豊かになるほど子供が減るのはなぜか

人には誰しも誇りとか羞恥心とかがありますが、それらは持って生まれるものではありません。

人には誰しも誇りとか羞恥心とかがありますが、それらは持って生まれるものではありません。誇りとか羞恥心とかを持たずに生きて行くことはできないのですが、心の中に最初からそれらのものが備わっているわけではありません。人は、自分が属している社会の中で他人との関係を通して自分なりの誇りとか羞恥心とかを構築していきます。要はお互いに隣を横目で覗いて、これくらいなら恥ずかしくないのかな、と確認しながら生きているわけです。ですから、社会の豊かさが大きく向上すると、誇りや羞恥心の基準も大きく変化します。

たとえば自分が属している社会が貧しい人達ばかりで構成されているなら、皆と同じくらいの貧しさは恥ずかしいことではありません。ずば抜けて貧しいことは恥ずかしいことですが、隣と同じくらいの貧しさであれば恥ずかしいこととは感じません。貧しい社会に暮らす貧しい人々にとって子供を育てるというのは、子供が働ける年齢になるまで食事を与えるという意味です。子供達の服装はみすぼらしいですし学歴も低いですが、周りの人達も同じくらいみすぼらしくて低学歴なわけですから何も恥ずかしいことはありません。こういう社会では子供一人を育てるのにかかるコストは高くありません。子供が四人でも五人でもコストや手間の面で大きな違いはないわけです。

所属している社会の経済が発展し豊かになると、当然ですが人々はみすぼらしくなくなります。周囲の人達がみすぼらしくなくなる中で自分だけがみすぼらしいと、それは恥ずべきことになってしまいます。恥をかかないためには、自分だけではなく子供にもみすぼらしい格好をさせられません。

皆が貧しかった時には、子供がみすぼらしい格好をしていても恥ではありませんでしたし低学歴も普通のことでした。しかし豊かになった社会では、子供にそれなりの服装をさせなくてはいけませんしある程度の教育を与えてやらねばなりません。結果として子供一人を育てるのに必要になる費用は跳ね上がります。

ここで重要なのは、貧しかった人達が豊かになったとは言ってもそれはみすぼらしくなくなったという程度の話であって莫大な富を手に入れたという意味ではないという点です。

周囲の人達がみすぼらしくない生活をしている中で自分達だけがみすぼらしい生活をすることは恥ずかしいことだと感じますから、自分の生活レベルを落として生活がみすぼらしくなることを避けようとします。そのため子供をたくさんつくって生活レベルを落とすという選択をする人は少数で、大多数の人達は今の生活レベルを維持できる数の子供しかつくらないという選択をします。

貧しい社会では子供がたくさんいるのは珍しいことではありませんでしたが、豊かな社会ではたくさんの子供がいる人はズバ抜けて裕福な人かよっぽど変わった人だけになってしまいます。

しかし裕福な人が必ず子だくさんな生活を選ぶわけではありませんから、もしすべての人が十分な豊かさを手に入れたとしても人口が増えるかどうかは分かりません。

さて、あなたはどう思いますか?

(2014年6月17日「誰かが言わねば」より転載)

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