「家事は労働か?」「労働なら、報酬は?」家事を「見える化」することの必要性

今年は、『私の家政夫ナギサさん』(TBS系)、『家政夫のミタゾノ』(テレビ朝日系)、『きょうの猫村さん』(テレビ東京系)と、今年は男性が演じる家政夫のドラマが花盛りだ。
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今年は、『私の家政夫ナギサさん』(TBS系)、『家政夫のミタゾノ』(テレビ朝日系)、『きょうの猫村さん』(テレビ東京系)と、今年は男性が演じる家政夫のドラマが花盛りだ。家事の仕事化が認められつつある時代だからこそ、あえて「家事は労働なのか」というテーマを今回は掘り下げてみたい。

現実には主婦/主夫の労働価値がいくらになろうと、給料をもらえない

2016年放送の人気ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)、略称『逃げ恥』は、不払い労働としての家事に焦点を当てていた。

このドラマでは、内閣府経済社会総合研究所国民経済計算部が総務省「社会生活基本調査・2011(平成23)年版」をもとに割り出した、専業主婦の無償労働を304・1万円相当とした数字を使っていたが、その後2018年12月に発表された同部の「無償労働の貨幣評価」によると、年収243・6万円相当に下がっている。

しかし、現実には主婦/主夫の労働価値がいくらになろうと、給料をもらえるわけではない。専業主婦/専業主夫は、離婚すれば無収入になる。試算をパートナーに示してその価値を訴えようとしても、一笑に付される場合もある。

『逃げ恥』の主人公の森山みくりは、高所得のSEとして働く津崎平匡にパートタイムの家事代行スタッフとして雇われていた。

ところが両親が引っ越すことになったみくりは、住み込みのフルタイムスタッフとして自分を雇用しないかと平匡に申し出る。平匡は先ほどの304・1万円という数字をもとに生活費、みくりの給与などを試算し、みくりの申し出を受け入れる。2人はやがて恋人になる。平匡が失業をきっかけに結婚を申し込むと、みくりは「それは『好き』の搾取です」と反論するのだ。

結婚すれば家事の給与を払わなくて済む、という平匡の計算をかぎ取ったみくりが、恋人として怒るのはもっともだ。

家事代行スタッフに家事サービスを依頼する日はすぐそこまで来ている?

しかし、パートナーへ家事の代金を払い続けることには無理がある。お小遣い程度ならともかく、家族のなかで雇用主と雇用者の関係が発生すると、労働をめぐり感情がもつれるなど、喧嘩の火種を作ってしまいがちだからだ。

また、家事に経済的価値があったとしても、1人暮らしの場合は、払うのも受け取るのも自分になって報酬の意味がなくなってしまう。子育て期のシングルペアレントも同じだ。リタイヤした親と同居している人や、低所得のパートナーがいる場合も、支払い能力には限界がある。結局、試算は働き盛りのパートナーと暮らす主婦/主夫しか対象にしていないのである。

世間には、家族や親密な関係では無償の家事が、他人が行うことで有償のサービスになっているものは多い。例えば、外食すれば食事の準備も食器の後片付けも必要ない。クリーニング店に衣類を出せば洗濯してもらえる。ホテルに滞在すれば、部屋の掃除や管理まで任せられるし、旅館や民宿なら朝夕の食事までサービスしてもらえる。デイサービスでは要介護の家族を、保育園では子どもの世話を任せられる。

どれも、お金を払えば他人が行ってくれるうえ、高いクオリティのサービスを得られることも多い。少し前まで抵抗感を示す人が多かった家事代行サービスの市場規模も拡大中であり、家事代行スタッフに掃除や料理などを頼むことが珍しくない時代は、すぐそこまで来ている。

しかし、有償なので、誰もが家事代行サービスを頼めるわけではないし、住み込みでもない限り、すべての家事を任せることもできない。料理を頼めば後片付けが残る場合があるし、ホコリが出て散らかるたびに掃除を発注するのは手間がかかるうえお金もかかる。買い物も同じだ。学校や役所などでの用事は、本人や家族が行くしかない(代理人が行うことができるものもあるが、それにも手間が必要)。また、外注するにも準備が必要である。やはり家族の誰かが働かなければ、生活は回せないのである。

