アートとカルチャー
2020年05月15日 11時54分 JST | 更新 2020年05月16日 18時10分 JST

「濃厚接触」したい欲望と、「身体」からの解放を求める動き。両極の衝動が絡まる、アフター・コロナの文化を考える。

「Zoom飲み会」や「オンライン演劇」「無観客公演」などの新しい動きが出てきているが、「アフター・コロナ」の文化はどうなるのか。ゼロ年代、2010年代の文化の潮流を振り返りつつ、これからの文化について考えてみたい。

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新型コロナウイルスによる非常事態宣言が14日、多くの地域で解除された。経済活動の落ち込みを懸念して、今後段階的に「日常」が戻ってくる部分もあるが、全てが元どおりになるはずもない。むしろ「ソーシャル・ディスタンス」時代が一時的なものであるという楽観は薄れ、ひょっとすると長期化するかもしれないと、多くの人が覚悟を決めつつある。

この数ヶ月、人々はオンラインでテレワークや授業をし、生身の身体を持った人々が現実の空間に集まるイベントは自粛を余儀なくされ、飲み会や遊びなど、人々が直接つながる機会は著しく減退した。

この「行動変容」が、私たちの文化に与える影響はどのようなものなのか。いわば、「アフター・コロナ」の文化はどうなるのか。本稿では、ゼロ年代、2010年代の文化の潮流を振り返りつつ、これからの文化について考えてみたい。

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2020年代の「Culture」のゆくえ

レイモンド・ウィリアムズは『キーワード辞典』で、「culture」の用法をこのようにまとめている。

 

 ①知的・精神的・美学的発達の全体的な過程 

 ②ある国民、ある時代、ある集団、あるいは人間全体の、特定の生活様式

 ③知的、とくに芸術的な活動の実践やそこで生み出される作品

コロナによって人々の生活様式はすでに大きく変わってしまっているので、②の意味では文化の変化はすでに始まっている。オンラインでの飲み会や、演劇、創作活動などはその萌芽だろう。

これが①の「知的・精神的・美学的発達の全体的な過程」にどのような影響を与えるのか。

ネット、ひきこもり。「つながらない」ゼロ年代

ゼロ年代(とくに前半)は「ひきこもり」や「美少女ゲーム」に象徴される時代だった。現実の世界や社会、他者を拒絶し、パソコンやゲームやキャラクターと接触し続けるようなライフスタイルが目立った。この時代を象徴する大衆文化の形式は「セカイ系」であり、内向的でうじうじ悩む行動しない主人公と、ヒロインの閉じた関係性と心の問題ばかりが注目されていた。

95年にWindows95が爆発的にヒットし、パーソナルコンピュータが大衆化したことで、人は「こもる」ことができるようになった。

その後の時代との対比のために敢えて指摘すると「つながらない」文化といえる。

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震災、SNS。「つながりたい」10年代

一方、2010年代は「つながり」重視の時代であった。当然、日本においては2011年の東日本大震災の影響が大きいといえよう。未曾有の大災害を目前に、人々は他者との「つながり」を求め、地域の隆盛を願った。

「あいちトリエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」など、地方を舞台にした「地域アート」や公共空間での演劇など、現実の空間に生身の身体で集まる文化も隆盛した。

集まることで人々は、他者、社会、世界などとの「つながり」の感覚を得たり、共同性や公共性の感覚を身体的に味わってきた。

しかし、新型コロナの蔓延は、10年以上蓄積されてきたこのような文化にダメージを与えている。物理的に人が集まれないから当然だ。

3月14日から開催予定だった「さいたま国際芸術祭」は延期になり、開催の日程は未だに決まらない。9月〜11月に開催を予定していた「ひろしまトリエンナーレ」は中止が決定した。これは、2020年代の文化を占う徴候になるのだろうか。

 

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瀬戸内国際芸術祭/「南瓜」を見る観光客(2016年10月28日)

ヴァーチャルではなく「直接」。身体的つながりへの希求

2010年代の「つながり」重視の文化は、SNSの発展や、持ち運びできてインターネットに常に接続できるコンピュータであるスマホの発明と普及の結果であるとも言える。

「地域アート」をはじめとする、鑑賞者が作品を通して社会参加していくタイプの芸術(=ソーシャリー・エンゲイジド・アート)の発展の背景にあったのは、SNSであった。

「表現の自由」をめぐって大きな騒動になった2019年の「表現の不自由展・その後」(あいちトリエンナーレ)も、SNSに大きく後押しされた「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と言っても良いだろう。

時事通信社
表現の不自由展・その後」に展示された彫刻家キム・ソギョン氏、キム・ウンソン氏夫妻の「平和の少女像」

『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』(2015)の中で、パブロ・エルゲラはこう言っている。

