フェイスブックと将来のグローバル・ガバナンス

私たちに実行意思と地球的危機への責任感があれば、フェイスブックというプラットフォームは、民主的なグローバルガバナンスの合法的な形態に変わっていける可能性を秘めている。

フェイスブックは、全世界の人々が共通の関心事を持つ友だちを探す空間であり、よりよい世の中をつくるための方法について、ともに真摯に意見を交換できる重要なプラットフォームとして発展してきた。

フェイスブックは個人の利用者を「潜在的な広告需要者」とみなし、個人所有の掲示物から収集した個人の情報を第三者に販売するなど、利益を追求する企業ではある。しかし、個人がサイバー上で多くの友だちをつくり、全世界的に人脈を広げることができるという点では、フェイスブックは完璧ではないがこれまでで最善の手段であるといえる。

フェイスブックは、本来、真摯な知的交流や政治的な意見交流の場としてつくられたものではない。例えば、共通の関心事を持っていたり、同じ地域に暮らす人をフェイスブックの検索で探し出すことは、いまでもそう簡単にできるわけではない。フェイスブックを通してや取りした資料を後で簡単に探せるようにフェイスブック上に体系的に保存できる方法も、やはりない。

時間的に前に掲示された情報は、新しい掲示物が掲載されれば、トップページの下段に消えるよう設計されている。さらに、第三者がつくったプログラムをフェイスブックに運用できる方法もない。要するにフェイスブックは「共有地」とはなっていない。

もし、フェイスブックがそのような方法をとるようになれば、利用者は自分でフェイスブックでの機能を拡張したり、自分のページを多様にカスタマイズすることができるだろう。

このように、フェイスブックの利用者が自らフェイスブックをより意味のある情報共有の場として革新できる方法は多くあるだろう。

しかし、そのようなフェイスブックの限界にもかかわらず、実際にフェイスブックは政治的な意識をもつ利用者によって、地域的、国際的に政治社会的なことがらに対する奥の深い討論の場として使われている。

現在、フェイスブックの構成に不備があっても、世界の思慮深い人びとはフェイスブックを広い討論の場として利用している。とくに開発途上国では、市民運動家や中高生たちが、討論の場としての機能をどんどん活用している。フェイスブックは初めはそのような目的でつくられたのではないが、これまで政策討論の場からは完全に除外されてきた人々にも参加の機会を与えているのである。

もちろん、インターネットには専門化された討論の場がたくさんある。フェイスブックは、世界のあらゆる階層の人々が参加できる点においては唯一無二といえよう。

フェイスブックは、個人が政策を提案し、広く共感を得、あるいは専門家の意見を集めることもできる。討論の場としては不備も多いが、グローバルガバナンスをになっている国連や世界銀行、OECDのような国際機関よりも何年も先を行っているといえる。

そのような国際機関も内部的な討論を経て、文書を一般市民向けに一方的に配布してはいるが、そこで使われている用語は往々にして難解である。 このような国際機関はナイジェリア商人や中国の高校生は言うまでもなく、政治や経済専門の教授でさえ、 こうした国際機関の政策に対して意見を提案することはできないだろう。

「潜在力」という次元から、現在、グローバルガバナンスの主な機関である国連とフェイスブックを比べてみることにしよう。国連の正式の構成員は独立国家だけである。たとえ、企業や市民団体と一緒に仕事をしているとはいえ、参加の資格はきわめて制限されているといえる。

国連は設立された最初から使命とその稼動する領域にはおおいに限界があった。 国家しか対象としない国連が国家という社会単位が崩壊しているこんにちなんの役割を果たしているのかはっきりしない。国家が多国籍企業やその他の多国籍組織の利益の代弁者となり、多くの国において政治力のほとんどは ごく少数の人の手に握られているこんにちにおいては、国家の制度を通して自分の意見を国連で表現することは不可能だ。

実は、フェイスブックという社会現象は、フェイスブックという会社がつくったものではない。私たちがつくったものである。フェイスブックという会社は、私たちの費用で(フェイスブックの利用者数を担保に)ばく大で、低金利の融資を受け、グローバルネットワークを拡張させることができた。ばく大な資本を確保することができたなら、誰でも、「フェイスブック」をつくることはできたはずである。

フェイスブックに人やコンテンツを集めることができたのは、まさに私たちであった。フェイスブックの創業者たちは、19世紀、アメリカ大陸横断のユニオンパシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)を創業して大金持ちになった創業者たちと同様だといえるだろう。

ユニオンパシフィック鉄道は、クラーク・デュラント(Clark Durant)とマーク・ホプキンス(Mark Hopkins)が要領のいい投資家たちを集め創業したが、鉄道の利用者たちの要求に応えて、合理的な施設に改善していくことができた。

短距離輸送車差別(要するに競争がある長距離輸送の場合、値段を安くして、その代わり競争のまったくない短距離輸送の場合は値段を法外に高くする習慣。多くの鉄道がそのように差別して農家を破産させた)高すぎる輸送費を禁止した1887年の「州間貿易条例」(Interstate Commerce Act)は鉄道利用者たちの支持に支えられて制定され、それまで自由勝手に行われてきた鉄道事業は20世紀に入って厳格な規制によって信頼できる公共施設として変身することができたのである。

私たちは、フェイスブック(または、フェイスブックアバタ)を民主的グローバルガバナンスのプラットフォームとして変化させる作業を一日も早く始めなければならない。しかしこれは容易ではないかも知れない。

