コンサドーレ札幌社長に聞く、成績も経営も立て直せた理由

ベトナムとタイから選手を招き入れアジア市場の開拓を目指す

コンサドーレ札幌を立て直した野々村芳和社長 Photo by Takashi Eto

ミハイロ・ペトロヴィッチ監督を招聘し、J1残留2年目のシーズンを戦う北海道コンサドーレ札幌は、2018年シーズンで結果を残しつつある。快進撃を経営者の立場から支えているのが野々村芳和社長だ。2013年に社長に就任。一歩間違えば経営破綻しそうなチームの財政を立て直し、クラブ経営を安定させ、チームの強化にも力を注ぐ。北の大地からJリーグに新たな風を送り込む野々村社長に話を聞いた。(サッカーライター 江藤高志)

強化費を自らかき集め「つぶさない」から出発

野々村芳和社長が請われて「北海道コンサドーレ札幌」の社長に就任したのは2013年のこと。前年に最下位でJ1を終え、J2に降格したシーズンだった。その結果、クラブの営業収入は大幅な減収が見込まれ、選手の人件費などを含む「強化費」が大幅に削減されることが決まっていた。

本記事は「ダイヤモンド・オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

「前年の2012年、J1だったときの強化費が5億円ほど(4.95億)でした。その金額ではJ1はもちろん、J2ですらなかなか勝てないのですが、自分が社長になった2013年は当初、スタッフたちは1.9億円でやるように言われていたそうです」

費用の削減は、選手の"放出"で穴埋めしなければならない。しかし、そんなことをすればJ2でさえ勝てない。そこで野々村社長は、「なんとか3億円はかけさせてくれ」とフロントに掛け合ったという。とはいえ、足りなかった1.1億円はどうしたのか。

「そこ、自分でなんとかするからと言って(笑)」

野々村社長は、最低限の戦力維持に必要な資金を確保するため、足りない分については自ら営業してカバーしようと考えていたのだ。実際、このシーズンの経営資料によると、最終的な強化費は3.5億円が計上されており、当初の予定から1.6億円を積み上げた形だ。

ノノムラ・ヨシカズ/1972年5月8日生まれ。静岡県清水市出身。1995年ジェフ市原に入団。2000年コンサドーレ札幌に移籍。ボランチとして攻守のバランス役を務め、J2優勝に貢献。2001年チームのキャプテンに就任し22試合に出場。同年29歳の若さで現役引退。引退後も同チームのアドバイザーを務めながら、解説者生活をスタート。2013年コンサドーレの運営会社である北海道フットボールクラブ顧問に就任。同年3月、代表取締役に就任。 Photo by T.E

自ら資金をかき集めた野々村社長が就任当初意識していたのが、「まずはクラブをつぶさないということ。そして、少しでも強くするということ」だった。

2013年の営業収入は10.7億円。これが2017年には26.7億円となり、3倍近くに増加。「つぶさない」ことと「強くする」ことは、ともに資金を集めることで解決できる。だからまず、野々村社長はここに注力したのだ。

就任直後の危機を脱しつつ、2013年から2017年までの6年間で年間の売り上げを約3倍にした野々村社長は、「売り上げ10億円から始めて、今年(2018年)はたぶん30億円くらいになると思います。根拠のない感覚ですが、この辺りまでは自分が動けば行くと思っていました」と話す。

なぜなら、札幌にはポテンシャルがあるからだ。空調が完備されたホームスタジアムである札幌ドームはもちろん、アクセスに必要な交通インフラも整っている。さらに商圏としての規模も十分だ。

「札幌ドームが200万人の都市にあり、北海道には500万人が住んでいて、ローカルのメディアもそろっている。ここで大きなクラブになれなかったら日本のサッカーもだめだろうと思ったんですね」

そんな自信の裏には、1つの確信があったという。

「子どものころからずっとサッカーを続けてきて、なんとなくサッカーには『価値』があるということは分かっていた。それを多くの人に分かってもらうことが、コンサドーレの立て直しに直結すると考えていた」のだ。サッカーの価値を知っている野々村社長だからこそ、札幌という地方都市でも持続可能な運営が可能だと見ていたのだ。

不幸な状態を解消するためサポーターに現状を赤裸々に報告

まだ資金力が乏しく、必ずしも勝てるチームではなかったころ、野々村社長はサポーターに対してプレゼンテーションを実施している。例えば2016年シーズンを前にした1月の「北海道コンサドーレ札幌キックオフ2016」では、2013年からの比較で強化費が3倍になったこと、またプロモーション費用を3年で8倍にしたことが伝えられている。

