「誠の心」を忘れてしまった日本――笹井芳樹先生の「まこと心」を問う

研究の不正行為の追求を司法の場に移すことでかわそうとする姿勢は、誰の利益にもならない。科学上の不正行為を追求し、問題点を明確に指摘できる場はあくまでアカデミアにあると考えるからです。

日々のビジネスの現場で、周囲ときちんとコミュニケーションをとるように求められることは多いでしょう。相手を尊重せよ、相手の話をさえぎって話をするな、等々断片的な注意事項の羅列で捉えていて、困惑している人もいるかもしれません。戦時中に文科省が中心となり編纂され、戦後 GHQ によって長らく封印されていた書物『国体の本義』。そこには、他者と意思疎通を図るうえで基礎となる思想が綴られている。

リベラルな媒体に掲載させるのもいかがなものか、と自問自答をしましたが、当時の一線級の知識人によって編まれた「英知」は引用したくなる魅力に溢れていました。

「まこと」の心は、人の精神の最も純粋なものである。人はまことにおいて、その生命の本をもち、まことによって万物と一体となり、またよく万物を生かし、万物と和する。

まことについては、賀茂真淵 (1697-1769) や富士谷御杖 (1768-1823) 等が特にこれを重んじて説いている。真言すなわち真事である。言と事とはまことにおいて一致しているのであつて、すなわち言われたことは必ず実現せられねばならぬ。この言となり、事となる根柢に、まことがある。御杖は心の偏心・一向心・真心というがごとくに分けている。偏心とは主我的な心であり、一向心とは頑なに行う心である。これらはいずれも完全な心とはいわれない。真心とは心の欲するところに従つて矩を踰えざる心(論語が説く、正道を外れない心のこと)である。 かかる心はすなわちわざであり、言であり、行であり、よく一事・一物に執せずして融通無礙である。即ち私を離れた純粋の心、純粋の行である。実にまことは万物を融合一体ならしめ、自由無礙ならしめる。まことは芸術に現れては美となり、道徳としては善となり、知識においては真となる。美と善と真とを生み出す根源に まことのあることを知るべきである。而してまことはまた所謂明き浄き直き心、すなわち清明心であり、それは我が国民精神の根柢となっている。

まことは理性と意志と感情との根源であるが故に、智仁勇も、このまことの現れであるといい得る。我が国の道は、決して勇のみを以て足れりとしない。勇のみに趨るは所謂匹夫の勇であって、勇と共に仁を必要とする。而して勇と仁とを実現するためには智がなくてはならない。即ち三者は帰して一のまこととなり、 まことによって三者は真の働をなすのである。

教養もなく、猪突猛進型で威勢のいいだけの人はまさに、「匹夫の勇」であり周囲に大いに悪影響をもたらしてしまう。そのような人には、この「国体の本義」を読むように促すと効果的かもしれません。もちろん、フニャフニャしていてはだめで、時には気合も大切です。

言動不一致は簡単ですが、いざ言動一致を実践するとなれば、相当の覚悟が要求されます。「仁」がなくてもだめ。また「智」や「仁」はあるんだけれど彼には「勇」がないなぁ、という場合も「まこと」心がないと判断されます。頭でっかちも大問題であるわけで、常に自分に問いかけて「まこと」心を持たなければ、と筆者自身が反省しております。

「まこと」は人間の営みのすべての場面で要求される精神です。真の心と換言されます。国民が支払う税金が投入され推進される研究活動。その現場を推進するすべての研究者には特に「まこと」が要求されるといっていい。引用箇所で特に注意したいのは、次の部分でした。

まことは芸術に現れては美となり、道徳としては善となり、知識においては真となる。美と善と真とを生み出す根源に まことのあることを知るべきである。

「知識においては真となる」と記述されているように、研究者一人一人がもし「まこと」を喪失していた場合、彼らが執筆する論文はどのような結末を迎えることになるのか、想像するに難くないでしょう。納得できる説明を聞いた時でも、後で詳しく内容を分析すると綻びを見せるときがある。知識において「偽」と烙印をおされることのないよう、ニッポンの研究者は誠心を持って、大いに活躍してほしいと心から願い、そして応援しています。

■ 神戸沖で発生した新たな危機

2014年1月29日、理研発生・再生科学総合研究センター(理研CDB)に所属する若手研究者、小保方晴子博士らは新たな「万能細胞」の作成に成功したと、詰めかけた多数の報道関係者を前に成果を強調した。同日、英科学誌ネイチャー電子版に掲載され、世界中の研究者の注目を集めることとなった。理研 CDB は神戸沖に浮かぶポートアイランドにあります。2014年1月31日付の朝日新聞には『STAP 細胞、国際特許出願、理研など』と題した記事が掲載されています。