「(昨今のソーシャリー・エンゲイジド・アートは)今日の世界が相互につながっていることへのレスポンスであると同時に、そのつながりをヴァーチャル・インターフェイスに頼らない、より直接的なものにしたいという願望の結果であると考えられそうだ」

《p54、秋葉美知子、工藤安代、清水裕子訳。()内は引用者注》

 

インターネットやSNSでつながれるからこそ、もっと直接的につながりたい。

ゼロ年代の「引きこもり文化」への反動で生じた「直接会いたい」という飢餓が、この流行を後押ししていると論じる。

ゼロ年代のテクノロジーへの反発でありながら、同時にSNSなどの新たなテクノロジーに触発されたのが、2010年代の文化だったのだ。

こうして「リアルに会う事の価値」が再確認され、そのための場や技法が整備され洗練されていたのが2010年代であり、それが途端に「リアルで」できなくなったのが2020年代だ。

私たちはいま、濃厚接触したい。 

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Two family members in self isolation in different rooms

 

パブロ・エルゲラが言う、つながりへの「飢餓感」「直接的なものにしたいという願望」は、「ひきこもり」「テレワーク」「遠隔授業」状態を強いられた私たちには、容易に理解できるだろう。私たちはいま、「濃厚接触」したい。

ソーシャル・ディスタンス時代に生まれつつある「Zoom飲み会」や、「オンライン演劇」「無観客公演」。これは新しい時代の文化の兆候だろう。リアルな身体空間ではなくヴァーチャル空間への移行を余儀なくされていながら、前の時代に重視された「社会的なつながり」や「集合的な経験」の価値をさらに重視するものといえる。

このような状況に適応した創作を、科学文化作家の宮本道人は、「ディスタンス・アート」と呼び、その実践を「ディスタンス・アートの創作論」にまとめている。刺激的なので、ぜひ見てみてほしい。https://www.hayakawabooks.com/n/n32fc89b77543

新型コロナ前からのラディカルな動きも

一方、新型コロナ感染拡大よりも少し前から、身体的「遠隔」状態の価値を積極的に見出そうとするラディカルな動きも見え隠れする。

「VRシンポジウム」などがそれだ。「VRchat」というソフトを用い、アバターを使って、仮想現実の空間の中でシンポジウムをするものだ。 

VRchat自体は2017年にアメリカでリリースされたものだが、日本でもバーチャルYouTuberなどの動きと連動し、盛り上がっている。

直接空間を共有したり、自分の身体を晒すのではなく、遠隔で、アバター越しに「会う」という行動様式は、人間そのものや人間同士の関係性を根本的に革新する可能性がある。VR越しにアバターでハグやキスをすると、「幻の感覚」のようなものも生じる。ある人は、それを「心があったかくなる」と表現していた。

遠隔は、現実でのコンタクトに比べて未だ情報量が足りない部分は確かにある。しかし、エンジニアやデザイナーが様々に工夫して、遠隔を豊かにしつつある状況がある。この文化が発展していくことも、疑い得ない。

それは、ゼロ年代の文化が、2010年代を経て、改めて回帰してきたようにも思える。「ソーシャル・ディスタンス」時代に、人々は「直接会う」「濃厚接触する」ことへの飢餓をおぼえ、その価値を高めている一方で、「遠隔」であること特有の価値を追求したり豊かにする動きもある。

その両極の衝動が絡み合いつつ進展していくのが、おそらくは2020年代の文化になるだろう。

一人一人が考えを探る。その総体がアフター・コロナの文化に

新型コロナをめぐっては、感染拡大防止策と経済対策をどう両立していくのか、医療現場などで起こり得るトリアージ、あるいは日本的な同調圧力や空気をどう評価するのか、など様々な論点がある。議論を経て、人々の考え方も大きく変動するだろう。

 

そうした数々の論点の1つとして、人と人とのつながり方、身体のあり方などを巡る文化的動向も加えてほしいというのが、率直な願いである。きっとそれは、人と人との対話や理解のテーブルであり、民主主義の基礎となる「公共圏」のあり方をも、変えるものだから。

ネット時代は、一人一人が自律的に考え、意見を発することのできる時代である。何が必要で、どこに向かえばいいのか、個々人が考えて発信し、議論する。その「総体」として、未来の文化が作られていく。そのインフラそのものである「公共圏」についても、私たちは議論した方がいい。

「アフター・コロナ」時代の文化や社会は、私たち一人一人が、どう変えたいのか、どう変えなければならないのかについての考えを探っていく中で、形成されていくはずだ。

(文:藤田直哉/編集:南 麻理江)