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2020年07月28日 08時14分 JST | 更新 2020年07月28日 08時14分 JST

「かわいい」はタブーになったのか。他人の評価を気にせず、自分の「かわいい」楽しむには

自分の思う「かわいい」を追求すること。これは大事な権利で、誰からも侵害されてはならない。

筆者提供
えにさん

ずっと「かわいい」を考えてきた

はじめまして、えにと申します。

自分の名前をググると自分でもほんとうなのかわからない自分に関する情報がなんでも出てきてしまう人生に疲れて、本名をやめて「えに」を名乗りだしたのが一年前。「ミスiD」というオーディションに応募したときです。

さらっと説明すると、「えに」というのはanyから来ていて、anybodyとかanythingとか、とにかくなんでもないなにか、どこかのだれか、という意味です。肩書や来歴が自分の実態より重くなりすぎて、それに負けてしまって、“普通”の女の子・ただの少女Aになりたくて、わたしはえにになりました。いかつい鎧がわたしを補強する程度に留まるくらい、ちゃんとわたし自身の骨がわたし自身をしっかり抱え支えられるようになって、自身をもって堂々と本名を名乗れるようになるまでの、一時的な家出のようなつもりで、今はえにとしてあがいています。

 

わたしは今まで、「かわいい」についてその都度いろんなことを考えてきました。自らSNSやメディアに顔を出す立場として、匿名の人からかわいい/かわいくないという評価を勝手につけられる中で、『東大美女図鑑』という媒体の編集長として、プロデュース側の立場から掲載する女の子の魅せ方や一人一人違うかわいさをそのまま伝える方法を模索する中で。

 

さらにミスiDに出て、わたしは「かわいい」という言葉の奥深さ、懐の深さ、幅の広さを知りました。今回わたしの考えていることを書く機会をいただいて、最初に書くべき自己紹介代わりとなるテーマはなんだろうと考えた結果、第1回目では「かわいい」について、がいいのではないかなということになりました。

 

「かわいい」はタブーなのか

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まず大前提は、かわいいは容姿についてのみ言及する言葉じゃないということです。



美醜的な文脈での容姿やルッキズムについてわたしが思っていることは、また別に書かせていただこうと思っているので、今回はむしろそれを除いた部分のかわいいという概念の大枠について書いて行きたいと思います。

 

今のご時世、かわいいとはなかなかにハードルの高い言葉のように思われている側面があるなと感じます。誉め言葉としてプラスの意味で発したつもりでも、もしかしたらセクハラととらえらるかも、相手のジェンダー観に反していて傷つけてしまうかもなど、相手がどう受け取るか考えたら軽率には口に出せない風潮もあります。SNSやメディアでも炎上と隣り合わせな語録リストに載るものだと思います。

 

それでも、かわいくなりたいと思っている人は(性別にかかわらず)多くいます。これかわいい!と一目ぼれして買い物をすることもあります。「かわいい」は純粋に沸き起こる感情で、憧れの対象になりうるものの一つなのです。タブー視されてしまったらもったいない言葉、概念だと、わたしは思います。だって世の中はこんなにかわいいにあふれているのだから!

 

かわいい服に出会ったとき、雑誌でかわいいメイクが紹介されていたとき、かわいい雑貨やアクセサリーに一目ぼれしたとき、かわいいほしい! わたしもこれ着てみたい! この色のアイシャドウ試してみよう! と直感的に思うのではないかと思います。

 

かわいいは所有欲に直結することも多く、想像してワクワクしたり気分が前向きになったり、そういうのがファッションなどにおけるかわいいの役割だと思います。

 

かわいいにはシンプルに幸せになれる力があるのです。

 

なかなかそこで終われないこともあるのはわかります。マネキンはスタイルがいいから似合うけどわたしが着ても…とか、わたしは二重じゃないから…とか、かわいいもの持つなんてキャラじゃないしな…とか、あれこれ考えてしまって結局衝動のままにかわいいを享受できない。そういう人はとても多いし、今、こうして偉そうにかわいいを語っているわたしもそう思ってしまうことはあります。

 

それがさらに複雑になると、かわいい服(仮)が手に入らなくてつらいとか、あの子はかわいくてずるいとか、かわいくないわたしなんて、という負のスパイラルに陥っていってしまうのです。

 

本来、難しいことは何も考える必要のない概念なのに、難しく考えてしまうからそうやってかわいいに殺される人が出てしまうのだと思います。そしてそれはすごく悲しくもったいないことだと思います。かわいいというものが、わたしなんてどうせと卑屈になってしり込みする理由になってしまうのは、本末転倒だからです。

 

かわいいという言葉はつまりはおいしいとか楽しいとかと似たもので、わくわくするとかハッピーだなと感じる、それだけでいいとわたしは思うのです。

 

「かわいい」は権利だ

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かわいい、は主観的な言葉だというのはよく聞かれる話です。人それぞれ趣味嗜好が違うから、かわいいと感じるものは違います。かわいいに絶対的な基準はなく、そんな当たり前のことは誰だってわかっているはずです。だけれど、じゃあなんで実際は、自由なはずのかわいいという言葉を窮屈に感じることが多いのだろう。かわいいと思ったから、それだけで選べずあれこれ考えてしまうのはなんでだろう。

 

その鍵は、かわいいというその主観の主語が誰なのか、ということ。主語がずれてしまうことが誤解を生む原因になりえる、とわたしは思います。

 

ものに対してのかわいいは、当然かわいいと発言した人の主観です。他の人がそれをかわいいと評価してもしなくても、対無機物だから、完全に発言者に感情の選択権があることが許されるのです。

 