新型万能細胞(STAP細胞)を作製した小保方晴子さんの所属する理化学研究所などが、特許協力条約(PCT)に基づく国際特許を米国で出願していることがわかった。世界知的所有権機関(WIPO)のサイトで公開されていた。

小保方さんがかつて在籍した米ハーバード大学のブリガム・アンド・ウイメンズ病院、東京女子医大と理研が、遺伝物質などを外から入れずに万能細胞を作る方法について出願した。理研は「詳細は当面答えない」としている。

新たな幹細胞研究の潮流がうみだされるのか。大いに注目を浴びた論文の中に生じていた「ヒビ」は、匿名の監視者たちに捕捉され、複数のデータに疑義が生じるに至りました。2014年2月13日、「独立行政法人理化学研究所の職員らの研究論文に疑義があるとの連絡を受けた研究所の職員から、役員を通じて監査・コンプライアンス室に相談があった」と3月31日に発表された研究論文の疑義に関する調査報告書にはあります。そして、研究所は2つの点について小保方氏に研究不正行為があったと断罪しました。

小保方氏だけに責任を押し付けていいのか、という声は研究者の内部にもあります。もっとも第一の責任は小保方氏にあることは明白です。一方で周囲からの圧力や、彼女が関係した周囲の研究機関の思惑も垣間見ることができるでしょう。ジャーナル側はセンセーショナルな論文を扱って読者の興味を集めたいと思うでしょう。事態が急変した後も、ネイチャー側は黙り込んだままの状態で、反応を伺うことができません。

研究の不正行為の追求を司法の場に移すことでかわそうとする姿勢は、誰の利益にもならない。科学上の不正行為を追求し、問題点を明確に指摘できる場はあくまでアカデミアにあると考えるからです。小保方氏周囲の人間や組織も、効果的な対応策をとることができているとは言い難い。筆者自身、何が効果的であるか実際に思い描くこともできていないので、無責任に彼らを批判する気にはなれません。だが、大きな天災に凛として立ち向かくことができなかった政治指導部の姿と、責任逃れに終始する方々の姿勢はどこか重なり合って見える。普段、優柔不断な政治家を見て罵声を浴びせる私たち国民一人一人の資質は、彼らと大して変わらないのだ、という厳然たる事実を粛々と受け止める必要があります。そして、彼らの問題はいつ自分に起きてもおかしくはないのだと意識し、仕事を含めた日々の生活の中で鍛錬しておくことは重要でしょう。

今回は、神戸沖の海上を震源とする大きな研究不正事件が発生し、ニッポン発の科学に対する信頼が大きく棄損されました。その影響は科学だけにとどまらず、あらゆる仕事に対する信頼をぐらつかせることになりかねません。「あんな事件があっただろ。ニッポン人よりも俺たちの方が信頼できるぜ」なんて商談の場で囁かれていそうだ。

なぜシニアの著者たちのチェック機能が果たされなかったのか。理研の責任が問われるべきではないか。小保方氏に責任はないのではないか。ありとあらゆる疑問が投げかけられました。国民の声なき声は政治家というフィルターを通じて抽出される。4月10日付のムネオ日記の中で、鈴木宗男氏は次のように語っています。

昨日記者会見した小保方氏についてテレビ・朝の報道番組・ワイドショー・新聞各紙も一面から社会面と満載である。STAP細胞が実在すると小保方氏は自信を持って言ったが、具体的な科学的根拠は示されなかった。

STAP細胞を共同研究者らの立会いの下で200回以上作ったと言うが、それならば共同研究者にも証言してもらえば良いものを何故しなかったのか。

「STAP細胞は存在します」と明言しながら「私の未熟さ、不勉強が原因」と言っていたが、STAP細胞があったなら未熟さ・不勉強と言う必要がないのではないか。素人目から見ても良く判らない説明である。

新たな万能細胞が見つかったと言って英国の科学誌に発表したのが問題のスタートである。そして理研の調査委員会は捏造や改ざんと言う不正があったと認定したのだ。理研も小保方氏も日本の信用にかかわることなのでしっかりと調査報告、実験について一日も早く示してほしいものだ。

「日本人はどうなっているんだ。嘘つきだ」と言われないためにも両者の果たす説明責任は重いと思うものである。

ニッポンの名誉を貶めてやろうとチャンスを伺っている人々は、世界中にうじゃうじゃといます。STAP 問題は彼らに格好の材料をみすみす与えてしまった。また、ある科学雑誌に投稿される論文数に減少の兆候がでていると感じている研究者もいます。国内の研究者の中には、発表する論文に問題がないかどうか疑心暗鬼に陥っている人もいるのでしょう。

■ まことの心が希薄な私たち

記者会見で笹井氏が明快に説明した内容に基づき、依然として渦中にある STAP 論文の執筆過程をおさらいします。笹井氏は、会見の中で論文執筆の過程には4段階あると述べました。

