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2020年09月30日 07時45分 JST

金原ひとみの目に映る“新しい日常”「社会で起きていることに引きずられたくない」

パリでも東京でも「私はどこにいても満たされない」。そんな自分と向き合い続ける作家・金原ひとみさんが、コロナ禍でもなお同調圧力が支配する日本に問いかける。

KOOMI KIM/金 玖美
金原ひとみさん

人と人のコミュニケーションが否定されがちな「新しい日常」をどう捉えたらいいのか。

キャリアを着実に積み上げるなかで、生活と社会との接点を見つめてきた作家、金原ひとみの初エッセイ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(ホーム社)は最良のヒントになる。

注目の小説家が率直に語った、パリ、東京、そして新型コロナウイルス━━。

 

「非日常」はいずれ「日常」に組み込まれる

━━「エッセイ」ということですが、本当の話ばかりを書いているというよりは、金原さんがうまい具合に人の話をちょっと加工しつつ、より他者、なにより自分自身の心に迫ろうとする一冊だと読みました。

そうですね。一つ一つのエピソードは実体験や、実体験に近いものが多いのですが、登場する女友達たちにはモデルもいるので、明確に特定されないようにところどころフィクションも織り交ぜています。

それは、おもしろおかしく彼らを書くためではなく、私自身がもっと人に近づいてみたいという気持ちのほうが強かったからだと思います。自分の根幹はパリに行っても変わらなかったけど、人との距離感は少し変化しました。

パリでは日本と違って、行政の手続きにも時間がかかりストレスが溜まることが大きく、何もかもスムーズにはいかなかった。そこでいちいち、怒ったり、悲しんだりしていたらいよいよ精神的に耐えられなくなるので、何が起きても「まぁしょうがないか」と思うようになりました。

そこで私自身も人との距離感が変化してきたんです。本の中に登場する関西人の女友達なんかも、昔なら「ずけずけと踏み込んできて、苦手」と思って距離を置いたかもしれない。でも、その時の私は彼女と仲良くなって、いろいろと聞いたエピソードを書きたいと思った。

昔なら「もう無理」っていう人とも、「たまに飲むにはいいかな」くらいの距離感で付き合えるようになったんで、人間関係の幅が広がっていきました。

小説とは違う形で、長いエッセイを自由に書きたいという気持ちは前からあったので、あまり制約を設けないフリースタイルで書こうと思って書いてみたら、パリの生活の中で、自分の気持ちが少しずつ開いていった過程を描くことになったんです。

KOOMI KIM/金 玖美

━━パリでの生活の中で、印象的なのは「非日常」の描き方です。2015年の同時多発テロが起きた時、日本にいる知人からかなり心配されたという話が出てきますね。

あの時は日本にいる人たちが、「大丈夫?テロがあった場所は近いんじゃないの」と心配してくれましたね。だけど、向こうに住んでいると、フランス人たちは意外とみんな普通だし、日常生活を継続することでテロを乗り越えようとしているところもありました。

そこでわかったのは、非日常的な事件が起きたとしても、社会はまた日常に戻っていくということです。「非日常」が「日常」に組み込まれていき、新しい日常が始まっていく。

日本からニュースを見ているだけだと、そこの温度差はなかなかわかりません。

彼らの暮らしや日常を見ている中で、私自身も感情が必要以上には振れなくなっていくようになりました。より自分を外側から俯瞰して見る感覚が強くなったということですね。

 

日本は「自分」が「社会」に引きずられている

━━それは周囲は周囲、自分は自分と切り離している感覚でしょうか。

うーん、そう突き放した感覚ではないです。今起きたことが10年後、20年後にどう見えるのかと考えられるようになったということですね。

私にとって2011年の東日本大震災、そして福島の原発事故というのは非常に大きな体験としてあって、一つ一つの情報や経過に動揺しながら生きていたという経験がありました。

自分に迫ってくる恐怖を強く感じていた時期だった、と今なら言えるでしょう。それは、社会で起きている出来事と、自分との距離のとり方がわからなかったことで起きたんです。

ですが、そこからフランスのテロ、コロナと経験するなかで物事を引いて捉えるという感覚が強くなり、もっと大きな時系列で考えられるようになりました。

フランスの人たちは、いろいろな政治的な主張が飛び交う社会と自分、他人と自分というのは違うと思いながら日常生活を送っている印象を受けます。彼らは最後には、自分は自分と言える。

日本では逆に社会に「自分」が引きずられていますよね。新型コロナウイルスでもそうだし、定期的にやってくる流行の何かもそうです。社会で起きたこと、メディアで騒がれていることと自分がつながりすぎているというか。

メディアも日本とフランスでは違っていて、テロが起きてもワイドショー的な番組で誰彼構わずインタビューをとって、素人のようなコメンテーターがなんか言うことはないです。素っ気なく、簡素に事実を伝えていくスタンスでニュースが報じられています。

私にはこれが良くて、不必要に怖がることもなく、過剰に情報を取り込もうと思うこともなく、過ごすことができました。

 

私はどこにいても満たされない

KOOMI KIM/金 玖美

━━金原さんの作家的なテーマの一つに「生きづらさ」があります。自分の苦しさと逃げずに向き合うというスタンスですね。これは、フランスに行ったことで変化があったのでしょうか。

生きづらさの種類が変わってきた、と思います。『蛇にピアス』でデビューした頃は、何がなんだかまったくわからないけど、とにかく生きていることが辛かった。

でも、俯瞰して捉えていく感覚が強まる中で、自分はなんで生きづらいのか?何が嫌なのかが見えてくるようになったとは思います。

私にとって生きづらさを考えることと、小説を書くことはイコールです。自分が変化すれば、小説も変化しますが、パリに行ってわかったのは、自分はどこにいても根幹は変わらないんだということでした。

