アートとカルチャー
2020年02月10日 08時07分 JST | 更新 2020年02月10日 15時49分 JST

『パラサイト』が描けなかった問題。 富裕層の“欺瞞“を描く傑作が示すもの【アカデミー賞2020】

ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』。アジア映画として初めてアカデミー作品賞にノミネートされ、大きな話題になっている。

Jun Tsuboike / HuffPost Japan
映画『パラサイト』のパンフレット

ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』が全世界で一大旋風を巻き起こしている。カンヌ国際映画祭では、最高賞「パルム・ドール」を受賞。アカデミー賞ではアジア映画として初めて作品賞にノミネートされ、注目を集めている。 

格差や環境問題を扱った本作が、世界中で高く評価される背景には、これまでのポン・ジュノ作品で扱われた趣向や技法の成熟がある。

本稿では、『パラサイト』へと集約される重要な作品を紹介した上で、彼が見事に描き切った、現代の富裕層の欺瞞について解説を試みたい。

その向こう側には、『パラサイト』が回避したより深刻な問いが浮かび上がる。金持ちが、真に慈悲と思いやりに満ちた人々だった時、”持たざる者たち”は、何に怒りを覚えればいいのか、という問いだ。

*この記事は、一部「ネタバレ」を含みます。

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キム一家

寄生虫と宿主ーー『パラサイト』と『グエムル-漢江の怪物-』は”対”になっていた。

『パラサイト』へと続く、ポン・ジュノ作品を振り返る時、『グエムル-漢江の怪物-』の話は、是非しておかなければならない。韓国で1000万人以上を動員する大ヒットとなった本作の英題は『The Host』なのだから。

『Parasite』というタイトルは、明らかに「Host」と対になっている。日本語にすると「寄生虫」と「宿主」という意味である。

「グエムル괴물」とは、韓国語で「怪物」を意味する。その怪獣は、漢江に不法投棄された化学薬品の影響で生まれたものだった。そいつが大暴れして、韓国の人々が大勢犠牲になる。この設定は、2000年に米軍がホルムアルデヒドを漢江に流すという事件を連想させるように作られている。結末近くでは、米軍がベトナム戦争で用いた枯葉剤「エージェント・オレンジ」をもじった「エージェント・イエロー」という化学兵器も登場する。監督のインタビューなどを参照するに、明確に米国批判、米軍批判の意図がある作品だ。 

時事通信社
2020年1月8日撮影

このような「怪獣」の使い方は、怪獣に街を壊滅させることで核兵器・原子力の脅威と惨禍を伝えた『ゴジラ』(1954)をふまえていると思っていいだろう。

英題を『The Host(宿主)』とした『グエムル』において、「宿主」と「寄生虫」とは何だったのか。韓国が宿主で、米軍(基地)が寄生虫か。あるいは、安全保障などの面でアメリカに依存しなくてはいけない韓国が寄生虫なのだろうか。 

寓意は多義的であり、一つに確定するのは困難だ。いずれにせよ『パラサイト』を理解するためには、それと対になった『グエムル』の反米性、及び強者と弱者の多義的な対立構造は把握しておく必要があるだろう。

 

格差と環境問題ーー『スノーピアサー』と『オクジャ』に隠された、洗練されたエコ趣味への批判

続けて、『パラサイト』を理解する上で、避けては通れない過去作が『スノーピアサー』と『オクジャ』だ。ともに、『パラサイト』が描いた格差と環境問題を、秀逸な「寓意」や「隠喩」で表現している。 

『スノーピアサー』は、地球温暖化を食い止めようとする政策の結果、全世界が氷に覆われてしまった未来を描くSFだ。そこには永久機関で動く列車が走っており、その中で人類が生活を営んでいる。列車の後部には貧困層が住み、前方には富裕層。ゴキブリを食い、奴隷のように働かされていた後ろの車両の人々が、階層を次々と移動し、富裕層に反乱を起こし、列車そのものを破壊していく。この作品のメッセージは明白だ。

また、氷に覆われた世界の中で「サバイブ」するという感覚は、資本主義下での自由競争を求める「新自由主義」の世界で生きる人々の実存の寓話でもあるだろう。

『オクジャ』は、環境問題を解決する”エコフレンドリー”な肉を生産することで、良いイメージを作ろうとするアメリカ企業が批判の対象となる。対抗軸となるのは、韓国の山の中で家畜と心を通わせる素朴な少女だ。エコに配慮したりロハスな暮らしを好む洗練された欧米のエスタブリッシュメントの欺瞞を皮肉る。(韓国の田舎に住んでいる無知な女の子のほうが、よっぽど自然や動物と心が通っている)

作中では豚の屠殺(とさつ)を生々しく描き、動物倫理や、肉食の残虐性について、観客に体感的に理解させる演出をしている。

この3作品を踏まえた上で『パラサイト』を読み解くと、より豊かな読解ができそうである。どの作品も、社会に横たわる「格差」の問題を、複層的かつ多義的に描き、寓意的なエンターテイメントとして成立させようとした作品だ。その成功の度合いはそれぞれ違う(『スノーピアサー』は失敗作だと思う)が、『パラサイト』はポン・ジュノ監督が試してきたその文法の見事な円熟を示す快作なのだ。

