複雑化する社会を良く生きるためにテクノロジーでできること

人がよりいきいきとした状態を、情報技術によって実現することは可能なのか?また、そのためには、具体的に何をどうすればいいのか?

今や情報技術は、社会や経済のインフラとなり、私たちは情報技術のない生活を想像することすら難しい。情報技術は便利さや効率化をもたらしてはきたが、一方で、必ずしも人の「こころ」を豊かにしてはこなかった。

そこで、人がよりいきいきとした状態である「ウェルビーイング」のためのテクノロジーの設計論である「ポジティブ・コンピューティング(Positive Computing)」が注目されている。

そもそも、人がよりいきいきとした状態を、情報技術によって実現することは可能なのか?また、そのためには、具体的に何をどうすればいいのか?

ポジティブ・コンピューティングの概念を提唱する「ウェルビーイングの設計論 人がよりよく生きるための情報技術(原題:Positive Computing)」の監訳者のひとりであるNTT コミュニケーション科学基礎研究所 主任研究員(特別研究員)の渡邊淳司さんに、科学技術社会論が専門で東京大学特任講師の江間有沙さんとともに話を伺った。

問いを投げかけ、自分の頭で考えるための情報技術

渡邊さんはもともと大学でバーチャルリアリティ(VR)の研究からスタートし、知覚心理学や触覚を研究するようになった。

その一方で、情報技術を使ったワークショップや作品展示を通じて、人が考えるための問いを提示する体験をつくってきた。

渡邊さんが取り出したのは手のひらサイズの立方体の白い箱だ。

渡邊:これ、体験したことありますか?2010年からこの装置を使ったワークショップ「心臓ピクニック」を行っています。

渡邊さん(右)が聴診器型のマイクを胸にあてると、心音が振動に変換されて、江間さん(左)が手に持っている立方体の白い箱が、あたかも本当の心臓のようにリアルタイムで拍動する。

江間:すごい。

渡邊:この装置を使うと、心臓の鼓動を手の上の振動として触覚的に感じることができます。僕、生きていますよね。

当たり前ですけれど、「生命」とか「生きている」ということを概念として知っているのと、体験することは違うんです。他の人の心臓と交換してみると、速さとか強さがちょっとずつ違うんです。

自分と他人の差異がわかると、だんだん概念を実感をもって理解するようになります。

自分が生きていること、そのために心臓がずっと動き続けているということを実感して、他の人にもそれぞれ違うけど、同じ大事なものがあるということを体験してもらう、そんなワークショップをやってきました。

江間:なんか不思議ですね。流れていますね。中に水が入っているわけじゃないのに、中を血液が流れているような気がする。

渡邊:それは「心臓ピクニック」の共同研究者で、装置を制作した安藤英由樹先生のデザインの素晴らしいところで、軟らかい感覚とか、そういうものを硬い素材で作ることができる、そういうノウハウがあるから伝わるというのもありますね。

最後にここ(電源プラグ)を抜いてください。

江間:動かない。振ったら、中に液体が入っているんじゃないかという気がします。

渡邊:当たり前ですが、電源プラグを抜くと振動はとまります。そのときに、少し切ない気持ちになったり、不思議な気持ちになったりすることがあるかもしれません。

普通、電気を消してもこんな気持にはならない。触覚的な信号に、僕らは勝手に意味付けを始めているんですね。

この振動は、触っているうちに、だんだん生命の象徴になってくる。触覚で感じるだけじゃなくて、それに意味付けをすることをやっていたんですね。

江間:この形が絶妙ですよね。

渡邊:そこは仲間と一緒にすごく考えました。「心臓の形のほうがいいんじゃない」とよく言われるんですが、もちろん考えてこの形にしているのです(笑)

江間:硬いんだけれど硬くないとか、視覚的に心臓とは違うものなんだけど、とか、ちょっと違和感があって考えてしまいますね。

でも、これはこれとして受け入れられる。適度な解像度での見立てが可能になる。でも、本物に似せると違う意味になりますよね。

渡邊:そうすると、思考停止が起こるんです。

江間:心臓に似せすぎると思考停止になるというのはまさにその通りだと思います。本物と近いけれど何かひとつだけでも違うものがあって違和感があると、存在を意識するから考える。

だから、現実のものではない、現実にあったらどうか、と考えさせるものになる。

そのインタフェースの絶妙さがないと、同じ技術を使っていてもあるものは思考停止の方向にいくだろうし、あるものは価値をすごく考えさせるようになります。

技術は同じでも、それをどう編集するかどうか、ということですね。

「思考停止」させるような情報技術が氾濫している

渡邊: この本のなかに、「Human Autonomy」と「Machine Autonomy」という言葉がでてきます。

「Human Autonomy」とは、心臓ピクニックのワークショップでの体験のように、人間が自分で自律的に何かを理解したり、判断したりすること。

「Machine Autonomy」というのは、機械が人間を計測して、自律的に判断し、情報提示をする。

例えば、この絵は、「心臓ピクニック」のように心拍を計測して提示することを「Machine Autonomy」の思想でやるとこうなるよね、と対比させるために作った絵です。

