相手を「バカ」だと決めつけない。ネットで繰り返される陰謀論、断ち切るには?

陰謀論を「妄想」と片付けるのはたやすいが、そう簡単な話でもない。アフター・トランプ時代の根深い分断を乗り越え、民主主義を維持するために。「宗教」の価値を再考することを提案してみたい。

アメリカ大統領選が事実上決着し、バイデン新大統領がまもなく誕生しようとしている。戦いは長かった。メディアで「バイデン氏勝利」が報じられて以降、トランプ氏が「不正選挙」だと言い張り、ネット上ではトランプ氏の敗北を認めない陰謀論が蔓延した。

アメリカのトランプ支持者がその陰謀論を信じるのはまだ分かるが、日本の人々、特に知識人までそれを言い出すというのは、不思議な現象だ。アメリカ社会はフェイクニュースと陰謀論による分断に苛まれているが、日本でもまた、同様の事態が起こっていると言えるだろう。

ドナルド・トランプ氏(2020年8月13日撮影)
ドナルド・トランプ氏(2020年8月13日撮影)
Kevin Lamarque / Reuters

陰謀論は扱いが難しい。単純にファクトチェックをしたり、「真実」「事実」を啓蒙したり、理性を重視せよと言うだけでは済まないような深いレベルの問題はおそらく残るし、ひょっとするとそれは民主主義のあり方と不可分の問題かもしれないのだ。

本稿では、政治学者リチャード・ホフスタッター(1916-1970)の陰謀論分析を参照しながら、陰謀論と民主主義の関係を再考し、我々がどのような民主主義を維持、構築すべきなのかを模索していくことにする。

「陰謀論」は19世紀からずっとある

政治史家リチャード・ホフスタッターによれば、アメリカは、「政治におけるパラノイド・スタイル」の国である。パラノイドとは偏執症のことで、誤解を恐れずにあえて単純化して言えば被害妄想だ。

1964年に発表された論考「アメリカ政治におけるパラノイド・スタイル」によると、19世紀から既に、陰謀論・デマによる政治は行われていた。たとえば、イルミナティ陰謀論、カトリック陰謀論。あるいは、反フリーメーソン運動。

パターンはいつも似たりよったりで、「フリーメーソンが政府機関に入り込んで侵略している」とか、「カトリックがアメリカを乗っ取ろうとしている」とか、今の日本でもお馴染みの論法である。SNSで非常に目立つこの思考の枠組みは、SNSによって発生したものではないのだ。

アメリカに「パラノイド」の感覚が根付いてきた背景はここでは深く論じないが、ヨーロッパでの迫害から逃れてきた人々が先住民を虐殺し、争いや戦いを繰り返すことで国を広げてきた歴史に基づく警戒心や不安感が、文化的に継承されているのではないかと個人的には考えている。

黒人への恐怖感、冷戦時のスパイや洗脳への恐れ、そしてQアノンの主張…パラノイド・スタイルによる陰謀論を全て「妄想」と片付けるのはたやすいが、これが根本的に「民主主義」の本質と不可分なものであるという点が、非常に厄介であり、であるがゆえに一考の余地がある。

トランプ大統領のキャンペーン集会を待つ、「Qアノン」のTシャツを着た支持者たち=2018年10月、テネシー州
トランプ大統領のキャンペーン集会を待つ、「Qアノン」のTシャツを着た支持者たち=2018年10月、テネシー州
Sean Rayford via Getty Images

民主主義は「エリートへの不信」に支えられている

そもそも民主主義というのは、基本的に、国家やエリートへの「不信」をベースにした制度である。王や貴族は自分たち一般市民のことを思いやり、最善の選択をしてくれるものだと皆が信頼できる世界では、民主主義以外の制度の方が効率がいい場合もあるだろう。アメリカ革命、フランス革命を起源のひとつとする近代的な民主主義は、その意味では反権威主義的で、パラノイド的な心性ーー脅威を感じ、警戒する心理ーーと切り離しにくい部分がある。

さらにそれは、「自由」の本質ともぶつかりあう。

ホフスタッターは前述の論考を、『アメリカの反知性主義』という大著の準備中に発表しているのだが、この中で注目したいのは、ホフスタッターが、(陰謀論と結びつきやすい)「反知性主義」を、「(知性のない)バカ」の言い換えとは考えていないということだ。反知性主義は、知性と感情の対立によって必然的に生まれる構図と彼は見做す。

ちなみに本書は1952年の大統領選についての言及から始まる。知性的なスティーヴンソンと、俗物的なアイゼンハワーとが対立し、アイゼンハワーの圧勝。そして、知識人が否定されたという嘆き、アメリカの文化や精神の劣化への憂い。知識人は政治家に揶揄され、ビジネスの論理への支配を嘆き、科学者は安全保障についての強迫観念が研究意欲を削ぐと主張……。奇妙なデジャブの感覚に襲われるのは、私だけではあるまい。なんだかいつも同じことを繰り返しているようだ。

2016年の大統領選、トランプ氏の勝利に嘆き悲しむヒラリー・クリントン氏の支持者たち
2016年の大統領選、トランプ氏の勝利に嘆き悲しむヒラリー・クリントン氏の支持者たち
Anadolu Agency via Getty Images

さて、陰謀論を読み解くための「反知性主義」だが、「知性と感情」の緊張関係はキリスト教徒ならば皆経験することで、特別にアメリカ的ではないとホフスタッターは言う。エリート主義的な上流階級の信仰に対し、「無学」な「持たざる階級」は、情緒に訴えかける宗教ーー聖書原理主義的な福音主義などーーに影響され、熱狂し、既存の権威に「反抗」して力を得た。

