誰かを恨んだり、不幸を人のせいにしないためには、好きなように生きるしかない。―「傷口から人生。」発売によせて

何が正しいかは私にも分からない。ただ、すこしずつ、一個一個の不快のスイッチを、快に切り替える作業に淡々と励めばいい

」が発売した。

この本を通して私が書きたかったのは、

「他人や社会を恨まないためにも、自分の好きに生きたほうがいいよ」という事だ。

インターネットを覗けば、恨みと怒りが溢れている。

ヘイトスピーチ、社会的な不平等、性差、育児問題、恋愛、社会への不満。

「外国人が、男が、女が、夫が、妻が、会社が、上司が、日本の社会の仕組みが、恋愛のあり方が」、"私たちに、不幸を運んでいる"。

誰かのせいにして、批判する意見ばっかりだ。

まったくもってくだらないと思う。くだらないけれど、同時に、そうなってしまう仕組みもとてもよく分かる。

みな、恨みたくないけど恨んでしまう何か、あるいは恨みたいけど恨みきれない何か、に対して怒っている。

その怒りが、社会や他人への不満として噴出している。

また、私はブログで家族問題や対人関係、恋愛について多く書いているせいか、よく読者から悩み相談のメールが来る。

「就活に失敗して苦しいです」

「母が私のことを分かってくれません」

「コミュニケーションが苦手で友達ができません」etc。

私はそういうメールに対して、よほどのことがない限りは返事をしない。他人の悩みに関わり続けるのは、とても難しいからだ。

その代わり、そういうメールをくれる人に対して、

「あなたがもし自分を"イケてない"と感じているならば、それは他人や社会を恨んでいるからだ」という事を突きつけたくて、この本を書いた。

この話は、「軟弱で、不幸を社会や他人のせいにしていた女の子が、母親を殴り殺して、自立する話」だ。

私は長い間、母親を恨んでいた。

母親だけではない。今から振り返ってみれば、就活しかり、仕事しかり、恋愛しかり、その都度、社会や他人も恨んでいた。

そのせいで、だいぶ遠回りしてしまった。

今となっては、それは自分のせいだと分かるけど、その恨みの渦中に居る間は、自分を受け入れてくれない社会や母親を恨んでいた。

恨んで、そして、逃げていた。

本当は、「自分がしたいようにしていない」だけなのに。

ずっと前に、毒母問題のシンポジウムを見学しに行った時に、壇上でパネリストの人が、母親から受けた被害やトラウマについて延々と訴えたり、怒りを吐露したりしていた。

その時、パネリストの一人に、有名なカウンセラーの女の人がいて、その人は、会場にいる誰よりも怖い顔で「母親なんか許さなくていいんですよ!」と叫んでいた。

私は、その怖い顔を間近に見ながら、「この人のほうがカウンセリングが必要なんじゃないか」とぼんやり思った。

この会に来ている人たちは、他人の、母親に対する恨みや怒りを聞いて、スカっとするかもしれない。でもそれは、リストカットがスカっとするのと同じで(なぜリスカがスカっとするかについては、拙著の中の「私はいかにして、自傷をやめたのか」という章に書いてある)

根本的な解決にはならないんじゃないかなとは思った。

また、よく「他人を許さないと幸せになれないよ」と言う人もいる。

それは圧倒的に正しいとは思うけど、でもそういうことを言う人はたいがい説明不足だ。

「なぜ他人を許さないと」「幸せになれないのか」のロジックについて、恨んでいる最中の人が納得できるように説明している人を、私は今までに見た事が無い。

私もうまく説明できない。だから、代わりにこの本を書いた。

「他人を許さないと幸せになれないよ」とか「親を愛さないと自分も愛せないよ」とか言うことは、「親なんて許さなくていいんですよ!!」と激怒することと、正反対に見えて全く一緒だと思う。

人が、誰かを許したり、恨みを止める過程、そこにたどり着くまでのプロセスというのは千差万別だから(それは佐々木俊尚さんの「愛の履歴書」のインタビューをしてみて思ったことだ)

何が正しいかは私にも分からない。「こうしたらいいですよ」と言うのは言えない。

ただ、この「許さなくていいんですよ!」という怒りと「許さないと幸せになれない」という振り幅の、その間にある繊細な葛藤を書きたいと思った。

恨むんだったらとことん恨み尽くしてもいいと思う(それは、たいてい、やる前には思いもしなかった結果をもたらすものだけど)。

ただ、誰かを恨んでしまうことに苦しさを感じたり、恨みたくないのに恨んでしまうのを、もう辞めたいと思うなら、人生の中の、「誰かのせいで好きに生きれないなあ、しんどいなあ」という部分を解決しようとフォーカスするのではなく、「自分の好きに生きる」領域を、少しずつ、押し広げてゆくことが有効なんじゃないかと思う。

"どうにもならない今の時点"の中で、「自分の好きな事、快適にいられること」を押し広げてゆく。本当に、1ミリ1ミリでいいから。

そうしているうちに、思いも知らなかったやり方で、いつか、恨みから脱却していると思う。

(蛇足だけれど、「自分の好きな事、快適にいられること」を押し広げるためには、そのことについて、自分で言語化することがけっこう重要だな、と思う。そのために、文章を書いたり、カウンセリングを受けたり、あるいは誰かと話したりすることは、役に立つのかなと思う。)

これだけたくさんの人間がいる世の中だから、いつだってままならない事はいっぱいあるし、社会のひずみというのはどうしたって生まれてしまうものだけど、でも、「自分が心地よく、快くいられる方法」を探す事は、誰にだって許された権利だし、今は辛くて、ああ、もうだめだ。自分なんかにはそんな権利がない、と思ってしょげている人にも、それを求める力は、身体の奥深くで眠っているものだと思う。

だから、今、何かが上手くいかなくて、苦しかったりもやもやしたり、自責感に苛まれている人は、安心してほしい。

無理に、元気を出す必要もない。

もやもやした人生を、ただ、快なるままに過ごすだけでいいと思う。誰にどう思われるか、他人に迷惑をかけていないか、社会的にどうかなど気にせずに、ただ、すこしずつ、一個一個の不快のスイッチを、快に切り替える作業に淡々と励めばいいと思う。

そうしているうちに、人生が自分をどこかに運んでくれる、ということがある。

悩みのメールをくれる人に対しては、私は返事はしないけど、ただ、それぞれが、自分の快なる道を歩んでほしいと、そう強く願う。

母親との関係を変えようとした時、(自分との関係よりも)母親と祖母の関係がまず変わった、というのが実にクリティカルな出来事だと思う。いくつになっても、親こそがその人の人生の課題の芯みたいなものだったりする。 -- 小池みき (@monokirk) 2015, 2月 10