優れた才能は誰のものか

アスリートの才能は本当に自分だけで得たものでしょうか? もしかするとそれは多くの人に支えられていたり、たまたまその身体に生まれついたりという側面がありはしないでしょうか? その場合社会に貢献をする義務は選手にはないのでしょうか?

シドニーから3大会連続で五輪に出場した元陸上選手と、一緒に考え、議論を深めます。議論は4月28日発売の週刊誌AERAで始まる連載で紹介します。いただいたコメントを抜粋・要約することもありますがご了承ください。

前回問いかけた浅田選手は誰のものかという問いにたくさんの意見をいただきました。概ね、彼女の人生は彼女のものだから彼女の思う通りに生きたらいい、という意見が多かったように思います。そこで敢えて反対側に立って、才能を持つ人の役割について今回は考えてみます。

私たちの社会は資本主義で成り立っています。需要がある商品は高くなり、需要が無い商品は安くても必要とされません。より優れたもの、より良いものに注目が集まります。

人間もこの資本主義に組み込まれています。より優れた能力を発揮する人はどんどんと社会に必要とされ大きな対価を得ていき、それほど能力が無い人はなんとか自分が価値を生み出せる場所を探しながら生きていきます。

スポーツの世界は実力社会で、結果で全てが決まります。どんなに頑張ったんだと言い張っても、勝てなければメダルは手に入りません。そしてスポーツの実力というのは努力ももちろんありますが、かなりの部分が才能とそして生まれ育った環境に影響されます。残念ですが、中学生に入ってからスケートを始めても世界的なアスリートにはなれません。そして子どもの頃からいい指導を受けるには少なくないお金がかかります。

トップアスリートになるにはたくさんの人の支援がいります。両親、コーチ、ライバルたちも必要です。また国家の支援も多少なりともあります。

そして何より、一人のトップアスリートが輝いている裏には、たくさんの、頑張ったけれど勝てなかった敗者の存在があります。

最も頑張った人が勝つ訳ではないのが勝負の世界の切なさです。勝った人が勝つだけで、頑張ったけれど残念ながら才能に恵まれなかった人は敗者としてその場を去ります。

イギリスの貴族の世界に、ノブレスオブリージュという言葉があります。幸運にも持てる側に生まれた人は、社会に貢献をする義務を負うというものです。成功はある程度運であるということから考えられたものだと思います。

さて、アスリートの才能は本当に自分だけで得たものでしょうか? もしかするとそれは多くの人に支えられていたり、たまたまその身体に生まれついたりという側面がありはしないでしょうか? その場合社会に貢献をする義務は選手にはないのでしょうか?

優れた才能は一体誰のものなのか。それを今回は考えてみたいと思います。ご意見お待ちしています。

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