Photo by T.E

狙いは、コンサドーレの実態や立ち位置などを、サポーターにも理解してもらうためだった。

「札幌ドームのビジョンを使って、いろいろなデータを見てもらいました。つまり、コンサドーレにはこれくらいの資金しかなくて、他のクラブはこれだけ持っている。現状これでは勝てないが、だけど必ず何年か後にこの金額にして勝てるようにしますということを伝えました」

これは、コンサドーレが置かれていた「不幸な状態」を解消するためのものだと野々村社長は続ける。

「一番不幸だと思ったのは、コンサドーレはそれなりに大きなクラブで、強いはずだと思っている人がいっぱいいたことでした」

だが、現状をサポーターに示し、実際はそうではないんだということを理解してもらおうとしたわけだ。野々村社長の真意は、「だから、このままでいいわけではなくて、ここから一緒に成長していこうという"絵"をしっかり提供したかった」ところにある。

現状を把握し、明確化された目標をチームとサポーターが共有したとき「スタジアムの雰囲気って絶対によくなるんですよ。ちょっとうまくいかなくても、ブーイングする人が圧倒的に減る」ことを確信していたというのだ。

だから、このプレゼンで、「例えば2016年のJ2のとき、強化費でいうとセレッソ(14.9億円)とか清水(14.7億円)とは7億円くらいの差がある(コンサドーレは7億円)。でもそのくらいの差は、ホームのスタジアムの雰囲気で埋めていただきたいといった話をしました」

「そのくらいの差」と言っても7億円は大金だが、ホームの雰囲気で埋めた結果、2016年、コンサドーレはJ2で優勝を果たした。

さらなる売り上げ増をめざし専門家の助けを求める

だだ、野々村社長が見据えていたのは、売り上げベースで50億円、100億円という規模。売り上げを3倍に伸ばした成功体験を基に、自ら陣頭指揮を執ってさらなる成長を目指すのだろうと考えそうなものだが、さにあらずだった。

「ここから50億円とか100億円とかにするには、さまざまな分野の人たちの知恵を集約して、戦略的にやっていかないと達成できないと思ってるんですね。だから、フロントのスタッフももっと成長させるとともに、別の世界を知ってる別のスペックの人たちを入れて次のステージを目指さないといけないんです」

だから積極的に外部の人材を取り込もうとしているのだという。その1つがグッズだ。

「各クラブの物販グッズとかって、ほとんど素人がやってるわけですよ。それで、グッズに関してはプロに任せることにし、今年の増資でダイアモンドヘッドというEコマース専門の会社に入ってもらいました。バーニーズ・ニューヨークやユナイテッドアローズといった会社のECサイトを運営している会社です。サッカークラブのグッズから、アパレルに近いようなものまでやっていくイメージです。このように、各分野の専門の人たちにやってもらわないと、ここから売り上げを伸ばしていくのは難しいと思っています」

野々村社長が結んできたパートナー契約の中で、意外なものの筆頭が博報堂DYメディアパートナーズとの連携だ。2016年にスタートしてから7年の長期間にわたる。この契約の背景にあるのは、1つの危惧だったという。

「最初に自分が札幌に来たとき(2000~01年)に比べると、コンサドーレの地上波での露出は明らかに減っていました。野球(北海道日本ハムファイターズ)が、北海道に来た影響を受けたんです。しかし、昔の経験から、地上波のプロモーション効果が大きいことは知っている。それを取り戻したかったんです」

この提携により、コンサドーレの試合の地上波放送は確実に増えているという。

「おかげさまで、今季は全試合、地上波で放送できています。昨年は一部、録画放送もあったんですが、今年はたとえゴールデンタイムでも全て放送しています」

時に視聴率が10%を超える試合もあるといい、コンサドーレはじわじわと認知度を高めている。

チームの文化を変えたペトロヴィッチ監督の招聘

強化費の使い方については、クラブによって考え方がある。有名選手を獲得するクラブもあれば、指導者や環境整備に資金を使うクラブもある。野々村社長の考え方は、監督の招聘だった。

「1億円の選手を取るよりは、1億円の監督を取ったほうがいいと思っているんですよ。だからミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の愛称)さんに来てもらいました」

野々村社長には、ペトロヴィッチ監督がサンフレッチェ広島や浦和レッズで行ったチーム作りを見てきた中で、「彼に任せれば成功するという確信があった」という。

「サッカー解説者をやっていたとき、ミシャさんが監督を務めた広島と浦和の変化を目の当たりにし、この人に託せばコンサドーレが持っていない哲学を植え付けてくれ、それが必ずいいように表現できると思ってたんです」とした上で、こう続けた。

「昨年、札幌が浦和に勝った翌日、ミシャさんが解任された。これを逃す手はないと思って。ミシャさんでなければ、また別の選択をしたかもしれませんが、これは運と流れもありましたね。ミシャさんを獲得するという投資ができるだけの売り上げがついてきていたこともあります」

