組織の面子にこだわり「検察史上最悪の判断」を行った大野恒太郎検事総長

大野検事総長が、今、まず行うべきことは、名古屋地検からの報告を鵜呑みにすることなく、証拠全体を再検討した上、控訴が「過ち」であったことを認め、控訴の取下げを行って無罪判決を確定させることである。
時事通信社

昨日(3月18日)午前10時、名古屋地裁から、「美濃加茂市長に対する無罪判決に対して検察官が控訴を行った」という連絡が入った。

3月5日に言い渡された無罪判決に対する控訴期限は3月19日である。地方自治体の現職市長に対して言い渡された無罪判決に対する控訴の可否の判断なのだから、慎重の上にも慎重な判断を行われるのが当然である。期限の一日前の、しかも朝に、検察官の控訴申立書が慌ただしく裁判所に持ち込まれるなどという事態は、予想していなかった。

3月16日に、一部マスコミが「検察が控訴の方針を固めた」と報道したことを受けて、翌17日に当ブログに出した【「美濃加茂市長無罪判決に検察控訴の方針」は、「妄想」か「狂気」か】は、BLOGOS、ハフィントンポストにも転載され、トップページ、或いは準トップのページに掲載され、ページビューも大きく伸びていた。

このブログでは、検察控訴の方針を報じる中日新聞の記事で、「検察関係者の主張」によると、「二人のメールのやりとりや、授受を聞いたとする関係者証言などについて判決が評価していない点が不服だ」とされていたことに関して、これらの証拠の具体的な中身を示して、賄賂授受の証拠になど全くなり得ないものであることを詳述し、検察が控訴の方針だとすれば、「担当検察官が都合のよい証拠だけ取り上げて説明するのを鵜呑みにし、弁護人の弁論も読まず、証拠全体も見ていないのではないかと思える」と書いた。

このようなブログが世の中に拡散することによって、「証拠上、控訴はあり得ない」「無罪判決が覆る可能性はない」との認識が広まり、検察内部でも動揺が生じて、証拠を再検討すべしという意見が出てくるのを恐れて、控訴期限の一日前の朝に控訴申立書を裁判所に提出するという「異例の対応」が指示されたとしか思えない。

悪質極まりない4億円近くもの融資詐欺を行いながら、僅か2000万円余しか立件されていなかった「詐欺師」の贈賄供述を信じ、同席者の聴取すら行わないまま現職市長を呼び出して聴取に踏み切ったこと、逮捕して勾留請求を行ったこと、何ら新たな証拠もないのに起訴したこと、公判での弁護人の反証で賄賂授受の立証が完全に崩壊しているのに有罪論告を行ったこと、そして結果的に当然の無罪判決を受けたこと、この全てについて、もし、検察が控訴断念の決断をしていれば、名古屋地検の担当検察官の暴走と地検幹部の監督責任という、地検レベルの問題で済ますことも不可能ではなかったはずだ。

しかし、この「当然の無罪判決」に対する控訴を行ったことで、検察はそれまでの名古屋地検の暴走を、組織として認めただけではなく、市長を控訴審の被告人の立場に立たせることで美濃加茂市民に更なる不利益を生じさせ、市政に影響を及ぼす責任を、組織として背負い込むことになった。秋元祥治氏もブログ【美濃加茂・藤井市長、検察は控訴だって。これ、無罪確定ならだれが責任とるんですかね。】で、控訴に関する検察の責任を適切に指摘している。

そもそも、先進国で、無罪判決に対する検察官控訴を認める国はほとんどない。アメリカでも、無罪判決に対する上訴は認められていない。

日本国憲法は、第39条で「既に無罪とされた行為については,刑事上の責任を問われない。又,同ーの犯罪について,重ねて刑事上の責任を問われない」と規定している。この規定は、「国家がある犯罪について刑罰権の有無を確かめるために,被告人を一度訴追したならば,もはや同一人を同一事実について再度刑事的に追及することは許されない」という英米法の「二重の危険の原理」を規定したものとする説が有力であり、かねてから、「無罪判決に対する検察官控訴は憲法39条に違反する」という主張がなされてきた。

判例は、「一審の手続も控訴審の手続もまた,上告審のそれも同じ事件においては,継続せる一つの危険の各部分たるにすぎない」という理由で、検察官上訴を許容してきたが、学説では根強い批判がある。(【検察官上訴の研究 二重の危険の原理の観点から 高倉新喜】他)

つまり、一審無罪判決に対して検察官が控訴を行うこと自体に、憲法違反の疑いがあるのだ。もし、例外的に、検察官控訴が容認されるとしても、一審判決が法令の解釈や適用を誤った場合や、十分な証拠に基づく判断が行われなかった場合などに限られるはずである。実際に、検察実務でも、無罪判決に対する控訴は、一審が採用しなかった証拠、或いは新たな証拠の提出が可能な場合に限る、という取扱いが行われてきたはずだ。

