Woman

ジェンダー問題に妻が目覚めた時、夫との関係はどうなるのか。私の63年の結婚生活から伝えられること

「結婚した若い頃には、80代のいまでも『アイ・ラブ・ユー』と言っているとは予想できませんでした」
夫妻の写真 2017年撮影
夫妻の写真 2017年撮影

1956年7月14日、私は生涯でただ1人の夫と結婚しました。当時、私は18歳で高校を卒業して長距離電話オペレーターでした。夫のエドは23歳。海兵隊を退役したばかりでデトロイト近くの小さな事業所で電気技師として働いていました。

私たちの住んでいた家は5軒離れていただけでしたが、私が9年生(日本の中3)の時、彼は海兵隊に入隊して以降、私たちの人生は交わりそうにはありませんでした。

ところが3年後の9月、私たちは共通の友人を通じて出会い、そのクリスマスまでに婚約しました。若い結婚に不安があったとしても、豪華な結婚式の光景の可能性を考えると、不安はかき消されました。「結婚します」と誓う前夜、「うまくいかなかったら、いつでも家に帰れる」と考えていたことを思い出します。いずれにせよ、私の両親は彼にはあまり乗り気ではなかったので。

母は私に別のプランを考えていました。私が受けてきた、歌、芝居、ダンスの高額なレッスンすべてが、いつか報われることを母は望んでいました。私に「家族初の大学進学者」になることを望んでいました。母は、まさか私がすべてを断念するとは夢にも思っていませんでした。ほとんど知りもしない、私と全然違う、私が嫌うはずの習慣もあり、全く有望には見えず、間違いなく私を悲観させると母が信じていた「少年」との結婚のために。

派手な結婚式に憧れて

私は母の不安を無視しました。私が望んだのは派手な結婚式だけ。ボート・ネックでキャップ・スリーブ、刺繍付きのオーガンディー製のウェディング・ドレスが、細くくびれたウェストにフィットして、体のラインを引き立てるのが気に入っていました。ドレスには分割払いで99ドルを払いました。これを着たら、プリンセスになったような気分でした。

すでに始めたことは、たとえ望んだとしても、止めることはできませんでした。この華やかさを捨てられませんー。まもなく私は自分で念入りに計画した作品の主役になるー...その結果生じるどんなことにも、私は犠牲を払うつもりでした。

エドはその全てを嫌がっていました。スポットライトを浴びることが嫌いで、1日だけの栄誉のために、そんな類のお金を使うなんておかしいと考えていました。でも結局、彼はタキシードを着て、私の計画に乗ってくれました。

その日からずっと、私は既婚女性です。私は彼の姓を選び、私たちの人生は結び付きました。エドとの人生の前のことを私はほとんど覚えていません。私たちは3人の子に恵まれ、その子たちにも子供が生まれました。ある日、エドと私は目が覚めて、よく考えずに結婚し、常に「今」を生き、手遅れになるまで...夫婦として定着しすぎて、他の人生を考えられなくなるまで...の後先を見ていなかったことに、感謝し、笑いました。

1956年の結婚式の写真
1956年の結婚式の写真

野球好きの夫と読書好きの私

では、私たちはどのようにやったのか?逃げ出さず、殺し合わず、どうやってここまでたどり着いたか? それを答えるには少し時間が必要です。60年以上の記憶をふるいにかけ、そんな金塊を探すのは簡単ではないし、ご想像どおり、中には思い出したくない記憶もあります。それでも私に残っているものは、幸せな記憶です。

夫婦としては、私たちより変わった夫婦はいないでしょう。エドは元海兵隊で、野球とデキシーランド・ジャズが好きですが、文芸や美術は全くわかりません。私は読書家で、夢想家で、ロマンティスト、密かに作家でもあり、ソプラノ歌手でした。クラシック音楽とマリオ・ランツァとディアナ・ダービンなどの歌手が好きでした。

エドはタバコを吸い、酒を飲みましたが、私はしませんでした。実際、私は、その2つの悪習が嫌いでした。また、エドは特に子供が好きとか、欲しいということもありませんでしたが、私は、18歳でも子供が欲しくてしかたありませんでした。それでも初めてのデートから、通常の熱烈な欲望を超えて、この意外なペアがやっていける可能性がある多くの共通点があることがわかりました。

とてもたくさん話をしました。2人ともフランクリン・ルーズヴェルトのリベラル支持者で、世界が変わることを望んでいました。両親と家族を愛し、見せびらかしや自慢には参加せず、パーティや喧噪より静かな夕べを好みました。好奇心旺盛で身の回りの世界に関心があり、そのあらゆるものを一緒に調べていました。恐れ知らずにー。

