが、2世以降は日本で生まれ育っています。戦後、そうした人たちは様々な差別を受けながら生活してきました。

一方で、時には差別を利権に変え、生きてきた実態もあります。日本の政府や企業が何かしようとしても、民族の違いからうまく話が進まない。そうした時に、ビジネスとして韓国とうまく付き合っている在日韓国・朝鮮人を仲間として身近に置くことで、スムーズに事が運ぶようにしていたという一面があります。

お互いに、利用し、利用されていたとも言えるでしょう。良くも悪くも表と裏の橋渡しをしていた人たち。そうした人たちがフィクサーとして、戦後から最近まで暗躍していた実態があります。許永中氏も、そうしたフィクサーのひとりでもあったと言えます」

しかし、様々な法整備が進み、コンプライアンスの徹底がより求められる時代へと変わっていく中で、今は日韓関係においてある種の橋渡しを果たすような在日韓国・朝鮮人は、いなくなってしまったという。

許氏は現在、韓国・ソウルに住んでいる。2012年、国際条約に基づき、韓国での服役を希望してからは、ソウル南部嬌導所に入所。以降、日本を訪れていないという。正確に言えば、服役場所を日本から韓国に変更するため、日本での特別永住者資格を捨てることを選択。そのため現在は、日本に来たくても入国できない状態なのだ。

久しく日本を訪れていないとはいえ、「今も日本から様々な人たちが頻繁に面会に来る」という。

MicroStockHub via Getty Images
日本と韓国の国旗

「今の日韓関係はとんでもない場面にきている」

交渉事を得意とし、かつて日本と韓国、それぞれの政財界へと食い込んでいた許氏は、今の日韓関係について、どう見ているのだろうか。

「日韓関係、とんでもない場面にきましたね。一番欠けていて決定的に問題だと思うのは、やっぱりどっかで相手を尊重する精神。謙遜と言うか、謙譲の美徳。はっきり言って国対国の話なのにね、何でもアリになってるじゃないですか。これはないわな。昔はそんなことはなかったよね。国対国の約束だってそりゃ人間対人間の約束なんですよ。国を代表するトップ同士の。トップが決めたことをひっくり返したら駄目ですよ。私はそう思います。やくざでもそんなことないですよ」

暴力団組織を始め裏の社会を見てきた許氏は、「裏の人間であっても、最終的にはどこかで相手を尊重する気持ちを持っているものだ」と話す。

許氏は、他の質問の時とは違い、こと日韓関係については饒舌に、そして相当な熱量で話し始めた。

「今、日本と韓国はまさに、どうするつもりなの?と。はっきり言って、両方に責任があると思いますよ。とにかくお互いに認め合い、助け合い、傷を舐め合い、力を貸し合う。これが本当に断絶してるんですね、今。

(日本も韓国も)どちらもね、振り上げた手をどっかで下ろさないかんのにね、どちらが良いとか悪いとかいう次元じゃなしにね。やっぱり落としどころというか、着地点というのを定めて、そこに向けてやっていかんかったら、出口の見えないところに自分から突っ込んでいってね。もう本当に、焦りの気持ちで私もいっぱいです」

許氏は、今の日韓関係に大きな危機感を募らせていた。

さらに、今の日韓関係を良くしていくために、自身に対する社会の評価を理解した上で、自分ができることがあれば、関わりたいという思いをもっていることも語った。

「私は何のことも考えずに野次馬根性でしゃべってるんじゃありません。これは、はっきり、この段階で申し上げます。私は私で自分の出来る限りのことを何でもする、何でもしたいと思って動いています。それには、時間がありません。早急に、とにかく形としてやらないと、行動として示さないと。どんどん(日韓関係は)逆行していってるんですから。

私みたいなもんが、『おこがましい』とか、ほんとその通りなんですけど、私みたいな者にしかできないことやと思ってます。過去には、そういう人がたくさんいてはったんですね。私も見てきました。そういう人がおって、とんでもない大仕事してね、それは本音と本音のぶつかり合いでしたね。きれいごとじゃないですよ」

今でも「日韓のブリッジビルダーになりたい」

そこまでして許氏が日韓関係について並々ならぬ思いを持っているのは、やはり許氏が28歳の時に恩師からかけられた「日韓のブリッジビルダーになりなさい」という言葉だという。72歳になった今でも、許氏の中での大きな指針となっていた。

