聴こえない弟を持つ弁護士が、“聴こえるきょうだい” 「SODAの会」を立ち上げるまで

聴こえない母を支えてくれた、聴こえる伯母。きょうだいが抱く葛藤を知って気づいたこと。
「SODAの会」を立ち上げた弁護士の藤木和子さん
「SODAの会」を立ち上げた弁護士の藤木和子さん

耳が聴こえない母には、ふたりの姉がいる。ともに聴こえる人であり、きょうだいのなかで聴覚に障害があったのは母だけだった。

一番上の姉、ぼくの伯母は近所に住んでいたこともあり、母やぼくにとてもよくしてくれた。若い頃はスナックのママをやっていて、控えめな性格の母とは異なり少々豪快な人だった。ぼくはそんな伯母が大好きで、彼女のもとをしょっちゅう訪れた。

高校の入学説明会には伯母も付き添ってくれて、学校のカリキュラムや入学式までの流れなどを母にとことん説明してくれたものだ。そんな伯母に、いまでも頭が上がらない。

けれど、きっと彼女も思春期の頃にはいろいろな思いを抱えていたのではないだろうか。

伯母が思春期だった当時は、いまよりも障害者やその家族への理解が進んでいなかった。障害者が子どもを作るのを防ぐための強制不妊手術が行われた旧優生保護法(1948~1996)という悪法があったくらいだ。障害者に対する差別がはびこっていたことは想像に難くない。家族に対する偏見もあったはずだ。

妹に障害がある。その事実を伯母はどう受け止めていたのだろう。

聴覚障害について書くようになってから、ぼくはひとつの単語を知った。

SODA(ソーダ)。これは「Sibling Of Deaf Adults/Children」の頭文字をとった言葉で、「聴こえないきょうだいをもつ、“聴こえるきょうだい”」のことだ。

日本には、「SODAの会」(正式名称:「聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会」)というものがあり、SODAたちが集まっているという。

代表を務めるのは、弁護士の藤木和子さん。もちろん、彼女も聴こえない弟を持つSODAだ。

聴覚障害者の親を持つCODAと、聴覚障害者のきょうだいを持つSODA。ふたつは似ているようで異なる。ぼくはCODAの気持ちを理解できるものの、伯母のようなSODAの気持ちはわからない。

藤木さんの話を聞けば、伯母がどんな気持ちで母と接していたのかわかるかもしれない。ヒントを探すために、ぼくは藤木さんに会いに行った。

聴こえない弟のことをあまり言えなかった幼少期

「SODAの会」を立ち上げた弁護士の藤木和子さん
「SODAの会」を立ち上げた弁護士の藤木和子さん

藤木さんの弟は耳が聴こえない。それがわかったのは藤木さんが小学校に上がる前のことだったという。

「当時、私は5歳、弟は3歳でした。病院で脳波検査を受けて、弟の耳が聴こえないことがわかったんです。補聴器をつけることで音が聴こえても、言葉は聴き取ることは難しいです」

幼少期の藤木さんは、自分の弟が聴こえない事実を周囲にあまり言ってこなかった。

「同じ小学校に通っていたんですけど、友達には特に言いませんでした。敢えて言う必要もないと思っていましたし、そのことで目立つのも嫌だったんです。周囲の子は同じ学校なのでもちろん知っていました。でも、みんな遠慮してあまり触れてこなかったんですよね」

幼少期の藤木さん
幼少期の藤木さん

藤木さんの言葉に、強く共感した。小学校低学年の頃、うまく喋れない母の口調を友達に指摘されてから、ぼくは「両親が障害者」ということを隠すようになった。授業参観や運動会にも親を呼ばず、どうしても保護者が出席しなければいけないときは祖母を頼った。

それでも地方は狭いため、家庭事情がすぐに筒抜けになる。なかには両親の事情を知った上で仲良くしてくれる友だちもいた。ただし、彼ら彼女らは障害については踏み込んで訊いてくることはなかった。

気を遣ってくれたのかもしれない。しかし、そのせいで、ぼくはいつも自分が枠の外にいるような気持ちを抱いていた。その頃から“ふつう”の家族を持つ友人たちを眺めては、羨ましさと哀しさと怒りがないまぜになった感情に苛まれていたのだ。

一方で、小さい頃から、両親のことを守らなくてはいけない、という使命感も持っていた。それは藤木さんも“聴こえるお姉ちゃん”として同様だったそうだ。

「藤木家には、“聴こえるお姉ちゃん”と“聴こえない弟”がいる。弟はいつも可哀想な子として見られていました。逆に私は、『お姉ちゃんは聴こえることに感謝して、頑張りなさい』と言われてばかりで。そういう意味で、SODAと聴こえないきょうだいは比較されてしまうんです」

「両親にも、ベースとしては、聴こえる・聴こえないは関係なく、“ふつうの姉と弟”として接してほしい、と思っていました。それでも、喧嘩をすると『聴こえるお姉ちゃんなのに』と叱られてしまう。だから私自身は、対等でいることにこだわっていましたね」