心拍数を測って、「今あなたの心拍数はこうなので、甘いものを食べたらどう?」みたいに、「こうした方がいいよ」と表示するスマホのアプリです。

でも、これがあったからといって、そんなに良い世界ではないんじゃないのかなと。

江間:人が考えなくなる機械ですね。

――こういう情報提示はよくありますよね。でも、これが嬉しいかというと、全然嬉しくない。

渡邊:「Human Autonomy」の設計から考えると、まったく嬉しくないことだと思います。ただ、すべてがそういうわけではなくて、むしろ、人が考えなくてよいというニーズは多いともいえます。

情報技術全体に言えることなんですが、一部の人、例えば2割くらいの人たちが「これはどうなんだろう?」と疑問を持ったとしても、残りの8割の人はもともと気にしていないということは良くあると思います。

ただ、8割の人に受け入れられても「それをやって本当に大丈夫?意味があるの?」という問いかけは常に考えないといけない。

同じように、本を書く人や情報技術を設計する人は人口の1%もいませんが、その1%の思想だけが1億人に出回ることは大丈夫なのかと。

最近、他の人の世界が、自分の周りの世界と同じだと錯覚してしまう、フィルターバブルという話がよく出てきますが、実は1%の人たちは他の99%の人たちのことを全然わかっていないのかもしれません。

「心拍数を測って甘いものをどうぞ」を嬉しいと考える人たちにとって、「何も考えず受け入れて、それでいいんですか?」と言う人がいても、「何を言われているのか全然わからない。そんなことを言ってどうするの?」となって、永遠に噛み合わないかもしれません。

「甘いものをどうぞ」の情報技術は、人間の心を、機械と同じ信号処理のひとつとして扱うことになります。

人間の心の状態が関数みたいな物で評価されて、それを最適化するように情報が人間に入力される。出力としての心の状態も、同じ入力に対しては常に同じ出力が出てくることが仮定されている。

同じ入力をして、全然違う出力になったり、自分で意味を見出して、勝手な行動をしたりすることはない。でも、人間の心はもっと揺らいでいるものだし、個人差も大きいはずです。

――ウェルビーイングのように、人のこころを豊かにするとか、感情とかに価値を置いた情報技術をやりましょうと、ここ10年くらい多くの人が言っていますが、それで出て来るプロダクトは「甘いものをどうぞ」というものですよね。どうしてこうなってしまうのでしょう?

渡邊:どう考えたらよいかわからないのだと思います。何に基づいて、何を評価して、どうなることがベターなのか、そのための考え方自体が概念化されていない、もしくはそれがあっても広まっていない。

そこで、考え方を世の中に示せないかというのがこの本の出版に、自分が関わったモチベーションなんですね。

もっとも、これだけですべてのものをクリアに設計できるかというと疑問は残るんですが、まず考える土台を提供できるのではないでしょうか。

――情報技術の怖いところは、最初に出たものがいったん受け入れられると広がってそれ以外の選択肢が失われてしまうところだと思っていて、さっきの話で言うと、1%の人たちの思想がいったん受け入れられると、100%の思想になってしまうんですよね。

それが良いか悪いかという議論をする余地が今はあまりありません。

渡邊:まさに、それが良いか悪いかという以前に、それを考えるプロセスがないことが問題だと思います。

「出てきたから使います」をひたすら続けることが本当にいいのかと。「これって何の意味があるんだっけ?」と、自分にとっての意味を考えたり、価値を見つけたりする機会や時間、きっかけが必要です。

江間:その話はすごく大事なような気がします。

「心拍数を測って甘いものをどうぞ」の話でも、「自分の情報がわかって便利だし、これ欲しい」という人もいるかもしれない一方で、そこに対して疑問を呈する人もいるかもしれないですよね。

同じ技術を見ていても、「いいね」と「いやだな」と反応が分かれるものこそ、なぜそう感じるのかということを対話する姿勢は大事だと思うんです。

ウェルビーイングを考えるための土台

渡邊さんらが監訳を担当した、ウェルビーイングの設計論 人がよりよく生きるための情報技術」(BNN新社、2017年)ラファエル・A・カルヴォ、ドリアン・ピーターズ 著、渡邊淳司、ドミニク・チェン 監訳)が先月発売された。

――「ウェルビーイングの設計論 人がよりよく生きるための情報技術」では、個人のウェルビーイングを高めて人の潜在力を引き出し、社会全体の利益に貢献するようなテクノロジーの設計を「ポジティブ・コンピューティング」と呼び、ウェルビーイングの設計論の概念を整理しています。

江間:渡邊さんは「ウェルビーイングはこれだよ」と言うのではなくて、「心臓ピクニック」のように問いを作ることで考えさせるプロセスに焦点を当てられているんですよね?

渡邊:そうですね。

江間:プロセスに注目したとき、「ポジティブ感情」や「共感」といった、心地良いものがあるからウェルビーイングを感じるというだけではないのでは?と思いました。

例えば、不具合や違和感があるからこそ、ウェルビーイングに気づくとかもあるわけですよね。人によってウェルビーイングの要素の重み付けが違うとか。あるいはウェルビーイングとは何かを問いかけること自体が不快とか。

ウェルビーイングとは何かということを問いかける、考えること自体に疲れてしまって、「一般的にウェルビーイングはこういうものだよ」と言ってくれるほうが嬉しい人もいるのかな?とか。

ウェルビーイングって、どういうふうに理解されていますか?