今までそのような地球的次元の挑戦に対処できると期待されてきた機関は、みな悲惨なほどに失敗してきた。私たちは、一つの種としての人類を結ぶヒューマンネットワークの形成をこれ以上待っているだけではいけない。現在、私たちはすでにインターネットの各種データシステムに統合されているが、不幸にも私たちは、お互いをまったく知らないでいる。地球的次元の脅威に対応するための参加型グローバルガバナンスの新しい場をつくり出すために、私たちは互いに対する無知や無関心を克服しなければならない。

私たちは、フェイスブックで何ができるのかについての、説得力のある具体的な提案をつくり、さらに私たちの意志や創意力でフェイスブックが進歩していく方向を示す必要がある。それなしにはフェイスブックは誕生日ケーキやサッカーゲームの写真を交換する以上の場所になることはできないだろう。

ということは、本当に難しい部分が残ったことになる。オンライン上で真の公共のグローバルコミュニティーをつくるために、フェイスブックの会社に直接利用者がきちんとした手続きを経て、 利益を追求する企業としてフェイスブックのデザインや構造を決定できるように要求することに応じるインセンティブがない。

しかしその反面、代案的なSNSは、 参加者が極度に制限されており、誰もが参加できる フェイスブックにはるかに及ばない。進歩的な考えを持つ人々だけの進歩的な考えの共有は社会全体に対してあまり役には立たない。

私たちが必要としているのは、誰もが理解することができる広範囲な談論の場だからである。そのための第一歩は、グローバルガバナンスの場としてのソーシャルネットワークの具体的な未来ビジョンや、そのようなビジョンがフェイスブックの利用者たちの日常生活にどれだけ重要なのかを提示することである。

そのビジョンにはフェイスブック内で巨視的、微視的水準での政策提示、討論方法、政策承認に関するフェイスブック自体のガバナンスのためのルールがなければならない。フェイスブック自体のガバナンスは、個人やコミュニティのニーズをより容易に、クリアに反映するように革新することから始めなければならない。簡単な例を挙げると、個人がフェイスブック内に自分のアプリケーションを装着することができ、これを共有したり販売することができる権限を与えることである。

そのようなフェイスブック自体のガバナンスに関する政策決定過程は、各地域のコミュニティが地域やグローバル政策に関して討論し、決定する形式を含んでいる。フェイスブックは誰もが地域やグローバルな政策を提示し、それに対して関係するコミュニティの構成員が投票して、最終的に政策を決定する場を提供することである。

私たちは、フェイスブックが潜在的に政治的実体であるという点を認識し(すでにこのような役割をしているが)、このような目的を地域的、地球的な次元で達成するための適切な機能を与えなければならない。フェイスブック自体のガバナンスのための内部規則が決められれば、グローバルガバナンスというより大きな構造をつくり出すことができる。

もちろん、フェイスブックは、 政府のように事務所もなければ公務員もいないし、財源もないが、全地球的規模で大事な政策を討論するにはそれらのものは必要でない場合もある。 フェイスブックなどというガバナンスはありえないと思う人も多いだろう。それは頭の中に昔の映画でみた政府のイメージが固定化されているから物足りなく感じるのだ。しかし、実際われわれが目撃している各国の現実の政府というのは、予算が削減され公務員のリストラも強行されるしで、急激に空洞化され政府の機能を果たしていないしろものなのだ。

これらの政府に代わる新しい行政制度が必要である。あまりにも深刻な状態である以上、フェイスブックをもとにした政府行政がそれなりに納得力がある。

私は、ここで将来の「フェイスブック共和国」(Republic of Facebook)のガバナンス形態を提示することはできない。これは、よりよい世の中をつくろうとする献身的で、博識で、先見性のある人たちが討論を重ねてつくられなければならないものである。

私たちは、まずビジョンを提示し、これを持続的に改善していく「フェイスブック憲法制定会議」(Constitutional Convention for Facebook)のようなものを想像することができるだろう。もちろん、フェイスブックを、単に太った猫の写真やうまいコーヒーの写真を載せる場所として利用したい人たちは、そうする自由がある。しかし、もう少し大きなことのために貢献しようとする人々のためには、次世代のフェイスブックについてのいくつかの方向性を提示する必要があるはずである。このような方向性の一つがガバナンスに関する新しいバージョンである。

フェイスブックは体系的に運営されており、世界中の似たような関心を持つ人々が出会い、新たなプロジェクトや共通の課題への解決策を提案できる場所を提供できる可能性をもっている。それを通じてフェイスブックは、共通の目標のために活動する世界各地の人々がともに研究し、政策を議論して実行するための同伴者を探す手段になるだろう。

たとえお金がなくとも、フェイスブックで見つけた"似たもの同士"が資金を分け合って活動する方法も考えてみることができるだろう。もちろん、フェイスブックやほかのソーシャルネットワークが政府の役割を完全に果たすことはできない。

福祉や教育に関する問題は依然として地方政府の役目として残るだろう。しかし、地球的な気候変化への対処は、フェイスブックが世界のいたるところで当事者を集めて協力し、解決策を模索して実行するために力を発揮するだろう。政治家たちだけで構成された議会よりは効果的かも知れない。

私たちに実行意思と地球的危機への責任感があれば、フェイスブックというプラットフォームは、民主的なグローバルガバナンスの合法的な形態に変わっていける可能性を秘めている。

こうした新たなシステムは、過去三千年におよぶ最上のガバナンス形態である民主主義を基盤とするものである。こんにち人類が直面している問題に対して失望している人たちにも、人類史上前例がない方法で新たな希望を与えることができるだろう。

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