  1. 着想・企画
  2. (実験などの)実施
  3. データ解析・図表の作成
  4. まとめて論文の文章を書きあげる

STAP 論文の着想・企画は、小保方氏の留学先であるハーバード大学のバカンティ教授によるもので、実験の実施はハーバード大学、あるいは若山研で行われていました。データ解析や図表の作成の大半も終わり、論文の文章を書きあげる段階で笹井氏は論文作成に携わったと説明していました。

笹井氏自身も一部の生細胞観察実験を指導しており、2013年2月前後から小保方氏に対して追加実験の技術指導を行ったと説明されました。2013年4月上旬から、小保方氏は投稿論文の修正作業に取り掛かっていた。笹井氏が小保方氏の指導についたのは、竹市雅俊・理研CDBセンター長から依頼されたからでした。

ただ、ほとんどの実験データは2012年前半、もしくはそれ以前に得られたものでした。そのため笹井氏自身は小保方氏の行った実験の生データや、実験ノートを見る機会がなかったといいます。このこと自体は信頼関係に基づく研究者がとる一般的な行動であり、特に問題はありません。他の研究室で行った実験結果について、いちいち相手のデータの信ぴょう性を疑い、検証していたら膨大な時間がかかるし研究室の中で信頼すべき同僚同士がお互いを疑う、暗い雰囲気が漂うことでしょう。誰が嫌な空気の中で、いい研究ができるといえるでしょうか。

実際に会見の中で笹井氏が述べているように、すでに図表化されていたデータを実際に得た日付の実験ノートを見せるように要求することはできなかったと説明しています。一方で、「注意を喚起できなかったか?」と自問自答している様子を伺わせ、笹井氏自身も責任重大であるとの認識を示しました。メディアや世間だけでなく、同時に恐らく多くの研究者がこの記者会見の模様を注意深く見守っていたに違いありません。その中で研究者の一人は、笹井氏はウソをついているのではないか、と懸念を示していました。その研究者が感じた問題点はどこだったか。

ネイチャー誌では姉妹紙も含めて、著者の一人一人が論文執筆に当たり果たした役割 (author contributions) の明記が求められます。この「著者たちの貢献」には次のように記載すべし、と規定されています。「それぞれの共著者が果たした役割を説明しなければならない。最大で数行にわたって記載して構わない。イニシャルを用いて共著者を表現し、各人の担当した作業を記述すること」とあります。

では実際の STAP 論文の該当箇所を一緒に確認してみましょう。

Author Contributions

H.O. and Y.S. wrote the manuscript. H.O., T.W. and Y.S. performed

experiments, and K.K. assisted with H.O.'s transplantation experiments.

H.O., T.W.,Y.S.,H.N. and C.A.V. designed the project. M.P.V. and M.Y. helped with the design and evaluation of the project.


H.O と Y.S は論文を執筆した。H.O、T.W、そして Y.S は実験を実施し、K.K は H.O の移植実験を補助した。H.O、T.W、Y.S、そしてC.A.Vがプロジェクトを計画した。M.P.V と M.Y はプロジェクトの計画と評価の補助をした。

H.O. は小保方氏、Y.S. は笹井氏、T.W. は若山氏です。笹井氏の説明によれば、彼自身は論文執筆がメインの仕事であり、実際のデータ取得にはそれほど関与していないことを明確に説明しました。であるならば、Y.S performed experiments という箇所は誤解を招く表現だと断じざるを得ません。笹井氏は実験を行った、とあります。筆者自身の理解では、実際には大半の実験を小保方氏が行ったはずですので、次のように記述しなければならないでしょう。

H.O carried out most of the experiments, Y.S helped some experiments.

(小保方が大半の実験を実施した。笹井はいくつかの実験を補助した。)

論文の該当箇所を素直に読めば、大半の実験は共著者との共同作業の上で実施したものであると誤解を受ける可能性が高いものです。「著名な力量のある研究者も実験を実施したのだから、データは信頼できるかなぁ」と査読者やジャーナルの編集部に誤解を与えかねない表現となっています。もっとも performed experiments としか記述されていないので、どんな言い逃れも可能です。ほんの一部しか担当してもいない場合でも、広義にはウソともいえない。それにどの実験を担当したのか、具体的に記述されていません。

紙面の都合上もあり、記述できる量も限られています。すべての著者は、この箇所まで注意深く読んだのかどうか、筆者には知る由もありません。でもやはり、表現的には問題ありなのではないでしょうか。慣例的にこう記述される場合が多いのでしょうか。笹井氏にお会いして直接お話をお伺いしたいものだなぁ。読者の皆様の意見もぜひ聞かせていただきたいです。小さいが見逃せない"ウソ"と見えなくもない。少なくとも筆者には、笹井先生の「まこと心」に少し疑問を感じたのでした。

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