対動物の場合のかわいいは、相手も一つの命なので、かわいいと思うかどうかで扱いを変えたり、ものに対しての時ほど自己中な考えで動くことはできませんが、どう感じるかというその点においては人側の自由です。

 

じゃあ、人に対するかわいいはどうでしょうか。どちら側も人なのでそれぞれ意見がありますし、内心沸き起こる感情は当然どちらも否定されてはならないものです。でもこの場合優先されるのは、当然本人の自分自身に対する感情であり、本人が本人のかわいいと思う装いや言動等をしているか、そのかわいいに本人が満足しているかどうか、が一番大事なのです。

 

もっと言えば、周りの人はたとえそのかわいさを理解できなかったとしても、本人に対して「それかわいくないね」とか「わたしは好きじゃない」などと発言する権利はありません。こう書くと大げさに聞こえるかもしれませんが、簡単に言い換えれば単に人の悪口は言ってはいけませんという至極シンプルな話なのです。

 

でも人に「そのメイク似合ってないね」とか「前の髪型のほうが絶対よかった」など言ってしまうというのは実際にあって、言ったほうは何の気なくした発言でも、言われたほうは心にずっと残っていたりするものです。そういう経験の積み重ねが、わたしはかわいいものなんて似合わないんじゃないか、わたしはかわいくなんてない、と自信の失うきっかけになってしまうのです。

 

自分の思う「かわいい」を追求すること。これは大事な権利で、誰からも侵害されてはならないと思います。

 

ただこれだけだと、世界は個人主義を極めていってしまう。自分は自分、他人は他人、お互い好きにどうぞ、はそれはそれで寂しいとわたしは思います。だから相手を尊重したうえで、ちゃんと「かわいいね」と言葉にするのは大事なことだと思うのです。

 

「かわいいね」は平和への第一歩

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わたしは、かわいいとは相手を包括的に肯定する言葉だと思っています。相手に寄り添い共感を示す言葉、相手の考え方に始まり持ち物のセンスだったり趣味だったり、もちろん相手の容姿も含めて幅広いことに好意を示せる言葉です。

 

大前提としてかわいいは容姿だけにとどまった言葉ではないと書きましたが、それと同時に外見的なかわいいという狭義の意味ももちろん存在しています。

 

大事なのは、その人の個性・素敵な点を、外見的な要素なのか内面的な要素なのかにかかわらず、フラットにほめる言葉だということです。

 

かわいいという言葉で相手に共感をしめす、と言っても、例えばその人が好きなキャラクターをあなたも同様にかわいいな好きだなと思えという話では当然ありませんし、同感かどうかは大して重要ではないのです。

 

あなたの「それかわいいね」という発言はただシンプルに、そういうものを持つ相手やそれをかわいいと思う相手自身に対し好意好感を伝える行為なのだと思います。

 

たとえ自分とは考え方が違うとしても相手の思うかわいいに寄り添う、というのはつまり多様性の許容で、自分の思うかわいいもあの子の思うかわいいも全部守られる、ということなのです。みんながもっと気軽にお互いのことをかわいいねと言い合ったら、負の感情はかなり減り世界はもっと平和になるだろうにな、とわたしはいつも思っています。

 

かわいいはそれぞれの人のなかにあって他者のかわいいについて干渉する権利はないという話をしてきましたが、その上でわたしは、かわいいにも客観的で絶対的な基準は一つ存在すると思います。

 

それはかわいくなろうとしている人はかわいいということです。

 

かわいくなろうとしている、というのは、もちろんメイクを頑張る・運動をするなどの外見にまつわる努力も含まれますし、勉強や自分磨きといった内面の充実も入ります。頑張っている人はそりゃ魅力的でかわいいです。自分のかわいいを追求する行為は、すなわち自分の好きな理想の自分に近づいていくということで、その積み重ねによって、自分に自信を持てるようになったり愛せるようになったりしていきます。自分のことをかわいいと思えるようになれたら、それほどかわいくて魅力的な人はいないと思います。

 

かわいくなりたい理由が他人にかわいいと思われたいから、という場合もありますが、それでも話は変わりません。たとえば、デートの前にあれこれ準備する女の子は、もちろん主観的な本人の思うかわいいにも着実に近づいて行っているけれど、デート相手にかわいいと思われるために頑張っている時点で、既に絶対的にかわいいのです。その考えがあればデートのお相手も、自分の思うかわいいに合致しているいないにかかわらず、彼女のかわいいに共感を示せるはずで、これがどちらも幸せになれる秘訣だと思います。



つきなみですが、わたしはかわいいは正義だと思っています。

 

かわいいという言葉ですべての人を肯定したいと、かわいいの言葉ですべての女の子をかわいいの呪いから解放してあげたいと、思っています。わたしはかわいくないから…かわいいものなんて似合わないから…といった呪縛は、わたしかわいいかもしれない…!でしか解けないことを、わたしは身をもって知りました。

 

かわいくなりたいと、かわいいものを純粋にかわいいと、本当に素直に言えるようになったのは、わたしも実はつい最近のことなのです。

 

それ以降、呪いを解くトリガーとなればいいな、という思いで、わたしは積極的に人に「かわいいね」と言うようにしています。1回や2回ではそう簡単に変わらないかもしれませんが、もしそれがきっかけで、わたしかわいいかも/かわいくなりたいと思ってもいいのかもと思えたり、コンプレックスを個性として捉えられるようになったりしたら、かわいいを思うままに楽しめる人が増えたら、とても嬉しい事だなと思います。

 

そうやってかわいいの連鎖を広げていきたい、そのきっかけになっていきたい、というのがわたしの今後の大きな目標の一つです。

 

(編集:榊原すずみ