渡邊:正直、僕も、この本を読み始めるまでは、ウェルビーイングとはこれだという確固たる信念があったわけではありません。この本には、三つのウェルビーイングについて書かれています。

はじめが、医学的なウェルビーイング。心身が機能的に不全でないということですね。健康診断や質問表によって測ることができます。

二つ目が、快楽主義的ウェルビーイング。気持ちいいといった一時的な感情としてのウェルビーイングです。気持ちを聞くアンケートや、そのときの体の変化で測ることができます。

三つ目が持続的ウェルビーイング。これを説明するのに、フローリシング(flourishing)という日本人には聞きなれない言葉が使われています。「開花」という意味なのですが、人間が心身の潜在能力を発揮し、意義を感じていること。

一言で言うと「いきいきとした状態」の実現としてのウェルビーイング。

ただし、三つ目が難しいのは、具体的なものと直接対応させることができない抽象的な概念として扱われていること。つまり、複雑で捉えどころがないけど、みんながそれについて同意できるもの。

たとえば、天気や景気というのと似ています。それが何かはなんとなくわかるけど、具体的に表すとなると様々な要素が複雑に絡み合っている。だから、いろんな評価基準でいろんな角度から計測することになるのです。

たとえば、ポジティブ感情だったり、自律的な行動だったり、自己効力感だったり、人とのつながりだったり、ウェルビーイングと関連するであろう要素をいろいろ計測することになります。

あまり答えになっていないですが、ウェルビーイングとは、医学的に機能が不全でないことをもとにして、快楽的な感情だけでなく、持続的にいきいきと人間が生きていけること、及びその人間の性質を言うんじゃないかと思います。

――なぜウェルビーイングだったんでしょうか?

渡邊: 僕はバーチャルリアリティの研究室出身だということもあり、人間と技術の関係に興味がありました。ただ、最近、この業界がどの方向に向かっているのかわからなくなっている気がしていました。

今現在、バーチャルリアリティは産業として社会に浸透してきていますが、多くは海外からだということがあります。

日本では、いくら研究室で素晴らしい技術ができたとしても、ある日Googleが同じようなものを出してきたらみんなはそっちを使い出すわけです。

残念ながら、日本ではアカデミアで生まれたものが産業につながりにくい構造になっている。

また、アカデミアだからこそできる、エンタテインメントや新しい体験をつくるという取り組みもありますが、言葉は悪いですが面白いネタ出しをしているだけと見られてしまう状況もあって、僕には危機的な状況に見えたんですね。

もちろん、アカデミアは教育という大きな仕事があるわけですが、それだけではない新しい方向性もあるんじゃないか、実はもっと扱うべき問題があるんじゃないかと思っていました。

実は、僕個人としても、自身の2005年から2009年の触覚研究に関する大きな研究予算が終わり、その後の方向性を考えていた頃がありました。

振り返ってみると、僕は触覚そのものに関心があるわけではなくて、触覚を通して何かの意味を理解したり、触覚を通して何かを伝えたりすることに興味があるんだなということがわかりました。

それで「心臓ピクニック」などのワークショップの意味を考え直したり、それを本(『情報を生み出す触覚の知性』、化学同人、2014年)にまとめたりしてきました。

それからだんだん、人の動機づけとか、人と社会のつながり、といったところに興味が移っていきました。

あと、僕は芸術祭などで展示することもあり、そこでデザインやアートの考えに触れることも多く、なんとなくですが、今必要なのは、人の心とテクノロジーの関係を見直すこと、設計できるようになることなのではないかと思うようになりました。

――部分ごとの関心だったのが、全体を通じての設計に移ってきたということでしょうか?

渡邊:僕は、人間の知覚の研究をやりつつ、一方で、テクノロジーを使いながら、人間の知覚や存在の意味を問いかけるようなワークショップをやってきました。

心理学や認知科学の研究と、ワークショップでやってきたことの両方がウェルビーイングの研究には必要なんだと思います。

言い換えると、視覚や触覚のような知覚の研究や心理学の研究があって、一方で「自分とは何でしょう?」と問いかけるテクノロジーがあって、それらの境界領域になるんじゃないかと思っています。

――渡邊さんが考える、ウェルビーイングの設計論にもとづいてつくられたプロダクトの具体的な形はどんなものですか?

多分、さっきの「甘いものをどうぞ」もウェルビーイングだと言う人もいると思うんですが、思想はウェルビーイングだったはずが実際にプロダクトになるとぜんぜん違う、というのはよく起こることです。

渡邊:この本は、基本的には西洋的な思想に基づいて書かれたもので、この本に書いてあるのと同じことを日本でやっても、うまくいかないことが多いと思います。

そのときに役立つのは、本の中ではcollectivist、 集産主義と訳しましたが、日本のような個人よりも集団を尊重する文化が持つ特徴、たとえば、人と人との関係性や、無意識や身体性から入っていくということがあると思います。

――「心臓ピクニック」のように、使った人が考える、というのはウェルビーイングの設計としてひとつのやり方ですよね。渡邊さんが仰るように、答えを与えるのではなく問いを与えて、考えてもらう。

でも、それにリーチできるのはすごく意識が高くて、自分で考えたいという人だけですよね。もっと誰でも気軽にリーチできるような具体的なやり方ってありますか?