富裕層特有のエコ趣味を批判。なぜなら…

『パラサイト』は韓国の「半地下」に住む貧しい一家が、ITビジネスで大成功している富裕層の家に入り込み、仕事を得ていく話である。

二つの家族の貧富の差を見れば、これが「格差」をテーマにした作品であることは誰にでもわかると思うが、なかでも、富裕層特有のエコ趣味が批判されている点が興味深い。

それがわかるのは作中の建築だ。洗練された東洋哲学や禅(ZEN)の感覚を思わせる高級な家の中で暮らす、品のいい一家は、自然の感覚を大事にする、まさに現代の富裕層だ。SDGsや、エコフレンドリーな企業の製品を応援する先進国のプチブルたちーー

ここで批判されているのは、洗練された趣味や快適さを失わない範囲でのみ、環境に配慮するというその感性なのである。

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洗練された東洋哲学や禅の感覚を思わせる高級なパク一家の家

作中における具体的な例を挙げると、豊かな家族の妻は、非常にポジティブなキャラクターで、大雨で家が水没し、避難所に泊まらざるを得なくなった貧しい一家の父の前で(そうと知らず)「大雨が降ったおかげで空気が綺麗になってよかった」などの発言をする。被害に遭う人々が見えておらず、想像することも共感することもないから、言えることだ。

「格差」「階層」「分断」とは、このような無意識レベルの線引きのことでもある。それこそ、地域で分割されれば、見えないし、感じることもない。

「自然災害」という生命と財産に直接のダメージを受ける、現代の観客にとって生々しいモチーフでこうした線引きを描くことで、観客はよりダイレクトに皮肉を受け取るともいえるだろう。

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『パラサイト 半地下の家族』ティザービジュアル.jpg

「匂い」で格差を描き、「多文化主義」のアキレス腱を撃つ。

そしてこうした「格差」の問題が「怒り」として爆発するきっかけとして、監督は「匂い」という非常に体感的なメタファーを用いている。

豊かな家族が、貧しい一家の匂いを嫌悪しているということが、(貧しい家族のメンバーや観客の)怒りを蓄積させていくのだ。

そもそも、貧しさは「匂い」と関連するものだ。貧しい地域だからこそ、大雨で水没し、便器から下水は逆流する。差別も「匂い」と関係する。生活習慣、食文化、ゴミの出し方などなど、文化や宗教、民族などが衝突する現場には、匂いの問題があることが多い。

「多文化共存」「多様性」と観念的に言うのは容易いのだが、自分たちが慣れたそれとは異なる「匂い」の人々と、空間をともにし共存するというのは、それほど簡単ではないだろう。

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半地下の住宅で暮らすキム一家

『パラサイト』は、”きれいごと”ばかりを謳う社会のアキレス腱を撃つためにこそ、「匂い」に焦点化したのだろう。

長くなったが、本作が描こうとした2点ーーエコ・ロハス趣味の富裕層の欺瞞性と、「匂い」による多様性擁護の破綻という点ーーは、『グエムル』の単純な反米性や、『スノーピアサー』の図式的な階級批判よりも、いっそう複雑なものになった。

「自然や環境を守ろうとする」「多文化主義や多様性を擁護しようとする」ようなアメリカを含む先進国の富裕層それ自体の欺瞞性を批判するという試みになっているからだ。

こうして、これまでよりも「敵」の像が複雑になりリアリティを増した点が、本作の評価されるべき点であり、世界中でこれほどまでに高い評価と人気を得ている要因だと考える。「それはおかしいよ」と思っている人が、世界中にたくさんいたのだ。そのモヤモヤした気持ちに言葉や物語を与えることに成功した点が、本作の画期的なポイントではないかと思う。

もしもお金持ちの人が、真に善人だったら…

しかし個人的には、手放しに礼賛できないジレンマのような思いがある。作品がやや教条主義的にも見え、それによって、世界における真に深刻な問いが回避されているようにも感じる点だ。

 真に深刻な問いというのは、富裕層の人々が、真に慈悲があって思いやりをもった人々であった場合に生じる。大雨のときには貧しい人を気遣い、環境問題の解決に奔走し、自分の子供ばかりを優先するのではなく刺された他の人を救おうとしていたら、貧しい家族側の怒りと暴力はどうなっただろうか。怒りはそこまで高まらず、暴力は(観客の心理の中で)正当化されなかったのではないか。

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パク夫婦

人々が本当に善意で、それでも格差や残酷な構造的不平等が存在する場合。その不平等に対する怒りはどこに向けるべきか。怒りをどうやって維持するのか。

多くの人が、この世界の構造やシステムに起因する不平等を「知らないから」怒りが湧かないのではなく、立ち上がらないわけではなく、むしろ充分に承知の上で、それが世界のためになると信じたり、生きるためにやむを得ないと考え、受け入れているのだとしたら…。

その心理へは本作ではまだ届かない。現代の観客の多くは、おそらく単なる無知ではなく、そのような複雑な心理の中に生きているはずだ。

映画という表現の魅力の一つが、ある深刻な問題についての認識を、身体を伴った人間としての共感という回路を通じて、エンターテイメントとして楽しめるように提示できる点にあるのだとすると、本作はその見事な達成であるが、弱点はこの美点(単純化)と表裏一体なので、なかなか悩ましいのである。寓意と隠喩によってエンターテイメント的に社会の問題を語る文法それ自体の臨界点に、おそらく本作は到達してしまっている。

 

(編集:南 麻理江 @scmariesc