両親が韓国人ながら日本で生まれ、被差別地域で育ち、不良の世界で「チンピラ」をやっていたという許氏に「在日として生まれた意味」を与えてくれたというその言葉。

HIROKO YUASA
「日韓のブリッジビルダーになりたい」という言葉を強く繰り返した許永中氏。

「日韓のブリッジビルダーになる」という目標のもと、1986年、許氏は39歳の時、大阪と釜山を結ぶフェリー「大阪国際フェリー」を就航させた。その就航を巡っては、当時マスコミなどからは「覚醒時の密輸をするためだ」「船上でカジノを開くためだ」などと揶揄されるなど、話題となった。

当時、少なからず日韓の交流に寄与したことについては、以下のように振り返った。

「大きなことやったとは思ってませんけどね。どこまでも自己満足の世界。でも、私が約束した恩人に対して、ちっちゃいですけど、私として一つはできたかなと思う。その嬉しさと喜びはあります」

しかし、それも結局はその後のイトマン事件などの影響により廃業。さらには、一連のイトマン事件により「在日のイメージを貶めてしまった」と自戒する。

許氏が約13年半に及ぶ刑期を終えてから、およそ6年。公判中に訪れた韓国のホテルで狭心症の発作を起こし入院。その後の公判中にも、2回狭心症の発作を起こし意識を失うなど、何度も命の危機に瀕してきている。

並外れた人生を経た許氏は、「私、国立のホテル(刑務所)にいたおかげで健康になりました」と冗談を交えながら、改めて「日韓のブリッジビルダーになりたい」という思いをがあることを、熱く語った。

「とにかく日本と韓国とのブリッジビルダーにならないかんと。テーマが何であろうが、それに私は全力でぶつかっていきたいし、ぶつかっていかないかんと。それをやろうとする人が、残念ながら本当に私の知る限りこちら(韓国)にはいないもん。

私は役足り得ない人間だと思いますよ。そんな資格もなければね、私にはそこまでのあれもないんだけども、だけど、私みたいなもんでも、何かやらんかったら、誰もいないの」

「半島でもう一度オリンピックを」

許氏が、大阪と釜山を結ぶフェリー「大阪国際フェリー」を就航させた2年後の1988年。ソウルオリンピックが開催された。「オリンピア88号」と命名されたその船で、当時、多くの観光客が日本と韓国を行き来したという。

許氏は、「もう一度ソウルでオリンピックを」という願いを持っていた。

「極東の安定と平和なくしてね、アジアどころか世界平和はないんですよ。オリンピック憲章に書かれてる通り、世界平和を目指して、紛争してる国ほど参加させないかん。世界平和のためのフェスティバルがオリンピックじゃないんですか?

東京(オリンピック)だって二回やるんですから。ソウルだってもう一回できるんですよ。ソウルでなくても、半島でやっぱりもう一回オリンピックがしたいね。

もちろん東京オリンピックもこの目で見たいですよ。見たいですけど、やっぱりこの半島でね。自分がどういう立場で関与するかは別にしてね。積極的に動いて、私が生きてる間に半島にオリンピックを持ってきて、開会式で座ってみたいなという気持ちがあります」

そう語る許氏の表情からは、私には理解しえない、許氏がこれまでの72年という人生で積み上げてきた、「日本と韓国、そして朝鮮半島に対する特別な思い」があるのだと感じた。

「とにかく半島と日本は仲良くならないかんし、仲良くなります。絶対になりますって。なります。だから、なるために私、ちょっとでもええから、とにかくやります。私が能書きだけの男かどうかね、そう時間かからないて。答え出た時にまた取材に来てや」

現在は、韓国・ソウルで、介護事業や都市開発事業などを手掛けているという許氏。今後、日韓関係の改善のために、具体的にどのように動こうとしてるのか…。許氏が話すことが本当ならば、数年後には何らかの結果が出ているのだろう。

その時にはまた、許氏に話を聞きに行きたいと思った。

合計13年半の時間を刑務所で過ごし、これまで何回も倒れたことがあると聞いていたが、実際に会った許氏は、まさに第二の人生を歩み始めたとでも言うような爽快さと余裕、エネルギーを持っていた。

事件から28年。現在72歳の許永中氏は、刑期を終えた残りの人生を、どう生きるのだろうか。

ATSUSHI HOSOYA
インタビューを終えて、ソウル市内を歩く許永中氏と筆者。