アートとカルチャー
2020年08月15日 17時46分 JST | 更新 2020年08月15日 23時52分 JST

「皆が死んだのだから、おまえも死ね」水木しげるさんに上官は言った。

激戦地ラバウルの最前線「バイエン」に送られた水木さん。13人の部隊は水木さんを残して全滅。ジャングルを駆け抜け、命からがら生還した彼を待っていたのは冷たい言葉だった。

撮影:安藤健二
「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)

<中隊長は開口一番「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだのだから、おまえも死ね」と言う。体は疲れてフラフラだったが、一日の休養もくれない。それ以来、中隊長も軍隊も理解できなくなり、同時に激しい怒りがこみ上げてきた。>

これは、「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)に書かれた、漫画家の水木しげるさんの回想だ。

2015年に93歳で亡くなった水木さんは、太平洋戦争の最前線であるニューブリテン島のジャングルで、九死に一生を得た経験がある。ゲリラの襲撃で所属部隊が水木さんを残して全滅、命からがら生還したのだ。当時22歳だった。

しかし、上官は生還を喜ばず、むしろ戦死しなかったことを責めた。水木さんの強烈な戦争体験を、著書から振り返ろう。

  

■水木さんが送られた「ラバウル」とは?

Google マップ
ニューブリテン島のラバウルの位置(Google マップより)

オーストラリアの信託統治領だったニューブリテン島を日本軍が占領したのは1942年のことだった。東端のラバウルに航空隊の基地が作られ、陸海軍合わせて約10万人の兵士が配置された。難攻不落が予想されることから、連合軍側からは「ラバウル要塞」と呼ばれた。

しかし1943年2月、同じく南太平洋のガダルカナル島では激戦の末に日本軍が撤退。戦況は日本にとって不利になっていた。水木さんが陸軍の二等兵としてラバウルに送られたのは、その8カ月後のことだった。旧日本軍ではニューブリテン島全体を「ラバウル」と呼んでいた。

翌1944年2月中旬にはニューブリテン島の西半分は連合軍の手に落ちたが、アメリカ軍のマッカーサー大将が率いる連合国軍は、堅固なラバウルを敢えて攻略せず、周辺の島々を制圧してラバウルを孤立させることにした。ラバウルの日本軍は補給路を断たれるも、自給自足の生活を送りながら、連合軍との決戦を待っていたが、終戦まで大規模な戦いは起きなかった。

 

■バイエン分遣隊は、水木さんを1人を残して全滅

ASSOCIATED PRESS
米軍の「B-25」爆撃機がラバウル湾の日本の船を攻撃する様子 (1943年11月2日撮影)

足立倫行さんの「妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる」 (文春文庫)を元に、水木さんの足取りを辿ろう。水木さんはラバウルよりも前線に近いズンゲンの陣地にいたが、1944年5月ごろ、ズンゲンから100kmも離れたバイエンに送られた。わずか13人の分遣隊だった。連合軍の支配地域に近い「陸の孤島」のような場所だったという。

5月下旬の早朝のことだった。分遣隊は、水木さん1人を残して全滅する。オーストラリア軍の指揮を受けた現地人の兵隊の襲撃を受けたのだ。水木さんは当時、兵舎から50mほど晴れた海岸線で見張り番の担当をしていた。

水木サンの幸福論 」(角川文庫)の中で、当時の様子を以下のように振り返っている。

<「きれいだなあ、平和だなあ」としばしうっとりして見とれていると、後方でパラパラ、パラパラと乾いた音が断続的に響いてきた。機関銃の音だ。敵は警戒していた海からではなく、山側から急襲してきたのだ。夜のうちに兵舎はすっかり包囲されていたらしい。

 

耳元をかすめるピュン、ピュンという音に慌てて身を伏せ、海を見たら水煙が盛大に上がっていた。小銃で反撃すると、バリバリッとすさまじい音を立てて自動小銃の連写が襲いかかってくる。

 

起床直前、熟睡中の攻撃だったから、ひとたまりもない。ちょびひげを生やした分隊長と同年兵が兵舎からふらふらと出て来て、どさっと地面に倒れ込んだ。辺りにはたちまち硝煙と血のにおいが立ちこめた。とたんに心臓がぎゅっと縮んだように感じ、視界がぐらぐらと揺れた。気が付くと、海沿いを猛然と逃げていた。>

  

■「なんで一人生きたからって死ねって言われるのか」

水木さんは、サンゴが群生する海岸線を逃げた。軍靴の底はなくなり、足の裏から血が出ていた。海を泳ぎ、ジャングルを駆け抜け、現地人の集落をびくびくしながら通りすぎた。川で水をすすり、やせたエビを食べる程度で、ほぼ飲まず食わずの逃避行だった。銃も軍服もなくし、ふんどし姿で5日後にズンゲンの陣地にたどり着いた。

しかし、水木さんを待っていたのは、上官の冷たい言葉だった。再び「水木サンの幸福論」から引こう。

<だが、中隊長の言葉には、さすがの私も脳天をぐわんと殴られたような衝撃を受けた。「なぜ、死なずに逃げたのか」。これが第一声だった。不機嫌きわまりない表情、硬い声だった。「ご苦労」の言葉も、戦況に関するご下問もまったくなかった。何も言えずに呆然としたまま突っ立っていると、中隊長は「死に場所は見つけてやるぞ」と言ったまま、それきりむっつりと黙り込んだ。>

冒頭で紹介した「水木しげるのラバウル戦記」とは、中隊長の台詞が微妙に違うが、水木さんの生還を喜ばなかったのは確実なようだ。

戦死で部隊が全滅することを「玉砕」と呼んで美化していた日本軍では、一人だけ生き残ることは「恥」だったのだ。

水木さんは、2010年6月26日にNHKで放送された「証言記録 兵士たちの戦争」の中で、以下のように憤りを隠さなかった。

 「そこは文字通り全滅でわたしだけ生きて帰った。一人。一人生きて帰った大事な人をね、死ねっていうわけですよ。困りますよね。死ねっていうわけです。なんで一人生きたからって死ねって言われるのかって思いました」

  

■「ちっぽけなことにこだわり、死が美化された」

水木さんはその後、マラリヤに感染。42度の高熱を出して療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負う。化膿して命の危険があったため、麻酔がない状態で左腕の切断手術を受ける。

野戦病院で過ごした後、1945年8月15日を迎え、まもなく敗戦を知らされた。兵士の間では落胆と虚脱感が広がったが、「水木サンの幸福論」の中で水木さんは「生き延びた!」と思ったと振り返っている。そして多くの戦友の死を見てきた経験から以下のように続けた。

<大勢が死んでいった。祖国のために勇敢に散った人もいるが、無謀な命令による死も少なくなかった。この陣地を死守しろとか、あの丘を攻略しろとか、大局から見るとちっぽけなことにこだわり、死が美化された。面子(メンツ)、生き恥、卑怯という言葉のために多くの兵士たちが死んだ。>

 もし、上官の言う通り、バイエンで水木さんが戦死していたら、『ゲゲゲの鬼太郎』も『悪魔くん』も『河童の三平』も、この世に生まれなかった。水木さんが玉砕を選ばず、命を大事に持ち帰ったことで、戦後日本のマンガ文化は大きく花開いたのだ。

Oliver Strewe via Getty Images
ラバウルのジャングルに残る旧日本軍の爆撃機の残骸