━━そこはこの本のとても重要なポイントです。多くの人は、異国と東京で書くものが変化します。ところが金原さんの場合は、最初に飲み物がパリではワインベースのカクテルで、東京では居酒屋のレモンサワーに変わるというくらいで(笑)、書いているものに決定的な変化はありません。

そうなんです。書いているものが変わらないんです。環境を変えれば生きづらさから救われる、シチュエーションが変われば生きづらさから逃れられるというものではなく、私はどこにいても満たされない何かを抱え、苦しさを抱えている。

なんとなく予想はしていましたが、環境は私にほとんど何の影響も及ぼさないんだということに気がつきました。

 ━━気づきによって楽になるのではないですか。

自分自身をよく知ることはできましたけど、それはそれで絶望感もあります。状況が変わっても、環境が変わっても、何も変わらない自分を確かめ続けてきたと言えると思うのですが、何も変わらないことは、常に向き合っていかないといけないということですよね。

パリの最後の1年はやっぱりきつかったですね。自分のなかで久しぶりに「あれ、私きついじゃん」と思っていましたし、漠然とした恐怖や不安が寝ても覚めてもついてきて、重くのしかかった時期でした。

不安になる具体的な理由というのもいくつかあって、フランスに行っても根本は変わらないということに気がついたというのもあるでしょう。

あとは、家庭内の問題もありました。上の子どもが中学校に上がるタイミングが迫っているということもあり、このまま帰国しなければ子どもが大学に進学するまでこっちにいることになるなと思ったり、夫は夫で仕事はせず大学に通い続けたいと言い始めたり、家庭の中で自分への負荷が大きくなっているというのもありました。

不安や恐怖から逃れるために飲みすぎて、二日酔いの激しい自己嫌悪の中でもう全てが無理だ、と絶望していました。

それでも、生きづらさの処し方は以前よりは身についたとは思います。私もすこし図太くなって、人を頼っていますし、小説や音楽など人の創作物に触れたり、自分が書いたりすることで、半ば無意識的に生きづらさを消化しているところもあります。

 

何が不安かわからないから小説を書く

━━本の中にもストレスを感じてピアスを開けたという話がありますね。生きづらさからの逃げ道もちゃんと用意できるようになっているなとも思いました。

そうですね。他の人も同じように生きづらさを抱えていると思います。それって何か一つの要素で変わるものではないし、程度の差はあれ人生に根付いているものだと思うんです。

日本に帰国してから、あの時の苦しみは「純粋な苦しみ」だったと振り返ることができるようになりました。例えば悩みの種として子どもや仕事というものはあったけれど、本質的にはそこに苦しんでいるのではなく、純粋に自分が原因で、純粋に自分自身が苦しかった。

私は他人の価値観に自分を委ねて、安心するのではなく、自分の苦しさを常に見つめてきたという自負があります。無理して「こんなに自分は幸せなんだ」と思うのではなく、どこにいっても変わらない自分の満たされなさ、苦しさと向き合ってきたということです。

他人の言っていることに乗っかれば、楽だと思いますが、それは他人が言っていることに引きずられるだけです。

よく「あなたは何が不満なの?」と言われることがあります。その度に「いや、私だって何が不満なのかわからないし、わからないから怖いんじゃないか」って言いたくなります。

だから、小説を書いているんです。わからないから、書いている。そこは何があっても変わらないんですよね。

 

生き延びた人の前に続いていく新しい日常

KOOMI KIM/金 玖美

━━フランスにそのまま住んでいたら、日本よりも深刻なコロナウイルス問題の渦中にいたかもしれません。それでも金原さんは変わらないと思いますか。

フランスにいたら、フランスで大変だって思ったでしょう。この本のモデルになった私の友人からも、外から絶え間なく救急車の音が聞こえてきて、上の階からも隣からも咳の音が聞こえてくるという話を聞いています。

でも、これまでの体験から学んだのは、どんな非日常的な出来事がやってきたとしても、やがて日常は戻ってくるということです。コロナが猛威をふるって大きな犠牲が生じたとしても、生き延びた人には再び新しい日常がやってきます。

━━他人の価値観に自分を委ねるというのは、「世間的に正しい」ことから外れたくないという思い、同調圧力に自分を委ねるということと同じです。新作「アンソーシャルディスタンス」は新型コロナ禍も小説に取り込み、それでいいのかと問いかけるという試みと読みました。

新型コロナウイルスが流行しているなかで、まったく関係ない話を書こうとは思わなかったです。この小説に出てくる主人公の二人は、コロナ禍を生きていて、その中でお互いを求めあっている。行き場のない個人のどうしようもない破滅衝動と欲望を抱えながら生きています。

彼らは例えばSNSを使って、社会に「家にいよう」「自粛が大事」と呼びかけることもしないし、何か公共的な仕事をしているわけでもない。ただ愚直に己の衝動に従って生きているだけです。

ただ、自分が何かの役に立っていると驕っている人よりも、自分たちの無力さと無意味さを知っている彼らは気高い存在だと思います。

彼らは「何もできない」と絶望することもなく、冷笑的になることもなく自分を求めている恋人と向き合って生きている。そういう社会とは一線を引いた恋人たちの姿を描きたかったんですよね。

私にできるのは、私に書けるものを書くことです。声高に叫ぶのではなく、小さな声で小説を書いていきたいと思っています。

(取材・文:石戸諭/編集:毛谷村真木

KOOMI KIM/金 玖美
金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼 』(ホーム社)