フランス人イスラム教徒の多くは、アルカイダではなくフランスの安全を守るために働いている

フランスにはイスラム教コミュニティは存在しない。イスラム教徒がいるだけだ。この単純な事実を認めるだけで、現在進行中の、そしてこの先起こるであろうヒステリーに対する有効な防護手段となるだろう。
A Muslim man holds a placard, reading 'Not in my name', during a gathering on January 9, 2015 near the mosque of Saint-Etienne, eastern France, after the country's bloodiest attack in half a century on the offices of the weekly satirical Charlie Hebdo killing 12 people on January 7. AFP PHOTO / JEAN-PHILIPPE KSIAZEK (Photo credit should read JEAN-PHILIPPE KSIAZEK/AFP/Getty Images)
A Muslim man holds a placard, reading 'Not in my name', during a gathering on January 9, 2015 near the mosque of Saint-Etienne, eastern France, after the country's bloodiest attack in half a century on the offices of the weekly satirical Charlie Hebdo killing 12 people on January 7. AFP PHOTO / JEAN-PHILIPPE KSIAZEK (Photo credit should read JEAN-PHILIPPE KSIAZEK/AFP/Getty Images)
JEAN-PHILIPPE KSIAZEK via Getty Images

[フィレンツェ] パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件が、フランスに以前から存在するイスラム社会と欧米社会の融和についての議論を再燃させている。この問題はアメリカよりも西欧のほうがより複雑だ。というのも、フランスでは膨大な数のイスラム教徒が、単に居住しているというだけではなく、市民権を持っているからだ。

奇妙な偶然だが、シャルリー・エブドが襲撃されたのと同じ日に、フランス人ベストセラー作家ミシェル・ウエルベックによる待望の新刊『Submission』が出版された。同書はイスラム教穏健派の政党が、2022年のフランス大統領選および議会選挙で勝利する様子を描いている。

イスラム社会と、フランスあるいは西欧諸国一般の政治風土との融和という問題は、もはやいつもの顔ぶれ、つまり、大衆迎合主義的な右派、保守的なキリスト教信者、左派の頑固な世俗主義者の間だけの問題にとどまらない。それは感情的なものとなって、今や政治的スペクトラム(志向)の左から右まで全体に広がっているのだ。このことで、テロリストに共鳴しないイスラム教徒たちは今、イスラム教に対する社会の反感を恐れている。

大雑把に言うと、矛盾するふたつの主張が存在する。優勢なのは、問題の核心にあるのはイスラム教であるという主張である。「イスラム教は、国家に対する忠誠よりも宗教的コミュニティに対する忠誠を優先させる。批判を許容せず、行動規範や価値観に関して妥協を許さず、聖戦(ジハード)といった特定の暴力を許容する。だから悪い」という理論だ。この主張の支持者からみると、解決策は「信仰改革」のみとなる。信仰改革を行うことで、リベラルで、フェミニストや同性愛者に理解のある「善良な」イスラム教を作りだすというのである。ジャーナリストや政治家たちは常に「善きイスラム教徒」を見張っていて、彼らを召集しては「穏健派」である証拠を見せろと要求する。

もう一つの主張は、「過激な行動はイスラム教に因るものではなく、人種差別や排他主義の犠牲になった若者たちが起こしていることであって、問題の本質はイスラム恐怖症である」というものだ。敬虔な信者であるかどうかにかかわらず、多文化主義的な左寄りの人々に支えられたイスラム教徒の多くが、こう主張する。彼らはテロリズムを糾弾し、同時に、イスラム教に対する社会の反感についても、ますます多くの若者を過激化させることになりかねないと非難する。

問題は、この主張のどちらもが、フランスには「イスラム教コミュニティ」が存在し、テロリストはその「先頭」にいる、ということを前提としている点である。

「イスラム教徒はコミュニティに属することが非難されるが、同時に、テロリズムに対しては、コミュニティ全体で反発することを求められる。これは"ダブルバインド"で、二つの矛盾することを求められている状態だ」

この二つの主張が並置されていることで、状況はこう着している。状況を打開するためには、まず、避けることのできないいくつかの事実を認めなければならない。我々はこれらの事実を認めたがらない。なぜなら、議論の前提としていたことが、事実ではないことを示しているからだ。過激化した若者がイスラム教徒たちの先頭に立っているわけでもないし、彼らを代弁しているわけでもない。そして「イスラム教コミュニティ」というものが、フランスには存在しない。これが事実だ。

かつてのウンマのような、ムスリム政治の理想的な姿を心のよりどころとしている過激派の若者たちは、両親が信仰するイスラム教、そしてイスラム教文化全般と、意図的に対立している。

