「よい死」「悪い死」は存在するのか? だが「よい看取り」は実現できる

「よい死」と言っているのはあくまでも生者であり、故人の思いを勝手に代弁して評価することは傲慢ではないのか?
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人の最期は、人の数だけある

「旦那さん、いい最期でしたね」

「夫は本当に、いい亡くなり方をしました」

緩和ケア病棟から患者さんを見送るとき、こういった看護師や遺族の会話がよく聞かれる。そして、そのあとに

「ねえ、先生?」

と緩和ケア医として、最後の時間をともに過ごしてきた僕に同意を求められるのだが、僕はそれに対していつも曖昧に「うーん」とか「そうですねえ」とか言ってごまかしている。

なぜなら…。

「よい死」というのはあるのだろうか。

そう思うからである。

確かに、痛みや呼吸困難がなかなかコントロールできず、苦しみの中で亡くなっていく患者さんや、やっとの思いで緩和ケア病棟にたどり着いたと思ったら家族の目の前で血を吐いて絶命する患者さんなども、時々だが、いる。

一方で、特に痛みも苦痛もなく、トイレまで自力で歩き、食事もパクパク食べていた方が、今日は1日目を覚まさないなと思っていると夜中のうちに息を引き取る、といった場合もある。たくさんのご家族に囲まれて、おそろいの服を着て写真を撮り、最後まで笑いながら旅立っていかれた方もいる。

人の最期というのは、人の数だけある。だからその中に「よい死」「悪い死」というのがありそうだと思ってしまうというのも頷ける。巷では、「よい死を迎えるために」なんていうようなタイトルがつけられた本もしばしば目にするし、そういった本の著者の方々が壇上で語る講演会なんてものもあるようだ。

「よい死」と「よい看取り」は何が違うか?

ただそういった、人の生死のプロセスに対して「よい」とか「悪い」と評価すること自体に僕は疑問がある。そもそも「死」は生きている家族、人、もちろん医師である私にも知覚できない営みである。「死」を知っているのは亡くなった本人だけであり、そして「死」を知った瞬間より後に、それを生者に伝えるすべはない。「よい死」と言っているのはあくまでも生者であり、故人の思いを勝手に代弁して評価することは傲慢ではないのか、と思う。

緩和ケア病棟で過ごした日々の中で、確かに故人は、苦痛も訴えず、常に笑顔で、自立した生き方も保つことができたかもしれない。でも心のうちで、どう思っていたかは、まわりにはわからない。誰も見ていないところで涙を流していたかもしれないし、薄れゆく意識の中で想像を絶する苦痛に襲われていたかもしれない。それは他の誰にもわからないことなのだ。

そういう意味で、「よい死」というのは無いと僕は思うけれども、「よい看取り」というのはあると思う。「よい死」と「よい看取り」は何が違うか?それは「語っている主体の違い」である。つまり「主語が違う」。死を迎えるのは本人だけの個人的事象であるのに対し、看取りをするのは本人を囲む家族や医療者などである。だから、「(私は)よい看取りができました」と言うならそれは家族や医療者が主語となっている、自分自身の意思であるから他の誰からも自由であるはずだ。

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置き去りにされてしまう当事者

死や看取りだけにかかわらず、「いま誰が主語として語っているのか」ということに注視することは大切である。

「うちの子は○○大学に行きたがっている」

「あんな人と結婚しない方が息子のためだと思って」

「こんな荒んだ環境で生活しているなんて××さんって可哀そう」

「誰だって、どんな状況にあっても生きたいって思うのが当たり前ですよね」

など、他人の思考を代弁する言葉を頻繁に耳にする。もちろん、生活困窮者やいわゆる社会的弱者、また何らかの事情で自ら声をあげにくい方々のアドボケイト(擁護)という意味での代弁は重要である。その意味で、看取りに関していえば家族は最も患者に近しい代弁者であり、その発言について医療者は本人の言葉と同様に尊重し受け止めるべきだ。しかし、それらの発言を冷静に観察していると、代弁という衣で覆っているものの、その実は「代弁者本人の要望を語っている」例が多々あることに気づく。

先の例でも、○○大学を望んでいるのはお子さんではなく親であるし、息子のパートナーとして「あんな人」が嫌いなのは息子さんではなく同じく親だ。「可哀そうって言われた××さん」は何も困っていないかもしれない。

さらに忘れがちなのが、いつのまにか、「主語がすり替えられている」ということに、代弁者も、それを訴えられる側も気づかないということが頻繁に起こるということである。そうして当事者が置き去りにされたまま、周囲の堀ばかりが埋められていき、気づいたときには「当事者であるあなたは(私たちが決めた)この生き方通りに幸せに生きて(亡くなって)ください」というレールに乗せられていることだってあるのだ。

主語のすり替えは暴力性を孕んでいる

僕の経験した例では、ある終末期のがん患者さんの家族が「こんな状態で生きているのは可哀そう」と主治医に訴え、これまで行ってきた栄養補給などの治療を止めさせようとしたことがある。病棟カンファレンスで話題となり、主治医も看護スタッフも「確かにその通りですね」と、治療を差し控える決断をしそうだったので、僕は慌てて横から「ちょ、ちょっと待ってください。それって、本人にきちんと確認したことなんですか?」と口を出したところ、誰も本人の意思を確認していなかった。確かに、がんが進行している状態で栄養補給をしたとしても、寿命が延びるとは言い難い状況ではあったことは確かだ。栄養投与に苦痛が伴うこともある。

でも、本人はもしかしたら、その治療を続けてほしいと思っているかもしれない。そこで改めて、本人の意思を確認に行ったところ、確かに少しもうろうとした状態ではあったものの、しっかりとした口調で「栄養は続けてください。私はもっと生きたいです」と答えた。栄養投与などの治療を続けることでの身体への負担、またそれによって寿命が延びるかどうかはわかりませんよ、といった医学的な説明もしてみたが、本人は首を横に振った。傍らでその様子を見ていた家族もさすがに押し黙り、涙を浮かべていた。そうして、治療の差し控えは中止されたのだった。

主語のすり替えは、このようにある種の暴力性をもっている。「あの人は、よい最期でしたね」と語るとき、自分自身が他人の感情や意志を忖度することの境界を融かしていないか?という危うさに思いを馳せられるようになってほしい。

(編集:榊原すずみ

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