家事が労働になる場合、ならない場合

そもそも家事は、労働なのだろうか。私は、家事が労働になるのは、一方的にその恩恵を受ける人がいる場合ではないかと思う。すべての家事を主婦/主夫が背負い、家族が与えられた食事をして片付けもせず、洗濯物をタンスの中にしまうこともない。そして、いつも清潔で、トイレットペーパーなどの備品が補充されていることが当たり前だと思って暮らしている。しかし、主婦/主夫の労働には休日がなく、休憩時間は取れるものの、目が覚めてから眠るまでがオンタイムだ。子どもが幼い、要介護の家族がいると、やることが何倍にも増えるので、労働条件は過酷かもしれない。

しかしもし、家族がそれぞれ自分の管理を自分でした場合はどうだろうか。子どもたちは10代になっていて一通りの家事ができる、あるいは夫婦2人暮らしである、といったケースだ。料理や掃除、洗濯、買い物を当番制もしくは担当を決め、家族全員で回せば、1人当たりの負担は大きく減る。家事の一部は、もしかすると生活習慣の延長線上でできるかもしれない。例えば、家族全員分の洗濯物を畳んで収納するのは手間がかかるが、自分の洋服を片づけるぐらいなら、着替えや歯磨き程度の手間で済むのではないか。

掃除や料理を家事代行サービスに頼む。あるいは、料理はテイクアウトや外食などをよく利用するなどすれば、もっと家事は楽になる。出かけたついでに備品補充の買い物をする、洗面所を使うときに気になった洗面台の汚れを取るなども、生活習慣として受け取りやすい。

家事はコミュニケーションであり、絆でもある

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家事は、コミュニケーションとの関係も深い。子どもが小さい、あるいは要介護の人がいる場合必要になるケアは、家事とコミュニケーションの境目がない。おしめを取り換えるときに排泄物の状態で健康を推し量る、着替えさせるときに発疹などを確認する、といったことは、コミュニケーションでもある。

家族が好きな料理を出して喜んでもらう、あるいは自分が気になっていた料理に挑戦して食べてもらうのも、コミュニケーションの要素を含む。子供に家事を教えることは、シェアにつながるだけでなく、将来に向けた教育にもなる。

家事をシェアすれば、家庭内でコミュニケーションの機会が増える。例えば、打ち合わせや申し送りをする、互いにやってもらったことに、感謝の言葉を伝えるといったことだ。家事という共通の話題を語り合うかもしれない。互いが行う家事の大変さも見えるようになるし、家事の質の向上からその人の成長も感じ取れるかもしれない。病気のときには、家事をしてもらえるありがたさを感じるだろう。つまり、家事を題材にした会話や家事のシェアは、家族の絆を深めるのだ。実際、コロナ禍で協力して家事に当たり、絆が深まったという声も聞く。

ポテトサラダが手間のかかる料理だと知らない男性

一方、誰かが全部背負っていれば、他の家族に家事は見えにくくなる。家事は何かを作り出すというより、原状復帰を主体にしたものが多いからだ。掃除や洗濯、足りなくなったものを補充することは原状復帰が目的である。料理は新たに創造するものだが、大変さを知らなければ感謝しないかもしれない。最近SNSでバズった「ポテサラぐらい自分で作れ」などと、スーパーでポテトサラダに手を伸ばした女性に言った男性は、ポテトサラダが手間のかかる料理だと知らないのだろう。

整った家を当たり前と思っている家族は、そこに労働が入っていることを忘れているかもしれない。だから感謝の気持ちが生まれない。1人だけほかの人のために奉仕しているこのとき、家事は確かに労働になっていて、報酬を求めたくなってしまう。

ビジネスの世界の言葉で言えば、家事を「見える化」することが必要かもしれない。一番簡単な方法は、思い切ってボイコットすることだ。その労働がどういうものだったのか、家族にも見えるだろう。

(編集:榊原すずみ

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