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2020年08月20日 11時43分 JST | 更新 2020年08月21日 17時20分 JST

十数年間、同じ家で暮らし、私に暴力を振るいつづけた父。もう2度と会うことはないはずなのに…

父と私の間には、人と人とが関係をより親密にするための時間が、一切なかった。

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“血の繋がり”では“家族”だけれど

日本には、まだ血縁主義的な考え方が強く残っている。「血が繋がってこそ家族である」という考え方だ。確かに血が繋がっていることは家族である証として重要なのかもしれないが、私にはどうしてもそうは思えない。

 

血の繋がりという意味のみで考えれば、父と私は確実に家族だ。生まれてから高校3年生で両親が離婚をするまでの十数年間、同じ家で暮らし、寝食をともにしてきた。元々仕事の忙しい人で平日はほぼ毎日終電で帰ってきていたが、仕事が休みの日は「親子として」同じ時間を過ごすこともしていたはずだ。

それなのに、私は父と一緒に過ごした思い出があまりにも少ない。きちんと向き合い、悩みを相談したり、なんでもない普通の会話をゆっくり楽しんだ記憶もない。

 

父と私の間には、人と人とが関係をより親密にするための時間が、一切なかった。その代わりに覚えているのは、毎週末のように怒鳴り合っている両親の姿に父からぶたれて泣いている母。お風呂場で父に押されて額を打ち、血みどろになっていた弟。投げられる箸と皿。自分の思い通りにならければ、「しつけ」の名のもとに、すぐにこぶしが飛んでくる。私の想像する父親は、決して逆らうことのできず、何をきっかけに怒り出すのかわからない怪物そのものだった。

 

本当に血の繋がりだけが、家族であることの証拠なのだろうか、と思うことがある。血さえ繋がっていれば、それだけで家族でいられるのだろうか。そして、父にとっての私は、どういう存在だったのだろうか。

 

私が生まれたときに、父が流した涙

そもそも私は、父の人となりをほとんど何も知らない。

 

有名な大学を卒業後、大手企業に勤め、それからバスケと桃が好き。高校3年生まで一緒に暮らしていながら、そんなことがありえるのかと思うかもしれないが、私が知っているのは、そういう基本的な情報だけだ。だから、父が明るい人物なのか暗い人だったのか、どんな子どもで何が好きだったのか、口癖や考え方、そういう一人の人間を説明する手がかりが私にはわからず、父について、うまく答えることができない。

 

家庭のことは専業主婦であった母親にすべて任せっきりで、インスタントラーメンを作るとか、ソース入りのパックになった焼きそばを焼くという簡単な料理をたまにしていた姿だけは覚えているが、それ以外の家事を母に代わってしている姿を見たことがない。子どもだって、私と弟、妹と3人もいるのに、一度もおむつを替えたことがなかったらしい。

 

先述した暴力以外にも、少しでも気に食わないことがあれば「誰のおかげで飯が食えてると思っているんだ」「同じ額を稼げるようになったら文句を言え」と平気で口にするような人だった。家族よりも仕事を優先し、男は仕事・女は家事と切り分け、少しでも思い通りに行かなければ言葉よりも先にこぶしが飛んでくる。昭和時代に取り残されたままの父の思考回路に、私たち家族はいつも振り回されていた。

 

しかし、そんな父も長女である私が生まれたときは、会社を休み、産婦人科にて母の出産を見届け、初めて私と対面したとき、涙を流したと母から聞いたことがある。

うれしかったんだろうな、その時は。無事に娘が生まれて。きっと、大切に育てようと思ったんだろう。健康に生まれてきたことを何かに感謝したりして。想像するしかないが、その涙は生まれたばかりの私に対する愛情の結晶であったはずだ。

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「よくできた自慢の子」でいなければならない

「親から子に対する愛は無償だ」というのは通説だが、父から私に向けられた愛情は、いつも条件付きであったように思う。

進路も趣味も習い事も、最終的に選択し、そして継続してきたのは私であることは間違いないのだが、父親によって選択肢は与えられ、それ以外の道は用意されていなかった。あの家庭のなかでの私は、両親の期待に応えながらも失望を恐れ、常に「勉強もスポーツもよくできる、両親の言うことをよく聞くお姉ちゃん」でなければならなかったように思う。