エリート宗教家の小難しい理屈で良い悪いを決められるのではなく、自分の心で決めるのだ、という宗教が、彼らに影響した。これが、反知性主義や陰謀論の培地であることは、論を俟たないだろう(そして似たような、“万人の心に仏がある”という思想は、日本にもある)。

知性のあるエリートに反発し「自分の心は自分で決める」のだと考える思想は、宗教のみならずカルチャーにも見てとれる。(ホフスタッターは、ヒッピーやビート族にも言及しており、同時代に隆盛してきたカウンターカルチャーを意識しながらこの本を書いている。

ロックやハリウッド映画、あるいは日本の少年漫画やテレビドラマなどでも、権威が押し付けてくる規則や見解に盲従するのではなく、「自由」に「個人」が判断する、心に従う、というのは、無数の作品で感動のクライマックスに置かれる「聖的な」場面である。

こうした考え方は、知識人やらマスコミやら学者やらの「権威」が言って来る「政治的に正しい」ことや、科学やエビデンスへの判断にも及ぶだろう。「自由」が陰謀論と不可分かもしれないとは、このような意味である。

「自由」で反権威主義的なインターネットの登場。そして…

さて、ここまで「陰謀論」が民主主義や自由の精神と不可分だと論じてきた。

だから陰謀論やポストトゥルースの弊害も甘受すべきなのか、というとそうは思わない。最後に、個人的な懺悔とともに、「陰謀論」との向き合い方という意味で提案のようなものを、少しだけ書きたい。

私はサブカルチャーを愛好する人間であり、研究者にまでなってしまった。アメリカ映画や文学は大量に摂取してきたので、我が身を通してその影響を痛感している。『イージーライダー』(1969年)などの、社会に反抗し逸脱する若者に憧れ、それがカッコいいと思った。政府や、社会全体が間違っているときに、反抗し逸脱するのは、人類に対する使命であると感じた。

ピーター・フォンダとデニス・ホッパーによるアメリカン・ニューシネマの代表作「イージー・ライダー」。写真は映画の宣伝用写真の一枚。
ピーター・フォンダとデニス・ホッパーによるアメリカン・ニューシネマの代表作「イージー・ライダー」。写真は映画の宣伝用写真の一枚。
Silver Screen Collection via Getty Images

この思想を抱えたまま、初期のインターネットの理念に共鳴した。インターネットやコンピュータ産業も、その起源は反権威主義的だった。シリコンバレー精神は、ヒッピー精神の後継者でもある。中央集権ではなく、分散という理念は、そもそもが民主主義的で、反権威主義的だろう。この「自由」は気持ち良かったし、正しい感じがしていた。

しかしこのインターネットが爆発させた自由と、民主化が、必然的にパラノイド・スタイルと陰謀論を拡大させたのだろう。陰謀論も「アポロは月へ行っていない」程度ならかわいいものだが、現実には往々にして弱者や少数派への偏見や差別に帰結したり、異なる意見を持つものを抹殺しようとしがちになってしまう。それでは、様々な人が意見を出し対話することで全体の危険性を減らし、生産性を向上させるという民主主義のメリットが損なわれてしまう。

リベラルは「宗教」と聞くだけでバカにするかもしれないけれど…

突飛に響くかもしれないが「処方箋」としてありうるのは、宗教なのかもしれない。もはや日本人にとって「無意識」になっている仏教や神道などのことである。無意識ではあるが、それは価値観や行動の規範や、道徳心に大きな影響を与えている。日本は伝統的に人々が協調し、思いやりを持つべきだという宗教的な考えの方が強かったはずだ。それは空気を読むことや、同調圧力などの負の側面を持っているが、分断やパラノイド、陰謀論などを防ぐ上では合理性のある思想だったようにも思われる。

いま、日本において、陰謀論や反知性主義や分断に抗うためのプラグマティックなツールとしての宗教の再検討が必須なように思われるのだ。リベラル派や左翼は、「宗教」と聞くだけでバカにして真面目に検討しようともしないかもしれない。しかし、理性や知性に偏重して一方的に啓蒙するだけでは、届かない。あらゆる人間が常に理性的でいることもできないのだ。そういう人間の、人類の姿を、ありのままに認めるしかないのではないか。

「宗教」を持ち出す時、もちろん、戦前への反省は不可欠だ。神道や仏教の哲学が、日本のファシズムや超国家主義に与えた影響は踏まえるべきだし、その反省を踏まえた上で戦後に展開されたアメリカン・デモクラシーの価値や理念、戦後民主主義者たちの祈念を軽視するべきではない。オウム真理教や、詐欺的な新興宗教の危険性も確かにある。

だが、アメリカの民主主義のこの帰結を見ている私たちは、単純に民主主義や自由の価値を擁護しながら、フェイクニュースや陰謀論を批判するという「安全な立場」はもうとれないはずだ。

だから、もう一度、再帰的に、プラグマティックに、宗教の遺産を活用することを考えてもいいのかもしれない。いきなり全員が何かに入信しろというのではない。機能的に等価なものであればそれでよい。しかし少なくとも、その意義を再確認し、議論の道具とする必要はある。もともと宗教は、統合のための道具であり、人々を良い方向に導くための手段であったのだから。

【文:藤田直哉 @naoya_fujita/ 編集:南 麻理江(ハフポスト日本版) @scmariesc

インターネットによって、他国の選挙もリアルタイムで世界中が見守る時代になりました。選挙権のない日本人の中にも「トランプ支持者」が生まれました。

ハフポスト日本版のライブ番組「#ハフライブ」では、日本から大統領選に在外投票したモーリー・ロバートソンさんらを迎え、「トランプ支持者の“心の中“と分断社会のこれから」をテーマに議論しました。(生配信日:2020年11月5日)
番組アーカイブもぜひご覧ください。

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