「この子捨てていい?」――地獄のような「産後うつ」乗り越え、ふたりで涙した夜

村橋ゴローの育児連載「ワンオペパパの大冒険」03

ボクが42歳、妻は41歳のときに、元気な男の子を授かった。中年になってはじめてパパママとなったのだが……子育てというものがまったく上手くいかなかった。

まず妻のおっぱいの出が悪い。妻は区がやってる授乳教室に通うなど必死に努力していたが、それでも出ない。やっとの思いで出たと思ったら、今度は赤ちゃんが上手く飲んでくれない。くわえて赤ちゃんがアレルギーであることが発覚。「小麦粉・乳製品・大豆・卵・いもアレルギーの可能性あり」と診断されたのだ。妻の方針で「ミルク・母乳半々」で育てていため、妻も食事制限を強いられることに。質素で楽しくない、それは食事というより、ただの栄養補給。それでも「赤ちゃんのため」と、無表情でそれらを口に流し込んでいた。

それでも母乳まわりのことが上手くいかない。そして赤ちゃんは慢性的な便秘。食事制限で栄養の足りてないおっぱいだから、赤ちゃんが飲んでくれないのか。そもそも赤ちゃんのおっぱいの飲み方がへたくそなのか。あるいは母乳の出し方に問題があるのか。これらの疑問がメビウスの輪のように絡まり、妻は次第に産後うつになってしまった。

これまで家庭内のすべての家事を担当し兼業主夫として妻を支えてきたが、ここまでなのか。何せ、問題はおっぱいだ。男のボクに何ができるのか。

赤ちゃんがママにだけなつかない

ある日、妻の頭髪に500円玉大のハゲができた。そんなとき、「おっぱい問題」を遥かに凌駕する大問題が勃発した。赤ちゃんが妻だけになつかないのだ。泣きはじめた赤ちゃんを妻が抱っこすると、さらに大きな声でギャン泣きするのだ。

考えてもみてほしい。2年もの不妊治療の末に授かった、僕らにとっては奇跡の赤ちゃんだ。それがママだけになつかないのだ。これは地獄だ。妻も相当、心を痛めただろう。こんなにもおっぱいのことで身も心も捧げているのに、当の子どもが自分になつかないのだから。

原因はわからない。逆に、ボクは泣き止ましが得意だった。どんなに泣いていてもボクが抱っこするとすぐに泣き止み、すぴーすぴーと寝てくれた。この姿を、妻はどんな気持ちで見ていただろう。

しかも赤ちゃんは、よく泣いた。「赤ちゃんは泣くのが仕事」とよくいうが、それならウチの子は過労死寸前だよ、というくらい泣いた。冗談ではなく1日中泣いていた。

ゆえにそれだけ泣き止ましの回数があり、そのたびに妻はギャン泣きされ、存在を否定される。泣き止まし担当はなんとなくボクの仕事となった。

村橋ゴロー

「これベランダから捨てていい?」

ある日もボクが泣き止ましをしているときだった。すると妻は僕からひったくるように赤ちゃんを抱え、泣き止ましに挑戦しだしたのだ。妻の顔を見ると、泣いていた。赤ちゃんはママに抱かれ、つんざくようなギャン泣きをしている。

それでも妻は止めない。30分経っても止めない。1時間経過し、泣き止んだというより、泣き疲れて声がやっと止んだ。すると妻はがガクッとひざから倒れこみ、床に伏し、赤ちゃんに向かってこう叫んだ。

「ねえ、ママが悪いのかな? おっぱいの出が悪いから、おっぱいが不味いから、ママのことが嫌いなのかな? ねえ? ねえ? ねえ!」

気がつけば、ボクも泣いていた。やおら妻はボクのほうを見て、こう言った。

「ねえ、これベランダから捨てていい?」

抱いている赤ちゃんをあごで指していた。我が家はマンションの6階にある。

「しっかりしろ! しっかりしてくれよ!」

とっさに妻の肩を抱きしめ、ボクはそう叫んでいた。ふたりとも泣きながら、途方もない不安と無力感、それらと必死に闘っていた。妻の頭を抱きしめると、ふたつめの大きなハゲができていた。

いま考えてみれば、あの日が底の底だった。

あの地獄の日々はなんだったのか

それからしばらくすると、妻のおっぱいの出がよくなった。次第に妻は表情を取り戻し、口角が上がり、ボクが大好きなあの笑顔を見せてくれるようになった。ある日など、「こんなに出るんだよー」と風呂場で早打ちガンマンのように母乳を出すと、それがぴゅっ! ぴゅっと飛んでいき、壁に命中。ボクは「おお~」と感嘆し、ふたりで笑い合った。

母乳の出が関係しているかはわからないが、同じタイミングで赤ちゃんのおっぱいの飲みはよくなり、「んぐんぐ」とほお張るほどに。赤ちゃんの便秘も解消された。いつの間にか「赤ちゃんが妻だけになつかない」問題も消えていた。

あれは本当になんだったんだろう? と今でも思い出す。少なくとも、あの3カ月間、「ボクは逃げなくてよかった」と本当に思う。妻、赤ちゃんから逃げず家事はもちろんのこと、おっぱい以外の育児も全部分担した。夜泣きの際、何十回、夜中に外であやしたか。

ボクはライターという在宅就労者だ。つまり1日中家にいることも多い。それゆえ、ある意味逃げ場がないのだ。だからこそ妻と一緒に闘えたし、逃げずにいられたのだ。

村橋ゴロー

妻の産後うつは落ち着き、妻は「おっぱいあげているときが一番好き」と口癖のように言っていた。「♪あかちゃん おっぱい ちゅっちゅっちゅっ じょうずじょうず~」と自作の歌をうたうこともあった。その顔は慈愛に満ち、見たことはないけど、まるでマリア様のようだった。

今思えば、母乳まわりのことを気にするあまり、ボクたちはジェットコースターのように、地獄の日々と天国の間を行き来した。妻は母乳が出るようになったが、そうでない人ももちろんいるだろう。事情や考え方は人それぞれで、正解はない。そんなとき男は何ができるのか。ボクは一緒に寄り添うことしかできなかった。でも妻が限界だったときに抱きしめてあげられてよかったと心から思う。

そして断乳。ふたりで涙を流した夜

それから5カ月、妻の会社復帰に合わせ、赤ちゃんを保育園に通うことにさせた。それにともない、妻は断乳を決めた。その日、妻は例の自作の歌をうたいながら、おっぱいをあげていた。「ねえさあ、もうおっぱいあげられないんだ。きょうで終わりなんだよ。そんなの悲しい」そう言って、妻は泣いている。

地獄のような思いをし、やっと手に入れた平安。それを自ら捨てる決断をしたゆえの涙。

「そうだよね。りえちゃん、本当によく頑張ったもんね」。いつの間にかボクも泣いていた。ふたりで泣いた、断乳の夜。これこそが「あの日々」をふたりで戦ってきた、何よりの証拠だった。

親も、子どもも、ひとりの人間。

100人いたら100通りの子育てがあり、正解はありません。

初めての子育てで不安。子どもの教育はどうしよう。

つい眉間にしわを寄せながら、慌ただしく世話してしまう。

そんな声もよく聞こえてきます。

親が安心して子育てできて、子どもの時間を大切にする地域や社会にーー。

ハッシュタグ #子どものじかん で、みなさんの声を聞かせてください。

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