日本社会で「自分が損をしない」ということ ―「お買い得社会」の倫理(理論編)

人間主義的な倫理観が優っていなければならないような場面で、それを押し殺してしまうことができてしまう状況を思い浮かべて下さい。

日本とドイツでの両生活を通じて、日本では、赤子や子供連れの家族が電車に乗りづらいと思うことが多々あります。このような実感を持つ人は、私だけではないと思います。これは「電車内ベビーカー問題1」に見て取れるように、実際に多くの人が実感されているのではないでしょうか。もしこれが本当なら、日本社会は、小さな子を持つ母親の乗車権利を無視しているということになります。

おそらくこの問題は、近年では特に東アジア系外国人や移民に対するヘイト・スピーチ、社内ハラスメント、家庭内暴力、いじめなどに顕著に見られる(力の非対称的な人間関係に現れる)弱者差別・排斥(すなわち「弱い者いじめ」)の観点から考えるのが普通かもしれません。しかし、本稿では、敢て違った角度からこの問題を考えてみることによって日本社会への理解を深めたいと思います。

私の意見では、「電車内ベビーカー問題」は、日本社会でその強い傾向を示していると思われる「見て見ぬふり精神」が関係していると思います。もちろんみなさんの多くは、倫理的な面から、席を譲ってあげたい(譲らなければ)、配慮してあげたい(配慮してあげなければ)と心底では思っているでしょう。でも、会社があるし、疲れるし、席を立てば周りのみんなに注目されるから恥ずかしいし・・・という気持ちが優ってしまうのかもしれません。

実は、こういう事実は、電車内の問題に限りません。日本の社会では、ありとあらゆる所で見られる共通した現象なのです。すなわち、人間主義的な倫理観が優っていなければならないような場面で、それを押し殺してしまうことができてしまう状況を思い浮かべて下さい。

上に挙げた例の他には、デパートや外食店などでの恣意的なクレームに対する無視行為、大学のゼミ内でのパシリの強要やそれに対する無視、クラブ活動などでの新参者に対する仲間はずれ・リンチ行為に対する無視行為など。

「このような行為もみんな君のためを思ってやっているんだ」と言いながら、内心では「実際ちょっとひどい行為だけど、みんなに仲間はずれにされたら嫌だし、仕方ない。むしろその方が楽だし、いろんな意味で無視した方が得だ・・・」と。

みなさんも、このような場面に遭遇したことが何度かあるかと思います。

つまり、日本という社会は、うわべでは「配慮」「気配り」「おもてなし」を善しとしていながら、実際には本人の恣意的意向が優先されてしまう(あるいは、倫理よりも本人の意向を優先できる)奇妙な社会に見える節があります。この意味で、日本の「社会倫理」とは一体なんなのかと言いたくなるわけです。

では、なぜ日本ではこのような行為がまかり通ってしまうのでしょうか。私は、上に書いたような意味から、日本を「お買い得社会」と呼ぶことにします。すなわち、この社会では、ある人は、ある普遍的な倫理感からある実践的行為に至るのではなく、むしろ本人にとって当行為をする方が「お買い得」であり、それによりある種の「お得感」を得られるからその行為を行なうということも言えるのではないでしょうか。

つまり、この意味では、「お買い得行為」がこの社会の一つの倫理規範です(ちなみに、この「お買い得」という言葉も日本社会に特有の概念です)。逆に言えば、うわべでは他人を自分よりも価値ある者と表現しながら、自分が損をしないように振る舞うということが、日本社会の一つの暗黙の倫理規範なのです。

朝の挨拶から始まり、通勤、社内ミーティング、飲み会、合コン、パーティ、お中元・お歳暮、PTA・・・。

上に説明した「お買い得社会」の倫理とは、金融至上主義的な損得勘定倫理とは異なります。なぜなら、金融至上主義的倫理は基本的に「効率性」と「流動性」に価値を置くのに対し、「お買い得社会」では人は表面的にはそれらに価値を置いてはいけないことになっているからです。つまり、外面的には「他人への最大限の配慮」に価値をおきながら、実態としてはその配慮行為を自分のためだけに向けているのです。大ざっぱに言えば、他人を配慮しないと自分が損をするから配慮するのです。

もちろん現代産業社会ではサービス業が中心となりますので、そのような行為自体を責めることはできないのですが、その日本的な特徴は、他人を配慮することに最大の価値が置かれている点にあります。少し難しい言い方をすると、これは、自分のために自分を売りまたそれにより自分が他人や機械の操り人形と化すという行為、すなわち資本主義のシステムが高度になるにつれ現れてきた「疎外」という社会的現象の一つの日本的な現れ方に見えます。ある意味、これは、ドイツの社会科学者マックス・ウェーバーが説明したプロテスタンティズムの逆説に似ています2。

すなわち、日本においては、前近代的な「滅私奉公精神」が近代的な「お買い得精神」を生み出したと考えることができるかと思います。

要するに、日本では、電車内では(日本の首都圏の電車内は、先進国としては、一定時刻に異常に混み過ぎています)自分の行為を滅するという行為(最悪の通勤環境も会社への配慮)が、自分にお得な行為(他人に配慮しない)を取らせていると考えることができます。なぜなら、会社に「きちんと定時以内に通勤する」ということのために、朝早くから並んで手に入れた席を他人に譲ることなど、自分の体や精神状態のために「損」になってしまう、すなわち、座っている方が「お得」である。また、周りもそのことを完全に熟知しており、その空気を読んでいるのです。

いうまでもなく、電車内でこの空気を乱すことは容易ではありません。しかし、言うまでもなく、こういった行為が本人の人生にとって本当に「得」なのかどうかは別の問題です―単に、その場をやり過ごす方法(その場しのぎ)と考えることもできるかもしれません。とはいえ、こういった理由から、なぜ特にラッシュ時の通勤者が車内における社会的弱者らを容易に無視する結果になってしまうのかをまた一つ理解することができるかと思います。

1 例えば、以下のソースを参照。

2 ウェーバーは、資本主義というシステムが、前近代的なキリスト教(プロテスタント)の精神倫理を通して現れてきたと説明した。

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