渡邊:この本を読んで一番良かったことは、いろんなものがここに書かれている概念で理解できるようになったことですね。

ある人の行動を見た時に、「今この人はどのように”動機づけ”がなされていて、”マインドフルネス”な判断ができず、それが過去への振り返りを悪化させて、”反芻”してしまっている」というように。このように把握することは、最初のステップとして大事なんじゃないかと僕は思っています。

ただし、この本にはたくさんのことが書いてあるんですが、それらの関係性をクリアにしないと、実際にウェルビーイングの設計をするときに具体化するのが難しいかもしれません。

たとえば、一人の心のあり方を考えたときに、行動や考えのための「動機づけ」があり、そこからの「現在の感情や態度」があり、さらに「過去への振り返り」というプロセスがあります。

その過程の中に、「モチベーション」「ポジティブ感情」「マインドフルネス」「エンゲージメント(没頭)」「フロー」「レジリエンス」「セルフアウェアネス(自己への気づき)」「セルフコンパッション(自己への慈悲)」といったキーワードが全部入ってくるわけですよね。

例えば、動機づけについては外的なものと内的なものもあります。さっきの「甘いものをどうぞ」のような、何をどのくらいやりなさいという、定量化された外からの目標設定は外的な動機づけです。

これに頼りすぎると人は思考停止になりやすい。一方、内的な動機づけは、自分の中から湧き上がるものもあれば、誰かが言っていることに自分が意味付けをしたり共感したりしながら内的に統合していく、ということもあります。

さらに、他人の良い行動を見ることによって生じる動機づけ(高揚)もあります。どちらにしろ、一般に内的な動機づけのほうが、自律的な行動を導きやすく、ウェルビーイングにつながりやすいことが知られています。

人が行動をするときに、心には、その動機づけや、現在の感情や態度、振り返りのループが生じます。「動機づけのポイント」「現在のポイント」「振り返りのポイント」があるわけですね。

さらに、このそれぞれの過程で、情報技術がどう使われるのか、という話になります。

たとえば、自己の振り返りのためにログを取ったり、自分の状態をビジュアライズすることができて、さらに、それが次の行動のモチベーションにつながったりします。SNSで何かを共有することがモチベーションになるというのは身近な例ですね。

まずは、このような人間の心を一つのシステムとして考えたときの枠組みやその構成要素、関連技術を、理解しやすいかたちで示し、それを見ながら「自分はどうだろう?」と振り返りができるようにすることが必要なんです。

この本は、科学的なエビデンスに基づいて素材を提供してくれているので、あとは、私たちが、その見取り図や、レシピを作っていく必要があるのだと思います。

ウェルビーイング設計論のためのマップを作る

――では、今から簡単にマップを書いてみましょうか。

渡邊:先ほども述べましたが、ウェルビーイングは抽象概念です。その構成要素は、なんとなく同意が取れていたり、科学的に実証されていたりするものもあります。

しかし、その関係性をユーザー目線で整理したものは少ないです。だから、そのためのマップを創りたいと思っています。

マップができれば、たとえば、ユーザーが「もっと日々の生活の中で没頭するようにしたい」としたら、マップの中でここを操作したらいいのでは、と診断書的なものとして使えるようになればと思っています。

ウェルビーイング設計論を考えるためのマップ。黒字がベースとなる人の動き。青字は、それを支援する情報技術。赤字は、ウェルビーイングといったときのそもそもの目的などを指す。

――この全体像のマップをユーザーそれぞれが認識した上で、このループの中に入っていったら、さっきの「甘いものをどうぞ」もポジティブ・コンピューティングと考えられませんか?

全体像がなくてあれだけだとディストピアみたいに見えてしまいますが。

渡邊:そうかもしれません。

単純に、誰かが「甘いものをどうぞ」となると、情報提示側がユーザーをコントロールしていることになりますが、この全体像のマップがあったうえならば、アプリに「甘いものをどうぞ」を言われてもいいんです。

なぜ「甘いものをどうぞ」を言われているかを本人がわかって使っているから。

今、自分がなぜそれをしているのかを全体から第三者的に見ることができれば、言い換えると、情報提示側の意図を透明化することができれば「甘いものをどうぞ」もアリだと思います。

ウェルビーイングの設計論というのは、ユーザースタディをもっと人間の生活全体で見てみよう、ということに近いかもしれません。人間の日々の活動全体を通して、その時に起きていることを可視化して、自分の体験を振り返る。

そんなふうにマップを使って自分のウェルビーイングを設計するワークショップも考えられますね。

――ウェルビーイングは主観を扱いますが、主観の客観的評価は完全にはできません。でも評価しないといけないから数値化するとなると、どうしてもこぼれ落ちてくることがあります。

でも、全体像を見せて透明にすることで、数値化しても問題なく主観を扱えるようにもっていけるわけですね。

渡邊:主観的なものを何かの数値として示すのではなく、個人個人が自分で意味付けができる枠組みや方法論を作ることのほうが重要なんですね。

この枠組みをなるべく科学的な実証に基づいてつくり、更新していく、つまり新しいマップをどんどんつくっていって、それに基づいてユーザーが自律的に具体化していく。そんなサイクルができればと思います。

誰のための、何のためのウェルビーイングか?

