痴漢を取り押さえた会社員、全治3カ月の大けが。たとえ補償なくても「また助ける」

通勤・通学の電車やバスで、毎日のように起きている痴漢。しかしほとんどの被害者は泣き寝入りし、逮捕にいたるケースは非常にまれだ。そんな中、ある男性会社員が、逃げようとした痴漢を偶然目撃し、取り押さえることに成功した。だが、男性はその際、全治3カ月の大けが。「もしまた痴漢を目にしたら、同じことをするだろう」。男性はそう断言するが、一方で、治療費などを補償する制度は手厚いわけではなく、釈然としない思いも抱いている。
電車に乗り込む乗客で混雑する駅のプラットフォーム=東京都内(本文と直接関係ありません)
電車に乗り込む乗客で混雑する駅のプラットフォーム=東京都内(本文と直接関係ありません)
TORU YAMANAKA via Getty Images

通勤・通学の電車やバスで、毎日のように起きている痴漢。しかしほとんどの被害者は泣き寝入りし、逮捕にいたるケースは非常にまれだ。

そんな中、ある男性会社員が、逃げようとした痴漢を偶然目撃し、取り押さえることに成功した。

だが、男性はその際、全治3カ月の大けが。

「もしまた痴漢を目にしたら、同じことをするだろう」

男性はそう断言するが、一方で、治療費などを補償する制度は手厚いわけではなく、釈然としない思いも抱いている。

朝のラッシュ、逃げる痴漢にタックル

インタビューに応じる吉田圭さん=東京
インタビューに応じる吉田圭さん=東京
Kazuhiro Sekine

「痴漢されました!助けてください!」

板橋駅からJR埼京線上り電車に乗り込もうとしていた会社員の吉田圭さん(44歳)が、女性の叫び声を聞いたのは、6月5日午前8時ごろだ。

ホームで会社勤めらしい若い女性が、中年男性のベルトをつかんで歩いていた。

ラッシュアワーのこの時間、埼京線はいつもすし詰めだ。吉田さんも、体の前にリュックを回し、両手を上げた「ホールドアップ」の体勢で、背中から体を押し込んだところだった。

女性が駅員へ痴漢を引き渡そうとした時、吉田さんは「逃げる」とピンときたという。

案の定、痴漢は駅員を振り切り、全速力で階段と反対側、ホームの端に向かって走り出した。

「線路へ降り、線路外へ逃れるつもりだ」

吉田さんはそう考え、走って追いかけた。同時に周囲に向かって「転ばせろ!」と叫んだ。

前日にSNSで、痴漢に足を引っかけ転ばせて捕まえた動画を見ていたからだ。

すると会社員風の男性が、痴漢の前に足を出してくれた。

よろめいて速度が落ちたところに、高校時代アメフト部に所属していた吉田さんがタックルした。

痴漢は無事捕らえたが、無事でなかったのは吉田さんの体だ。

右ひざをホームに強打した上に、痴漢に蹴られて服が破れ、左の脇腹も擦りむいて出血した。

医務室に連れていかれたが、立ち上がれず救急搬送された。

ひざは腫れあがり、救急隊員や看護師に痴漢本人と間違われ、冷たい扱いを受けるという「おまけ」までついた。

1カ月で治ると言われたが、2週間ほどすると、痛みがぶり返した。MRI撮影で、改めて骨挫傷、全治3カ月と診断された。

人助けも経済格差?

吉田さんは今年4月、執行役員として現在の勤め先に転職したばかりで、有給休暇も発生していなかった。

社長は「気にしないで休んで」と言ってくれたが、「そう言われると、休むのが心苦しくなって…。入社2カ月で、一番頑張らなければいけない時期でもあった」(吉田さん)。このため、休みは取らなかった。

勤め先は、最寄り駅から徒歩10分程度だが、歩行がままならないため25分くらいかかってしまう。

週1回、朝7時からの朝会前日は、遅刻しないよう近くのホテルに宿泊した。医療費、宿泊代など出費もかさんだ。

だが吉田さんは「けがをしたのが僕のような、オフィスワーカーで良かった」と話す。

「運転手など、体を使った仕事の人が同じ目に遭ったら、労災も下りず生活が立ち行かなくなるかもしれない。無職やアルバイトの人にとっても、経済的な負担は大きいだろう」

存在知られぬ補償制度

警視庁によると、一般人が被疑者を取り押さえる時にけがをしたり、障害が残ったりした場合、治療費などを支払う制度がある。

ただ制度利用の手続きは、所轄の警察署長の報告によって始まると定められており、けが人自身は申請できない。

吉田さんが所轄署に問い合わせたところ、制度を使えるか検討しているが、「補償が支払われるかはまだ分からない」と回答されたという。

吉田さんは「制度について知らない人も多く、人助けにすら経済格差が生じてしまっているのではないか」と疑問を口にする。

Kazuhiro Sekine

通勤客は傍観

ハラスメント撲滅に取り組む活動「#WeTooJapan」の一環として、評論家の荻上チキ氏が昨年実施したインターネット調査によると、女性の約半数が、電車やバス、路上で体を触られる被害を受けていた。

だが痴漢被害者の5割以上が「我慢した」と答えており、加害者を捕まえたり、駅員や警察に通報したりしたのは、全体の15%弱。加害者のほとんどは、野放しなのが実状だ。

埼京線池袋駅―板橋駅間はラッシュ時の混雑で悪名高く、痴漢も多い。吉田さんは高校時代にも、埼京線の車内で痴漢を捕まえたことがあるという。

今回、人助けの「つけ」は大きかったが、吉田さんは「もしまた痴漢を目にしたら、同じことをすると思う」と話す。

今年からは、長女が中学に入学して電車通学を始めた。「娘が被害に遭ったらと思うと、なおさら見過ごせない」

しかし、吉田さんのように行動できる人は、ごく一部だ。

被害者の女性が「助けてください!」と叫んだ時、大半の通勤客は見ているだけだった。

吉田さんは「女性がたった1人で、男性の加害者を駅員のいる場所まで連れていくのは、大変な勇気が必要だったろう」と振り返る。

だが「助けたい気持ちはあっても、急いでいたり、けがなどのリスクを恐れたりして、行動できなかった人も多いのではないか」とも話す。

実際、家族からも危険な行為だとして「叱られちゃいました」と、吉田さんは苦笑する。

ただ、吉田さんは、勤め先の社長が「誇りに思う」と言ってくれたのが「心の支えになった」と振り返る。

社長は事件を知ると、全社員にメールで経緯を知らせ、吉田さんを称賛した。女性社員が多いこともあり、同僚も好意的に受け止めてくれた。

吉田さんは最後にこう話した。

「周囲が何らかの形で認めてくれれば、それだけで救われる。『世間の役に立ちたい』という思いをもっと社会が承認し、評価するようになれば、痴漢を傍観していた人も行動を起こせるようになるのではないか」

(取材・執筆=フリージャーナリスト・有馬知子)

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