美濃加茂市長事件の一審判決に対して、法令の解釈・適用に関する問題など何もない。しかも、「事件との関連性など全くない」として弁護人が強く反対した「渡したことを聞いたとする関係者」についても検察官の尋問請求が認められるなど、検察官の請求証拠はすべて採用した上で、無罪の判決が言い渡されたもので、証拠採用に関する問題も全くない。

前記ブログで述べた「証拠関係からして一審無罪判決が覆る可能性が全くない」というだけでなく、それ以前の問題として、無罪判決に対して検察官が控訴できる場合に当たらないのである。

どうして、このような無茶苦茶、デタラメな控訴の判断が行われたのか。検察組織のトップである大野恒太郎検事総長は、何を考えて、名古屋地検、名古屋高検の控訴意見を認める判断をしたのか。

検察内部のことだけに、真相は知る由もないが、マスコミ関係者や検察関係者からの情報によれば、大野総長を含め検察幹部は、美濃加茂市長事件の一審判決の前に、無罪判決が出る可能性すら認識しておらず、当然有罪だと考えていたようだ。「予想外の無罪判決」に対して、「検察が引き下がるわけにはいかない」として、証拠判断とは別のところで控訴の方針が決まったようだ。

しかし、仮にそうだとすると、検察組織における事件の捜査・公判に関する報告の在り方に重大な問題があると言わざるを得ない。

美濃加茂市長事件での逮捕、勾留、起訴が、何の証拠にも基づかないもので、公判審理の過程でも無罪の可能性が高まっていることは、私が、逐一ブログで述べてきた(【「責任先送りのための起訴」という暴挙】【「空振り」被告人質問に象徴される検察官立証の惨状】【美濃加茂市長事件、「検察の迷走」を象徴する実質審理の幕切れ】など)。

そして昨年12月24日に行われた公判期日での弁護人の弁論で、検察官立証が完全に崩壊したことは、公判に立ち会っていた4人の検察官は十分に認識したはずだし、その上司も弁論を読んだはずだ。そして、この時点で、主任弁護人の私が、無罪判決を確信したことは、年末のブログ【美濃加茂市長事件結審、揺るがぬ潔白への確信】でもはっきりと述べている。

実際、3月5日の判決公判期日、開廷前に久々に目にした主任検察官の関口検事の顔色は、それまで見たこともないほど蒼白で、明らかに無罪判決を覚悟していた様子だった。

それなのに、名古屋地検から上級庁に「有罪判決が出る見通し」が伝えられていたとすると、検察内部での重要事件の報告体制に重大な欠陥があることは明らかだ。

このような組織に、社会に重大な影響を与える刑事事件に関する決定を行わせることは危険だし、先日、閣議決定され、今通常国会に法案が提出される予定の「日本版司法取引法案」についても、そもそも、「検察組織が、司法取引を適正に行えるような信頼できる組織なのか?」という点から根本的に考え直してみる必要がある。

今回、検察が組織として行った控訴の決定は、明らかに誤りである。

検察官には、控訴を行う権限が与えられているだけでなく、行った控訴を取り下げる権限もある。

私は、昨日、名古屋地裁から検察官が控訴を行ったとの連絡を受けた後、ただちに、最高検察庁宛の要請書をファックス送付した(名古屋高等検察庁、名古屋地方検察庁にも同旨の要請書を送付)。その中で「検察の理念」にも言及し、以下のように述べている。

控訴を断念することにより、本件に対するこれまでの検察官の権限行使に重大な問題があったことを自認せざるをえなくなることは確かである。しかし、それを怖れて、理由のない不当な控訴という権限行使を行うことは、検察の理念に照らしても、断じて許されないものである。

すなわち、一連の検察不祥事を受けて定められた「検察の理念」においては、検察官の権限行使に関し、「自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず,時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である。同時に,権限行使の在り方が,独善に陥ることなく,真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する,謙虚な姿勢を保つべきである。」と述べられており、検察としての面子にこだわり、或いは、捜査・公判の不当性を自認することを怖れて控訴を行ったとすれば、明らかに上記理念に反するものである。

「過ちは改むるに憚ること勿れ」という言葉がある。

大野検事総長が、今、まず行うべきことは、名古屋地検からの報告を鵜呑みにすることなく、証拠全体を再検討した上、控訴が「過ち」であったことを認め、控訴の取下げを行って無罪判決を確定させることである。

(2015年3月19日「郷原信郎が斬る」より転載)

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