江間:ここで、ウェルビーイングといったときの目的はどう定めるんでしょうか。色々ありますし、それぞれの概念が意味するものも多様化していますよね(モデル図の赤字)?そこを考えるのが大事だと思っています。

このモデルを回していくことはわかるし、中に構成要素としていろんな情報技術(モデル図の青字)を入れるというのもわかるんですが、目的のところは問いですよね。

自分で考えるものなのか、誰かがあらかじめ目的を決めるものなのでしょうか。

渡邊:正直、きちんとした答えは持ち合わせていないのですが、目的を決めてそれに最適化するようにマップを考えるという目的志向のやり方は、もしかしたらウェルビーイングの設計には合わないのかなと思います。

むしろ、人間の心を一つのシステムとして考えた先ほどのサイクルがきちんと回ることを第一に考え、そこから、後づけで目的といえるものが意識されてくるのかもしれないと思います。

つまり、目的を事前に設定された静的なものとして捉えない。むしろ、事後的に気づき更新されていくべきものだという考え方もあるのではないかということです。

――目的はユーザーそれぞれが決めてはだめですか?決めようとすることで、考えることになりますが。

江間:決められる人は決められるかもしれないけれど、ハードルが高くないですかね?私自身、決めろと言われてすぐできるか。

渡邊:たとえば、自分の健康診断の結果を見て、もちろん明らかに悪いところは治療すべきなのだけれども、すべてを完全な状態にすることは年齢とともに不可能になってくる。

そのときに、何を良しとして、何を悪しとするのか、その基準が自分のなかでできてくることなのかなと思います。

――今自分の健康のことを考えた時に、最近では厚生労働省は、健康でいる期間が重要と「健康寿命」と言うようになりましたが、ちょっと前までどれだけ長生きできるかという生存寿命を指標にしていましたよね。

長生きがよし、とされていると「でも長生きしたくないし」と言いにくかった。

でも、その自分の健康の指標を自分以外の誰かが決めていいものなのかなあと。それは政府が決めるのか、誰が決めるものなんでしょうか。

江間:その価値を誰がどう決めるのかとか、価値同士が対立するときはどうなるのかとか考えると、もしかしたら炎上する可能性もあるわけですよね。

例えば、今の「長生きしたくないし」とか現在の医療の基本路線に乗らない考え方とかをウェルビーイングでどう扱うのか。

極端な思考実験ですが、「他人の不幸は蜜の味」みたいに一般的な考え方からは外れる思考が混ざったとき、このモデルをどう回していけばいいんでしょう。

渡邊:ウェルビーイングで重要なことは、自分がいきいきとした状態を「持続できる心身の特性」が育まれるべきだということです。

「刹那的な快楽」だったり「他人の不幸は蜜の味」というのはあるかもしれませんが、長いスパンでみた時、その人のウェルビーイングにそれが含まれるかどうか疑問があります。

江間:目的が事後的に更新されていくことになると、個人によってモデルへの落とし込み方が変わってくるのではないでしょうか。

それは技術と社会が相互作用してウェルビーイングという概念を作り上げるという考え方だと思うのですが、そうすると例えば、何をもって「正義」とするのかが多様化していると想定すると、モデルに落とした時に「正義」を実現するための要素技術も変わるのではないでしょうか。

また、モデルの単位が、個人ではなく国家となったときに、モデルの仕組みは同じでも、要素技術が変わってくるような気がします。

ある国のウェルビーイングと、別の国のウェルビーイングが微妙に違っていて、その要素技術が相反するとなった時に、モデルを作るだけでなく、モデルを使った対話の方法までデザインする必要が出てくるように思います。

――このモデルはフィードバックしてループしていますが、いま情報技術で問題になっていることは、それによって全体主義的になってしまうことですよね。

目的のところが、あらかじめ決められてしまっていて、個人に選択の余地がなくなっています。

江間:全体主義で個人に選択の余地がない中でも、ある意味ウェルビーイングがあるモデルは作れると思っています。

でも、個人の自律性というか、自分の立ち位置を、全体像を個人が自覚できていることがウェルビーイングの要素であるとするならば、それにはやはり目的がどう決まるのか、誰が決めるのかが気になります。

例えば目的に対する懐疑的な目線が、このループの中から出てくることが必要なのではないかなと。

渡邊:なるほど。どこかで、目的を振り返る何かがないといけないということですね。

江間:全員がそれをする必要があるのかどうかはわからないですけれど。

例えば今、ある人たちには幸せなモデルが回っているのに、あえてそれを懐疑的にみて、壊して再構成するというのはその幸せな人たちにとっては怖いことかもしれない。

もしかしたら自分が大事にしているウェルビーイングの要素が、他の人たちには大事ではないかもしれないと突き付けられる覚悟があるかっていう。昨今の欧米は、その目的の再定義を迫られている状況なのかなと。