野々村社長がペトロヴィッチ監督を選んだ理由は、そのサッカースタイルにある。攻撃的なサッカーで人々を魅了し、それをクラブの"色"にしたいと考えているのだ。若手選手が活動するアカデミー(下部組織)にまで、ペトロヴィッチ監督のサッカー哲学を浸透させ、攻撃的な選手を輩出させたい。そうすることで日本国内のみならず、アジアや世界を魅了する選手に育てたい。そうした野望が、野々村社長にはある。見ている視線の先が世界なのだ。

「もう少し攻撃型のチームにしていこうよと。そうでないと、世界では勝負できないと思っています。子どものころ、みんなそうなりたいと思ってたはずなんです。だから北海道の子どもたちが、メッシだなんだよりも、コンサドーレのあの選手みたいになりたいと言えるような攻撃の選手を見せてあげることで、北海道のサッカーが変わるかなと思っています」

攻撃的な選手の育成が、クラブの変貌につながる。そうした信念で招聘したペトロヴィッチ監督に、野々村社長から伝えているポリシーがあるという。

「コンサドーレを強くしようよということではなく、一緒にコンサドーレの、そして北海道のサッカー文化を変えてほしいということをお願いしているんですよね。たぶん、ミシャさんが監督になってくれれば、おのずとそうなるのは分かってるんですけどね」

監督交代による変化は、練習風景の中にも現れているという。

「例えば、トレーニング中に聞こえてくるコーチの声が典型的でした。昨年くらいまではミニゲーム中、いいコンビネーションでゴールが決まったにもかかわらず、コーチから出る言葉は、守備陣に対する叱責なんですね。もちろん、それは間違いではないのですが、毎日繰り返していると選手の意識や現場の空気はやっぱり守備に対して向いてしまいますよね。それが1ヵ月、そして1年と続くと、どうしでもクラブの色になってしまうんです」

そうした状況が、ペトロヴィッチ監督が就任した途端、変わったという。

「監督がミシャに変わると、同じ場面でも『ブラボー!』という声に変わっているんです。点を取ったコンビネーションを褒めているんですよね。そうした変化により、クリエーティブなことが日々積み重ねられていきます。私の仕事は、誰をどこに配置したら、何年後にはこうなるだろうなということを考えてやっていくもの。もちろん外れるかもしれませんが(笑)」

ペトロヴィッチ監督は、18年シーズンからチームを率い、着実に結果を出しつつある。

ベトナムとタイから選手を招き入れアジア市場の開拓を目指す

もう1つ、上場企業を親会社に持つそうそうたる名門Jクラブに対抗できるようなチーム作りを行ってきた野々村社長の施策が、アジアの市場を取り込むための選手補強だ。

2013年にベトナム人のレ・コン・ビンを期限付き移籍で獲得すると、2017年にはタイ代表のチャナティップを迎え入れた。東南アジア諸国のサッカー人気は日本の想像以上のものがあるが、こうした国々のサッカーファンの視線はヨーロッパに偏重している。そうした現状に風穴を開けるべく、アジア市場の開拓を狙ったのだ。

「そうすることで、今までは北海道新聞の運動面にしか出てこなかったコンサドーレの記事が、観光客の増加という文脈で社会面や経済面に出てくるようになる。コンサドーレの勝敗とは別に、アジアのつながりもあるということを示すことができる。北海道は観光で成り立ってるところもあるので。サッカーというコンテンツを使って、どれだけ観光客を増やすことができるのかという視点も大事ですよね」

実際、ベトナムやタイにおけるコンサドーレの知名度は上がってきているという。実力のある有名選手の獲得は、アジア戦略上重要な意味があるといえる。

守りのフェーズから攻めのフェーズへと転換

野々村社長が就任するまでのコンサドーレは、サポーターやスポンサーから"施し"を受け、ほそぼそと存続さえできればいいというチームだった。それが、自分たちでお金を稼ぎ、サポーターに夢を見てもらうところまで自立を果たした。

その視線の先に世界を見ている野々村社長は、今後、平均観客動員数で3万人を目指したいと言う。そのためには、資金を投じることも辞さないと話す。「守りのフェーズ」から「攻めのフェーズ」に入ったとして、野々村社長はクラブ戦略を転換しようとしているのだ。

そんな野々村社長が、現役時代に専門誌のインタビューに次のように答えていたと教えてくれた。

「昔、取材された人から言われたんですが、僕が選手だったとき話してたコメントで、『自分が一度もボールに触らなくても(試合に)勝てる選手になりたい』と言ってたらしいんですよ(笑)」

選手から経営者へと転身し、ボールを触らない立場になった今、野々村社長は着実にその道を歩み始めている。

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