 

だから、思い通りにならなければ暴力を振るう。言う通りにならなかったり、私が言い訳をしたりすると、わかりやすい形で怒りを露わにする。

当たり前だ。「周りの人にどう思われるかわからないから」と世間体を気にして、どれだけ家庭が崩壊しても離婚をしなかったような人だ。娘が周りから見て「よくできた自慢の子」に育てなければならないという意識は、常にあったんじゃないだろうか。

 

私は父のことを知らないが、逆に父は、一体私の何を知っているのだろう。

 

話をすることもなくなった、私と父

高校受験の際、私が父の希望する高校に進学することができなかったのを境にして、私はあの人の娘ではなくなってしまったのではないか、と今でも考えることがある。誰もが知っている進学校には行けず、バスケを続けず、容姿も醜く、性格も素直でなく、可愛げのない私はきっと彼にとって無意味で、恥ずべき存在だったはずだ。いつ暴力を振るうかわからない父となるべく同じ空間にいたくない、できるだけ会話をしたくない、という気持ちもあった。しかし、3人きょうだいで3等分だった子に対する興味が弟と妹に移り、父が私とは話をすることもなくなったのは当然の結果であったように思う。

 

その疑問が確信に変わったのは、いつものように母を殴ろうとする父を止めようとして、私は泣きながら父に対し「私のこと、娘だと思ってないんでしょ?だから、殴ったり蹴ったりできるんじゃないの?」とかなんとか、言った日のことだ。

この家族で、常に暴力をふるわれていたのは母と私だけだ。弟と妹、特に妹は父から殴られ蹴られているところを私は見たことがなかった。私が憎いからなんだろうか。それとも、嫌いだから暴力の対象になるのだろうか。

頭のどこかでは否定してくれるだろうと思っていたのだが、その日の父は何も言ってくれなかった。肯定も否定もしない。言葉を口にすることはなく、うつむいている。そのとき、父と私はもう家族ではないのかもしれないとなんとなく感じ取ってしまったのだ。

 

家族を大切にしなかったことを、一生悔やみ続ければいい

私が高校3年生の頃、両親が離婚した。

 

離婚後の父は、2カ月もしないうちに浮気相手(この相手も、長年浮気していた女性とは異なるらしいのだが)と再婚し、今は横浜のどこかに暮らしているらしい。私は、それ以外の情報を知らないし、今後も知ることはないだろう。両親に弟と妹。家族のなかでも、母の連絡先しか知らない私には、そもそも父の近況を知る手段がない。

きっと、金に困ろうが、何かの病気になって余命が1カ月になろうが、突然事故で死のうが会いに行くことはないと思う。それを知ることすらないかもしれない。それでも、私はきっと後悔もしないだろう。むしろ、娘が会いに来ないことで、母と私をはじめとする家族を大切にしてこなかったことを、父の残された人生をかけて一生悔やみ続ければいいとすら思っている。

 

父と私は他人だ。血が繋がろうが、同じ戸籍に名前が書かれていようが、長年一緒に住んでいようが、強い結びつきのある特別な存在だとはどうしても思えない。

血の繋がりは家族であることのひとつの証である定義であるのかもしれないが、お互いに何も知らず、興味関心すら持つことのできなかった相手を、大切な存在である家族だと認識することができない。

 

家族ってなんだろう。父のことを考えるたびに、いつも思う。もう2度と会うことはないはずなのに、何度も同じ過去を反芻している自分がいる。

 

でもきっと、この思いは絶対に消えないのだろうとも思う。なぜなら、父と私は家族だからだ。

 

(編集:榊原すずみ

なんとなく受け入れてきた日常の中のできごと。本当はモヤモヤ、イライラしている…ということはありませんか?「お盆にパートナーの実家に帰る?帰らない?」「満員電車に乗ってまで出社する必要って?」「東京に住み続ける意味あるのかな?」今日の小さな気づきから、新しい明日が生まれるはず。日頃思っていたことを「#Rethinkしよう」で声に出してみませんか。