渡邊:1%の設計側の思想が、全体の方向性を決めてよいのかという話ですね。

江間: 何をウェルビーイングとするかは、基盤になる政治体制や経済体制にすごく影響を受けると思うんですね。

さっき話に出た全体主義の中での幸せの作り方と、民主主義の中でのウェルビーイングの作り方や構成要素って、多分違います。だから、私たちが話しているのはこの図のもっと外側の話なのかもしれないんですが。

自分たちの立ち位置を再帰的に懐疑的に考えてウェルビーイングを再定義するものなのか、そうじゃなくて既存の体制の中に自分のうまく適応させて最適化させて幸せに生きていくためにはどうしたらいいのかを考えるためのウェルビーイングなのか、渡邊さんがどちらを考えているのか、知りたいです。

この本を読んでひとつ思ったのが、基本的に心理学よりの話で、政治体制や今の社会構造という視点が弱い気がしました。特定のコミュニティの中だけの話をしているんならそれでもいいんです。

フィルターバブルの中でいかに幸せを回していくのか、コミュニティの中でみんな立ち回って楽しくなっていけるのか、ということを考えればいいわけなので。それもある意味切実な問題でもありますし。

ただ、国とかいう大きな体制自体の前提がぐずぐずになっている時に、自分たちの立ち位置や重きを置く価値のそもそも論を考えることが、今求められているんじゃないでしょうか。そういう視点もぜひこのモデルに入れてほしいです。

渡邊:ある体制の中でシステムがうまく回っていてウェルビーイングが実現されていればそれで終わりかというと、それだけではないと思います。さっきのマップもそうですが、ああいうものは自分がなぜ行動したり、感じているのかを問いかけるものです。それは、最終的には、個人だけでなく、自分の置かれた家族や、コミュニティ、文化、政治などへも向けられるものだと思います。

ただ、それをどこまでやるかは人によるでしょう。8割の人はそのことを気にせず、社会という劇場の観覧者として生きていくのか、2割の人はそれに興味を持って、劇に参加してくれるかもしれない。さらには1%の人しか、劇をつくる側にはいないかもしれない。ただ、それがいつでも誰でも可能であるように、社会ができるだけ透明化されていることが望ましいように思います。

そもそもの目的から考え、情報技術を使うことに固執しない

江間:透明化された中で興味を持った人たちが対話をしはじめたとき、下手したら参加している人の一部が一番大事にしている価値を捨てないといけないこともあると思うんですよ。

情報技術の研究者は「この技術があるから便利になる、幸せになる」とか人びとのウェルビーイングのために技術を作ることを目的としています。

でも、そもそも何が目的なのかとかを考えていくと、実は技術のサポートはいらない、ということもあるかもしれない。その時に、情報技術の人がこのサイクルに入ってこられるのか、ということもひとつの挑戦だと思っています。

渡邊さんの話を聞いていて、すごいな、と思ったのは、情報技術の研究者なのだけれども、情報技術を使うことを前提としてこのウェルビーイングの話をしていないこと。

あと例えば観覧者でいいという人が8割で、目的を再構成したいと考えた2割のうちの大多数が渡邊さんの大事にしている「個人の自律性」はいらないと思った時、自律性を捨てたモデルが作られる可能性がありますよね。

でも、その中でも自分は自律性が必要だと思うんだ、といった対話をしていくこと、そのデザインをどうするかという話になるのだと思いますが、どうでしょうか?

渡邊:この場合、ウェルビーイングが抽象概念であるということがよい方向に働くのかなと。

個人個人では「自律性」とか「自己効力感」とか「関係性」とか「没頭」とか、ウェルビーイングを構成している要素のうち大切にしているものの重み付けが異なります。

それを自身で理解した上で、別の人が現れるとします。その人は、また別の重み付けを持っているわけですよね。その2人が一緒に何かをして新しい価値を作ることになったときに、どう折り合いを付けるか。

方法は大まかに2つあって、それぞれ個人のウェルビーイングを高くするようにして、個人にとって重要なものを尊重し、他人との「関係性」のウェルビーイングを下げるという方向。

もうひとつは、それぞれのウェルビーイングを無理やり上げようとするのではなく、できるだけ下げないやり方で活動し、うまくチームとして機能することで、「関係性」を上げてウェルビーイング全体を補完するという考え方もできます。

結局は、バランスをどうとるかの問題で、もしかしたら、個人のウェルビーイングを最大化するデザイン以外にも、個人が犠牲になったり、ネガティブにならない範囲でシステムをデザインして、全体がうまく「回ること」で「関係性」や「意義(他人からの評価)」として別の報酬を得ることで、結果としてウェルビーイング全体が向上するという考え方もできると思います。

江間:回ること?