そんな時期がまずありました。

辛い時も支え合い、一緒に強く成長した

10年で子供を3人授かりました。もしエドがそれらの子供たちを愛していなかったら、最初から大変なことになっていたでしょう。後になって、3人の孫ができました。孫たちはエドを小さな指で握る達人になりました。

でも、2人は聖人ではありませんでした。海は穏やかな時と同じだけ、時には荒れるようです。元は他人だった人と、60年以上もきしみや衝突なしに暮らしていくことはできません。ケンカしていない場合は、どちらかが諦め、白旗を上げ、最終的に降伏したサインなのです。重要なことは、けんかの扱い方です。

幸いなことに、2人とも、ケンカがどんな原因であっても終わらせることが得意です。お互い、謝り、許します。古い格言である「怒ったまま寝るな」を早くから実践していて、ほとんどの場合、実践しています。恨みに思うことは疲れますし、幸い、2人とも得意ではありません。また、好都合なことに、私たちは出来事をすぐ忘れてしまうのです...昨日のことさえもね。

長年にわたって、私たちにはそれなりの混乱、心痛、そして純粋な恐怖すらありました。非常に苦痛な人生の教訓を経験しました。そのことを考えると今だに痛みを感じます。エドは心臓に問題があり、私はガンで乳房の片方を失いました。私の家族には鬱がはびこり、全ての世代に影響しています。

ある時は助ける側で、別の時には助けが必要でした。両親は4人全員亡くなっており、夭逝したきょうだいもいます。別れは私たちが向き合うことを選んだ出来事ではなかったのですが、そのたびに一緒に強く成長しました。私たちは戦闘の相棒になり、永遠に一緒で、うまくいかない時、相手がそばにいることに感謝しています。

ロマンチックではないけれど

エドと私は普通の意味でのロマンチックではありません。私たちは愛の言葉を交換したり、ふさわしいプレゼントを探したり作るために何週間もかけません。お互いにプレゼントするときは大体、自然の流れで、値段が高くないものです。そして誕生日や祝日とは限りません。

エドが山吹色のセーターを私に買ってくれました。身長152センチの私にはとてつもなく大きく、ダボっとした首回りが私を飲み込みそうでした。エドには色覚障害があり、山吹色しか本当の色として見えないからです。セーターがエドを呼び止め、そして買ったのです。そのセーターを私が着ると、エドは気に入りました。ある年、私はエドにオレンジ色のゴルフボールを1ダース買いました。色覚障害で緑とオレンジを区別できないことを私は忘れていました。エドはフェアウェイでボールを見つけられませんでした。

私たちは歩くときに手をつないだり、人前でキスはしません。1日に少なくとも1度は「アイ・ラブ・ユー」といいますが、誰にも聞こえないよう言います。そして、エドは自分の都合のよいように、1度も私を「僕の妻」と呼びませんでした。

でも私は妻です。不安定な女性解放運動の時代の間、私はフルタイムで妻でした。私たちには辛い時代でした。私は夫の名前(エドワード・グリッグ夫人)で呼ばれることに慣れ、夫のサインがないとクレジットカードを持てないこと、車の名義を持てないことを、当時は奇妙とは思いませんでした。彼は大黒柱で、私は家庭にいる専業母でした。それが当時のスタイルでした。

女性解放運動の時代に

そして1964年にベストセラー「The Feminine Mystique」の出版でベティ・フリーダンが登場しました。不満を感じる数多くの理由が私たち主婦にはあると示したのです。フリーダンは女性の目を自身の自己価値に対して開かせ、女性の人生の中にいる男性たちは突然、女性の自由の妨げと見なされるようになりました。男性は女性が真の可能性を達成する邪魔をしていたのです。

あの時代は多くの結婚に甚大な損害をもたらしました。私たちの結婚は続きましたが、さまざまな駆け引きがなかったわけではありません。まるで地面が足元で揺れ始めたようで、揺れが治まった時には地形はまったく変わっていました。

結婚35周年の写真
結婚35周年の写真

1971年、第1号出版前に購読を申し込んだ雑誌「Ms.」の創立メンバーなったときまでには、私はフェミニストと自称していました。フェミニズムとは、平等の要求、そして数多くの女性が耐えている、女性が愛し信頼したい男性の手による虐待に光を当てる運動として、私は理解していました。でも私は、自分の人生の中の男性たちを否定できませんでした。夫、父、義父、兄弟、息子を愛していたからです。敵とは思いませんでした。

また、マリリン・フレンチの「The Women’s Room」を読み、怒りの理由をある程度理解しました。女性は何世紀も抑圧されてきました。そして、家財、二流市民、使い捨てのだっこひもとして扱われてきたのです。私は理解し、支援したかったのですが、他の多くの女性が刺激されたような憎しみを感じられませんでした。私は実際、女性たちの怒りをよく不快に感じました。

