東日本大震災の当時、伝えきれなかった死。生きていたはずの彼を忘れないために

岩手県大槌町で9年前の3月21日、一人の男性が亡くなった。東日本大震災の死者。それはあの日、津波にのまれて命を落とした人ばかりではない。
職員とみられる人が、津波に襲われた町役場の方向を城山公園から見下ろしていた。役場の機能もここ城山公園体育館に移した。男性の肩のあたりに見えるのが町のシンボル「ひょうたん島」=2011年3月30日、岩手県大槌町の避難場所になっていた城山公園体育館
職員とみられる人が、津波に襲われた町役場の方向を城山公園から見下ろしていた。役場の機能もここ城山公園体育館に移した。男性の肩のあたりに見えるのが町のシンボル「ひょうたん島」=2011年3月30日、岩手県大槌町の避難場所になっていた城山公園体育館

東日本大震災の死者。それはあの日、津波に飲まれて命を落とした人ばかりではない。

その時に伝えきれなかった死がある。自死だ。

9年前の2011年3月21日の朝6時11分、消防に一本の連絡が入った。三陸縦貫自動車道で、釜石市へ向かっていた男性が、被災状況を見ようとして道路脇に車を止め、人が乗っていない車に気づき高架下をみたところ、横たわる人が遥か下に見えたという通報だ。

ご遺体の身元は、大槌町に勤める35歳の男性だとすぐに判明した。遺書はなかった。

9年前の地震直後のこの時期は、津波にさらわれたご遺体の体育館への搬送が続いた。避難中のトイレの水確保に腰を折りながらバケツで運ぶお年寄りがおり、行方不明の子供の手がかりを瓦礫の中で探す両親の姿があった。

惨状を前に、皆「生きるために何かを」という段階だった。
震災が直接的な原因とされる死が、新聞紙面を埋めていた。
そんな状況の中で、男性の転落死については、口をつぐむ人が多かった。

男性は地震があった時、岩手県内陸部にいた。地震直後、歳の離れた弟に「今、遠野にいて、大丈夫」と伝えた。父親と連絡がつかないと弟が言うと「すぐ見つかるっぺ」と笑い飛ばしているかのように弟を励ましたという。
しかし、車で戻ってくると、我が町が瓦礫の平原に変わり果てているのを目の当たりにする。さらに、半日前まで一緒だった職場の課の同僚の大半の行方は分からなくなっていた。

地域整備課の職員は、震災直後、町民を避難所へ誘導するための準備や、町道が陥没したり落石がなかったりしないかなどの情報収集に庁内で追われていた。その部屋は津波にのみ込まれ、同課の職員の大半が死亡したことが後で分かった。

男性は、大槌町に戻ってきた後、避難所にいた母のもとに顔を出すこともせず、役場の仕事を続けていた。「(男性は)亡くなった人の分も、生き残った自分が課の仕事を頑張らなければ、と思い詰めたのかもしれない」と仲間の職員は語っていた。

男性は、友人も多く、飲み会を取り仕切るようなリーダー格で、家では弟思いだったという。

2011年3月、津波に襲われた大槌町役場の庁舎。町長含む職員40人が死亡した。役場庁舎は解体された。
2011年3月、津波に襲われた大槌町役場の庁舎。町長含む職員40人が死亡した。役場庁舎は解体された。
Miyuki Inoue

震災の後、同じ部屋で寝泊りしていた役場の後輩職員は、「口数がめっきり減っていた。でもこういった震災後の状況だったので誰も特に気にしなかった」と話した。一方で、亡くなる2日前に、大槌高校の避難所で会った友人は、笑顔で「お互い無事でよかった」と話し、「頑張ろうね」と励まし合っていたという。

震災関連死。そう思った私は2011年3月末、ご遺族がいると聞いた高台の神社に取材に向かった。集落の人が集まって、炊き出しをしていた。

男性の母親がいた。初めての取材に驚かれながら、ご自身も避難されていた中で答えてくれた。作業をする手を止め、母親は「歳の離れた下の子が生まれるまで男の子は可愛いし、溺愛してしまっていた」と息子について語った。取材する私と母親の二人が強い光の夕陽を受け長い影を土の上に作っていた。

地震直後は、いろいろな避難所で「元気に」「頑張っていこう」。そういう会話が交わされ、生きるためにそれぞれが必死だった。

「息子は、津波で亡くなったと思って、心の中にしまっています」。
母が絞り出した言葉が9年間、忘れられなかった。

ただ今年、311の追悼式は、新型コロナウイルスの影響で自粛を迫られ、311の記憶が薄れていくことを恐れる声を多く聞いた。そして、足下では、新型コロナウイルスによる未知の「非日常」が続く。そんな中、あえて、9年前の彼の生きた証を書くことにした。

非常時に社会に大きなうねりが起きると、日常とはまったく違う局面が露わになる。
ある人は時に凶暴さを撒き散らすことも。ある人は心が押しつぶされ、自ら命を消すこともある。

不条理を前にして、人は普段通りではなくなる。人は強さも発揮できる。でも人は、強いが弱い存在でもある。こんな時だからこそ、震災の記憶の一つとして伝えておきたいと思っている。
(井上未雪)

町のシンボル「ひょうたん島」。「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つとされる大槌湾の蓬莱島。当時、灯台は折れ、赤い根元部分だけが残っていた=2011年3月撮影
町のシンボル「ひょうたん島」。「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つとされる大槌湾の蓬莱島。当時、灯台は折れ、赤い根元部分だけが残っていた=2011年3月撮影
MiyukiInoue

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