渡邊:例えば、2人で何か仕事をするときに、一方の人の「自律性」が下がっても全体としては仕事がうまくいくということが考えられます。

2人の言葉や行動がかみ合ってきて、だんだんひとつのチームとして機能しだすということは、2人の個人の心のシステムのひとつ上のレイヤーでシステムができていくということです。

このシステムの中で個人が役割を果たすことで、「関係性」や「意義」といった社会的な報酬が返ってきますよね。これがうまく回っていくような仕組みが重要になります。

江間:うまく回らないんだったら、関係を解消することがウェルビーイングを高めるということもあるわけですよね。

渡邊:ありますね。

――この本はウェルビーイングのための情報技術について触れられていますが、設計側の人は、まず情報技術を使うことから入りますよね。でも、ウェルビーイングといったときに技術は必ずしも使わなくてもいいとなるわけですよね。

渡邊:使わないのも全然ありですね。

江間:この本はウェルビーイングのための設計論で、ウェルビーイングの中身を解説している。

それを引っ張ってきて、自分たちがつくっている情報技術を正当化するか、あるいはここに書かれた考えに沿って設計すれば受け入れてくれる、と考える人たちがいるかもしれませんよね。

でも、それって思考停止になる設計論ですよね。そういう人たちにこそ、そうじゃないですよ、ということを考えてもらうためのものになって欲しいなと。

渡邊:本の中でも「Well-Washing」という言葉がでてきます。ウェルビーイングという大義名分だけ持ってきて、この商品はウェルビーイングを向上させます、という広告を作り出したりすることが既に起きています。

江間:技術を受け入れてほしい人が、「これで定量的にウェルビーイング評価できました、エビデンスがあります」というふうに使われたくないな、と。

作り手とユーザーが同じマップを共有する

――ウェルビーイングの設計論の具体化をどうするか、といったら、まずは全体像のマップを書くこと。マップ自体は、可視化して明示化しているかどうかは別として、今でもあることはあります。

マップの局所最適化は、今でも情報技術でやっていることですよね。設計側の作り手とユーザーがマップを認識することが、ウェルビーイングの条件なのではと思うんですが、違いますか?

この本は作り手側の本ですが、作り手だけがウェルビーイングを意識していたら、ウェルビーイングのプロダクトにならない気がするんです。

ユーザー側にとってもウェルビーイングです、となるためには、ユーザー側と作り手側の両方が透明性を確保して、このマップを共有しておく必要があるのではないですか?

渡邊:作る側とユーザー側は同じフォーマットのマップを持っていていいと思うんです。食べ物の原材料の成分表示とか製品の取り扱い説明書みたいに、作る側はこんなことを意図してつくりました、と。

たとえば、このアプリは人の「ポジティブ感情」をこれくらい上げるつもりで、「没頭」する時間を作りだします、とか。もちろん、それはユーザー個人によって受け取り方は違うし、起こることも違う。

ただ、設計側が何を意図しているか透明性を担保する必要はあるように思います。誠実なコミュニケーションとして。

ユーザーが何かを買ったり、それに時間を費やすということは、その設計思想に賛同することでもあるという見方もあります。そう考えると、ユーザーに透明であることは、作り手にも利益があることだと思います。

江間:技術を作る時のひとつのよりどころとして使えるということでしょうか。

渡邊:製品がどんな人間の心の状態を目指して作られているのか、そして、それがユーザーの手に渡ったときに、ユーザーの心のシステムにどのような変化を及ぼすのか、そういうことを精密に考えることはあまりありません。

もしかしたら、作る側もなんとなく、「かっこよく」とか「スタイリッシュ」というレベルでしか考えていないこともあるかもしれません。

だからこそ、作る側の意図の透明性だったり、ユーザーが三人称的視点で振り返るマップを持っている必要があるのではないでしょうか。

作る側とユーザー側がそれぞれマップを持っていて、それを見比べながら、商品や行動の選択ができると良いのではないかと思います。

それに、ユーザー側もマップを持っていれば、「それは違う」という評価をユーザー側からできるようになりますよね。とりあえず「いい感じじゃん」となると、ある種の思考停止なわけで。

もちろん、全部のことにそう考えていたら大変だし、最初は、「いい感じじゃん」でもいいと思うのですが、そのあと、なぜ「いい感じじゃん」なのかを振り返る仕組みがあると良いのではと思います。

作る側だけじゃなくて、ユーザー側が「本当にこれ、大丈夫?」と言えるといいなと思います。

江間:そもそも、作り手が提供するものを「なんかこれおかしい」とユーザーが指摘できることが必要とされているのって、ユーザーが作り手を信頼できなくなってきているからだと思うんですよね。

例えば、身近にAppleのことが好きで「Apple製品を買うのはお布施」という人がいるんですが。それはAppleの設計論を信じているからですよね。

Appleが目的としている価値を共有しているし信頼していると、その目的の中身は何だったかとか、そもそも疑うとかすることはしないですよね。

だけど、今、そもそも「ウェルビーイングの設計論」の必要性が出てくること自体、情報技術の設計に対する信頼がなくなっているからなのでは思います。

信頼されていないから、価値を共有できていると思えないからユーザーがちゃんと監視をして、透明性を担保しないといけなくなっているというところがある。

一方で、その状態は本当にいいことなのか、この状態自体がウェルビーイングなのか?という問題設定もあるんじゃないかと思ったりもします。

渡邊:設計指針を示すことは、個人の価値観が多様である限り、やらないといけないことだと思うんですよね。

信頼はコミュニケーションの基盤ですが、何を伝えているかという内容だけでなく、どのように伝えているかという方法が、信頼を作り出すには重要で、記号情報じゃないところでしか信頼は生まれないともいえます。