主婦そして母として、とりわけ生産的ではなかったのに、かなり幸せであったことに私は罪悪感を感じていました。家庭外で何かを勝ち取る、あるいはフェミニスト運動で光を当てている、苦労して手に入れた新しい自由を活用するという意味で、少なくとも私は生産的ではありませんでした。

家庭内で行なわれる、多くの場合感謝されない労働を正当化する遠回しな言い方を探して、何らかの地位を与えようとする取り組みの結果、私たち主婦は「ホームメーカー」や「ドメスティック・エンジニア」になりました。女性たちは、初めて家庭にとどまることを恥じたのです。

都合の悪いことに、私の夫を含め、世界中の夫たちが最初、そのことを理解しませんでした。男性たちは、子供の面倒を見なければならない時は「ベビーシッティング」しているという感覚にいまだに甘んじていました。私たちは「夫は稼ぎ手で妻は家庭を守る」という特定の役割が決まった中で育ちました。夫たちは家の補修、車の修理、庭仕事をします。でも、ほとんどの場合、その他すべての世話は妻たちに期待されました。外で働く時間はない。そのように言われていました。

外で働くことも、家にいることも好き

わずかな時間で理解を示してくれたことに対して、私はエドに非常に感謝しています。女性解放運動全体のビジョンが彼にショックを与えたのは確かですが、そのことで口論になった記憶はありません。私は自分の人生について決断したことに対し、彼に否定された記憶はありません。私たちはそういうやり方ではなかったのです。

1番下の子が学校に終日いるとき、私は不動産免許を取って、仕事に出ました。その仕事は苦手でした。家は好きですが家を売るのは嫌いでした。家は勝手に売れるものと考えていたし、買主が気づかないかもしれない問題を指摘してあげようとさえ考えていました。長くは続きませんでした。

幸いにも、大病院の看護部長の秘書としての仕事に恵まれました。私のタイピングスキルは最低限の要件にも全然達していなかったのですが。部長に気に入られ、それで十分だったのです。働くことは好きでしたが、家にいることも好きだとわかりました。数年後、初孫の世話をするため仕事を辞めた時、フリーランスの作家として働いて、うわべだけですが、バランスを見つけました。子供のころから書き物に手を出していたのです。孫の成長を見ながら、自宅で仕事ができるという、2つの世界のベストなものでした。

そのころには、エドは政府プロジェクトで働く民間の技術要員としてよく出張していました。家にいるよりも不在の方が多く、私はデトロイトとその周辺の活発な作家コミュニティに没頭しました。やがて、主な役割は作家であり主婦ではないと気づきました。夫婦としてもう1つの岐路にいたわけです。それは次に進む、ということではなく、私がいるまさにその場所で成長し、以前は休耕していた庭で花が開くことだと思いました。

私は別の人になっていましたが、エドもそうでした。そして奇跡中の奇跡ですが、別れて成長するという懸念を乗り越え、話し合いを始めました。再開したのです。エドには、仕事と全国の出張から、伝える価値のある新たな話があります。私には、作家、インストラクター、講演者などの私の経験から、彼に伝えるべき新たな話があります。

彼は今では私の最初の読者で、それが得意です。

長い結婚生活に必要なのは...

50代になった男性として、エドは自分の娘たちが強い女性になる手助けを問題なく行いました。彼の意識は娘たち2人の成長とともに高まりました。フェミニズムについて私が教えられることより多くのことを娘たちが教えました。エドは理解し、私たち3人を大喜ばせることを、恐れずに言います。

20年以上前に、エドと私はデトロイト郊外から引っ越しました。今、私たちはミシガン北部の森林地帯の島に住んでいます。人里離れた場所で、最寄りのマクドナルドや病院に行くまで、カーフェリーに乗り、車で1時間、裏道を走らなければなりません。

2人とも健康だと思っていましたが、とうとう心臓病とガンになりました。それぞれの不安で、私たちはますます必死にお互いにすがるようになりました。

私たちは一緒に老いました。若いころの自分たちには想像すらできないことです。18歳と23歳では、80代でいまだに「アイ・ラブ・ユー」と言っているとは予想できませんでした。長年、結婚を終わりにする脅威に服さなかったことに感謝しています。

素晴らしい長い結婚生活は恵みですが、決意、献身、そして多くの愛がなければ得られません。しばらくすれば、細かなことにはこだわらないことを学びます。傷つけるためお互いが投げつけた醜い言葉の数々も忘れます。代わりに、何が2人を結びつけたのかを思い出し、喜びをもたらした瞬間を追体験します。

2人は家族になります。血縁ではなく、こころと忍耐でつながった家族です。一緒に、老いた自分が若き自分に置き換わり、「死が2人を分かつまで」がそんなに遠くとは思えない境地に達します。

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。