「聴こえないからといって過剰にやさしくするのではなく、喧嘩のときは全力で(笑)。じゃないと、弟だって嫌かなあと思ったんです。お姉ちゃんらしいのか、らしくないのかわかりませんが、それが私の性格です」

“聴こえる側”を気にかけてくれるろう者たち

藤木さんはいま、弁護士として多くの障害者の家族に関する案件に関わっている。

「転機になったのは、『高松市手話通訳派遣拒否違憲訴訟』です。2011年、ろう者の女性が高松市の障がい福祉課に、聴こえる娘さん(CODA)が進学を希望する専門学校の保護者説明会での“手話通訳の福祉サービス”を申請したのですが、断られてしまいました。理由は、小中高の学校行事までは手話通訳を派遣できるけれど、専門学校や大学には派遣できないということでした。地域格差の側面も大きいですね」

「その裁判で、ろう者の弁護士をはじめとする大人のろう者や、手話通訳者の方々に初めて出会ったんです。このような世界があったんだ! と衝撃だったのを覚えています。それを機に、手話をはじめました」

裁判を通じて、藤木さんは、CODAやSODAなど、ろう者の側にいる“聴こえる家族”が置き去りにされていることを痛感したという。

「裁判では、全国のろう者、手話関係者をはじめとする多くの方々や各団体から支援を受けて、“ろう者のお母さん”がクローズアップされていました。これに対し、“聴こえる娘さん”と同じく、さまざまな体験や想いがあるはずの“CODAたち”は裁判とつながれていなかったんです」

2018年、藤木さんは、ついにSODAの会を立ち上げる決意をした。

「当初は聴こえない側からの批判があると思っていました。『聴こえるんだから、サポートなんか必要ないだろう』って。でも、いざSODAの会を立ち上げてみると、私の周りには、応援してくれる聴こえない友人、知人が大勢いたんです。なぜか『ありがとう』とまで言ってくれた方までいました。聴こえるきょうだいのことも気にかけてくれたんですね」

たしかにそうだ。振り返ってみれば、両親はいつもぼくのことばかり気遣っていた。

「お母さん、聴こえなくてごめんね」

「恥ずかしいよね」

「嫌なことはない?」

幼い頃に母から言われた言葉を反芻する。母は自分のことは二の次で、ぼくがどんな気持ちでいるのか気にする人だった。どれもこれもやさしさで満ちていた。

両親の障害のこと誰かに打ち明けると、大抵の人は「あなたは頑張ったんだね」という反応を見せる。けれど、頑張っているのはCODAやSODAといった“聴こえる家族”だけではない。聴こえない人たちは、ただ守られるだけの存在ではない。彼ら彼女らも、聴こえる家族を思い、自分にできることを探し、支えてくれているのだ。

藤木さんの話を聞き、ぼくはそんな当たり前のことを痛感した。

SODAが直面するかもしれない壁

SODAの交流会で寄せられたSODA当事者の声
SODAの交流会で寄せられたSODA当事者の声

SODAの会を立ち上げ大勢のSODAと出会った藤木さんは、彼ら彼女らが抱く特有の悩みに気がついた。

「SODAは、自分だけが聴こえることに申し訳なさを感じてしまい、周囲の不公平や自分が我慢していることを打ち明けられない傾向があるんです。もちろん、聴こえないきょうだいにも我慢していることはある。けれど、互いに本音を言えず、それがきょうだい同士のすれ違いにもなってしまうんです」

「実際、親が亡くなった後のSODAと聴こえないきょうだいの相続問題に何件か関わりましたが、手話通訳を介して、互いに50代、60代になってはじめて本音で話せた方々もいました」

また、最近は少なくなってきたが、SODAが結婚するときにも問題が生じることがある。身内に聴こえない家族がいることで、相手の親や親戚から結婚に反対されてしまうのだ。

「旧優生保護法があったように、いまだに偏見を持っている人はいます。聴こえない人と聴こえる人が結婚する場合にも、壁がある場合とない場合があると思いますが、SODAも同じなんです。最終的には理解を得て結婚しましたが、聴こえない子どもが生まれてしまうかもしれないと反対された人もいます。ただ、最初から問題にならないケースも多いので、時代は徐々に変わってきているとも思います」

「旧優生保護法があった時代の文献を読んでいると、ろう者たちの声を知ることができます。親から出産を反対された人、強制的に中絶させられてしまった人、二人目の出産を諦めた人。その根底にあるのは、聴覚障害が遺伝したら困る、という考え。それが差別や偏見となって、きょうだいであるSODAの結婚にも少なからず影響するわけなんです」

現在は「旧優生保護法」の裁判に関わっている藤木さん
現在は「旧優生保護法」の裁判に関わっている藤木さん

障害と子どもをめぐる障壁は、ぼくの両親にもあった。彼らは二人目の子どもを望んでいたが、祖母から大反対されて諦めた。理由は「もしも聴こえない子どもが生まれたらどうするの」だった。

けれど、それは大きな問題だろうか。聴こえない子どもが生まれても、幸せに生きることはできる。一方的に、聴こえないことを不幸と結びつけるのは、いまを生きるろう者の存在を否定することにならないだろうか。