こういうマップを共有し透明性を担保するだけでなく、どのようにユーザーへ伝えるか、共有するための方法論も重要となります。

――信頼構築って、企業はマーケティングやPRでやっていることですが、こういうマップを共有することは信頼につながりますね。

江間:いざとなったら、中身を開けられるというか、説明してもらえる。

渡邊:本の中でも出てきましたが、ハンナ・アーレントのplurality(複数性)の話とも関連していて、他者とひとつのチャンネルだけでやりとりをするのではなく、マルチのチャンネルで伝えることが重要になります。

記号的なものだけではなく、身体的なものを通じて人間はコミュニケーションをする。それは、作り手とユーザーとのウェルビーイングに関するコミュニケーションにおいても同じなのかなという気がします。

江間:あと、自分自身も多様化しているというのがあって、同じ立場で同じところにいても、会う人や文脈によって、自分自身が全く違う考え方や思想になることってありますよね。

他者との関係性の中で自分が浮かび上がるというか。そういう意味でも、pluralityがあると思います。

マップがあるから対話ができるということと、対話をしながらマップを作っていくこと両方があると思っていて、その過程で、「自分」や自分がより処とするような基盤も立ち現れてくるのかなと思うんです。

ウェルビーイング設計論はどう普及するか?

――現状の情報技術の設計は、必ずしもウェルビーイングの方向性ではありませんが、今後ウェルビーイングの設計論は、情報技術の設計全体の方向性を大きく変えていくものになるのでしょうか?

渡邊:研究者の中ではこの分野の関心は高まりつつあります。ウェルビーイングというテーマが中心になるかはわかりませんが、情報技術と人間、情報技術と社会の関係は、現在、もう一度見直されようとしています。

食品の成分表示が義務化されて、添加物のない食品を食べようとか、作る側と消費する側、両方の意識や評価基準が変わったように、情報技術でも「これは一体何を意図されたものなのか」といったことがわかりやすく提示されることで、情報技術の設計を変えていくことができるのではないかと感じています。

そこから、ウェルビーイングの設計のための、より具体的なガイドラインを見出すことができるのではないかと思うんですね。

そして、マップを使用することをいきなり法律にするというよりは、うまくコミュニティを作りながら、マップを使う側がその意味を自律的に理解しながら、広めていくようなことが必要なんだと思います。

江間:クリエイティブ・コモンズのようなあり方が近いんでしょうか?コミュニティの中で自発的こういうのが大事だよね、と動いてきて、段々みんなが使うようになっていくという。

その場合、設計する人自体が考えて欲しいから、研究者と社会との対話だけじゃなくて、研究者コミュニティ内での対話という一番厚くて硬い壁をどう突破するかというところがあるんじゃないかなと思っています。

その点では考えることは2つあるんですよね。設計論を積み上げていくということと、その設計論自体をどう伝えていくのかというアプローチ法の設計みたいな。

渡邊:おっしゃるとおり、マップとしてその精度を高めるという話と、その考えを誰にどのように届けるのかというコミュニケーションやプラットフォームの話は、異なる問題です。

考え方が広がる原理として、SNS的なものや経済原理もありますね。「みんながやっているから」「こっちの方が儲かるから」「こっちのほうが人事評価がいいから」となったらみんなやるだろうし。

ただ、そのような外的な動機づけの場合、広まる速度は速いかも知れませんが、どこまでその意味を理解して行っているかということが問題になります。

また、1%の情報技術の設計者がウェルビーイングは素晴らしいといって、それを残り99%の人にさもそれが絶対的に正しいことのように届けるのは、また違った問題を生み出します。

ウェルビーイングの設計論、僕自身、非常に重要なテーマだと思っていますし、その素材がこの本に書かれています。ただし、それは絶対的なものではなく、誰もが参加者となりながら、更新されていくべきものだと思っています。

■プロフィール

渡邊淳司(わたなべ・じゅんじ)

2005年東京大学大学院情報理工学系研究科博士課程修了。博士(情報理工学)。NTTコミュニケーション科学基礎研究所主任研究員(特別研究員)、東京工業大学大学院特任准教授。人間の知覚メカニズム、特に視覚・触覚の研究を行う。人間の知覚特性を利用したインタフェース技術を開発、展示するなかで、人間の感覚と環境との関係性を理論と応用の両面から研究している。

江間有沙(えま・ありさ)

2012年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。2012年4月から2015年3月京都大学白眉センター特定助教。2015年4月より東京大学教養学部附属教養教育高度化機構科学技術インタープリター養成講座特任講師。NPO法人市民科学研究室理事。人工知能と社会の関係について考えるAIR (Acceptable Intelligence with Responsibility)研究会を有志とともに2014年より開始。

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