彼らは、欧米に対立するものとしてのイスラム教を作り上げる。彼らはイスラム教の世界では、中心的な立場ではなく周辺的な立場にある。彼らは西洋の価値観を元に報じられる暴力を見て、行動を起こす。彼らは世代間の断絶を体現し(最近では、自分の子供がシリアに向けて旅立ったことを親が警察に通報した)、地元のイスラム教コミュニティと付き合わず、近所のモスクの活動にも参加しない。

こうした若者は、インターネット上で世界的な聖戦を探し求め、誰かに教唆されたわけでもなく自らを過激化していく。彼らはパレスチナ問題などの、イスラム教世界が抱えている具体的な問題には興味がない。端的にいうと、彼らは、自分が暮らす社会をイスラム教化しようとしているのではなく、病んだヒロイック・ファンタジーの世界を実現しようとしているのだ(「シャルリー・エブド」銃撃犯人の一部が、「預言者ムハンマドの仇をとってやったぞ」と言ったように)。

過激派に転向した者の大部分を見れば明らかなように、過激化が起きているのは数少ない非主流派の若者の間においてであり、イスラムの人々の中心で起きているわけではない。

固定観念を超えて

むしろ、数々の事実が、フランスに住むイスラム教徒が一般に考えられているよりも社会に溶け込んでいるという事実を示しているといえる。「イスラム教徒による」襲撃事件のたびに、少なくとも一人のイスラム教徒が警察側で犠牲者になる――例えば2012年、トゥールーズでモハメド・メラに殺されたフランス兵のイブン・イマド・ザィアテン、あるいはシャルリー・エブドのオフィスで犯人たちを止めようとして殺された警察官、アフメッド・メラベがそうだ。

しかし、殺害された彼らは、イスラム教徒の代表的な例としてではなく、例外だと見なされる。テロリストこそが「本当の」イスラム教徒で、それ以外は例外だというのである。だが数字を見ると、これは間違っている。フランスでは、兵士、警察官、憲兵を務めるイスラム教徒のほうが、アルカイダのネットワークにいるイスラム教徒よりも多いのだ。行政、病院、法律事務所、教育機関に勤める人についても、言うまでもない。

もうひとつ、「イスラム教徒はテロリズムを非難しない」という固定観念もある。しかしインターネット上には、テロリズムを非難する声やテロリストを糾弾するファトワ(イスラム法学上の勧告)が溢れている。この記事も、その一例だ。

イスラム社会全体が過激化しているという理論は、事実とは異なっている。しかし、なぜ人々は事実ではないと認めようとはしないのか。それは、人はイスラム社会を「広範囲におよぶコミュニティ」であると考えており、また同時に、そのことを顕示していないとして批判するからである。

イスラム教徒はコミュニティに属することが非難されるが、同時に、テロリズムに対しては、コミュニティ全体で反発することを求められる。これは"ダブルバインド"で、二つの相矛盾することを求められている状態だ。

「フランスにはイスラム教コミュニティは存在しない。イスラム教徒がいるだけだ」

仮に地方レベルで、あるいは近隣地域で、特定の形を持ったコミュニティが存在するとしても、全国的なレベルではそれは存在しない。フランスのイスラム教徒はかつて一度も、自分たちを代表する機関を設立しようと望んだことはなかったし、それどころか、イスラム教徒のためのロビー活動をしようとしたことすらない。イスラム教徒による政党結成を指し示す兆候もない。イスラム系の政治家は、政治的スペクトラム(志向)に幅広く(極右も含めて)散らばっている。「イスラム教徒票」というものは存在しない。

イスラム教の学校のネットワークも存在しない(フランスにあるイスラム教の学校は10校に満たない)し、街頭で大規模な集会が開かれることもなく(イスラム教の大義のために行われたデモ行進が数千人以上を集めたことはない)、大きな聖堂も無いに等しい(そしてその建設にはたいてい、国外からの資本提供によるものだ)。モスクは、地域単位で小さなものがいくつかあるだけだ。

コミュニティたらんとする取り組みがあるとしたら、それはお上、国家から与えられたものであって、市民から発したものではない。グランド・モスケ・ド・パリを拠点とし、イスラム教徒を代表する組織であると言われる仏イスラム評議会に対しては、フランス政府も海外諸国の政府も距離を置いているし、フランスでは組織としての正当性も認められていない。つまりイスラム教の「コミュニティ」は、非常にフランス的な個人主義が仇となってうまくまとまらないままなのだ。これは喜ばしいことである。

だが、左派も右派も、かの有名なイスラム教コミュニティに言及するのをやめようとはしない。フランス社会への融合を拒絶することを非難したり、あるいはイスラム教に対する社会の反感の被害者とし表現したり。そして対立するこの二つの主張は、どちらも、イスラム教コミュニティというありもしない空想に基づいているのだ。

フランスにはイスラム教コミュニティは存在しない。イスラム教徒がいるだけだ。この単純な事実を認めるだけで、現在進行中の、そしてこの先起こるであろうヒステリーに対する有効な防護手段となるだろう。

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この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。

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