聴こえないきょうだいがいるということ

取材のなかで弟が聴こえないとわかった頃の話題になると、藤木さんの表情が少し曇った。そして、藤木さんは思い出すようにゆっくりと口を開く。

「弟が聴こえないことで、母が親族から陰で悪く言われていたんです。『あの人が悪いんじゃないの?』って。でも、仮に遺伝だとしても、父と母のどちらからか、あるいは両方か、なんてわからないじゃないですか。ただ、母や弟の前では言わないんです」

「私は、小学生くらいでしたが、聴こえてきてしまった陰口の内容を誰にも言えなくて。本当は『やめなよ』と言ってくれる人がいてほしかった。悪気もなく、軽い気持ちだったのはわかるので特定の誰かを責めるつもりはありません。でも、そのような言葉が子どもの私に与える影響について、周囲の大人全員があまりに無知だったように思います」

“無知”であることが、差別や偏見につながる。

しかし、子どもがただ声を上げても、誰も耳を傾けてくれない。幼くしてそれを思い知った藤木さんは、「負けるもんか」「世の中に気づいてほしい」「強くなって、力を付けて、声を上げるんだ」と決意した。

それがいまの弁護士としての活動につながっている。

「いまはSODAの会の代表として取材を受けたり、発信したりできる機会に感謝しています。私が弁護士だから注目していただけている部分もありますが、そうではなくて、もっともっと発信する人を増やしていきたいですね。Twitter等のSNS上でも、SODAやCODA、他の障害のきょうだい、ヤングケアラーの立場の発信が、実名・匿名を問わず増えています」

「自分の経験や想いをきっかけに多くの人に気付いてほしい、と考える人や、SODAの会やきょうだいの会などを立ち上げたいと思う人に、パスを渡していきたいです。さまざまなケースや課題がありますし、社会全体に(理解が)広がっていくことにもなりますから」

藤木さんが立ち上げたSODAの会のみなさん。聴こえないきょうだいの参加も
藤木さんが立ち上げたSODAの会のみなさん。聴こえないきょうだいの参加も

藤木さんが目指すのは、聴こえない家族と聴こえる家族が、そして、聴こえない人と聴こえる人がもっと平等に生きられる社会だ。次世代のSODA、CODA、そしてGODA(聴こえない祖父母を持つ、聴こえる孫のこと)につなげたいと、藤木さんは活動を続ける。

最後にぼくは、藤木さんにひとつの質問を投げかけた。

聴こえない弟をもって、どうでしたか?

「弟がいてくれてよかったと、と感じています。ただ、弟が聴こえなくてよかった、SODAでよかったと簡単には言えません。また、他人にもそう言ってほしくありません。弟が聴こえないことは、弟自身でありつつ、痛みでもあり、最終的には弟の領域なので」

「そのなかで、私がSODAとして生きる道を見つけられたこと、SODAの会を立ち上げて多くの仲間に出会えたこと、一緒に考えを深めて発信していきたいと手を上げてくれるSODAがいることは、心から幸せなことだと感じます」

「私と違って、多くのSODAは、SODAという一部分を持ちながらも、“SODAとして”ではなく、基本的には“自分として”生きていきたいのだろうと思います。でも、もしSODAとしてのつながりや相談相手がほしくなったときには、私のことを思い出してコンタクトしてもらえるように発信していきたいです」

「そもそも、きょうだいって、親友だったり、ライバルや敵だったり、複雑な関係じゃないですか。仕事も含めて、多くのきょうだい関係を見てきて実感します。そして、私自身もいろんなことがありましたけど、結構面白かったといまは思っているんです」

SODAの伯母は母をどう思っていたのか

聴こえない弟の存在をあまり言えなかったこと。聴こえることで比較され、「頑張らなければいけない」と言われたこと。大人の陰口が聴こえてしまったこと。そして、いま振り返ると、弟と過ごした日々はけっこう面白かったこと。

藤木さんの経験は、CODAであるぼく自身のそれと重なった。

ぼくは藤木さんと出会い、SODAの気持ちに触れることができた。

幼い頃のぼくは、いつもひとりぼっちだと思っていた。

聴こえない両親を守り、彼らを理解し、社会からの偏見と戦うのは、ぼくひとり。

けれど、決してそうではなかった。SODAの伯母も、ぼくと同じように葛藤しながら生きたのだろう。伯母もまた母を支えてくれている。

ここまで書いて、ぼくは思い切って伯母に電話した。突然の連絡に戸惑いながらも彼女は、母と過ごした幼少期について語ってくれた。

母の耳が聴こえないと判明したのは、母が幼稚園にあがる頃。伯母は小学生だった。いつになっても喋ろうとせず、周囲の音に反応を示さない母を、祖父母が大きな病院に連れていったのだ。

障害者への理解が進んでいない時代。祖父母は、聴こえない母になにもさせようとせず、なるべく人前に立たせようともしなかったという。

「でも、それじゃあまりにも可哀想じゃない。だから私は率先して外に連れ出したんだよ。買い物にも付き添って、どうやって会計するのかを教えてあげた。聴こえないからって、なにもできないわけじゃない。一度教えれば、なんだってできるようになるんだから」

とはいえ、伯母も障害者の妹を周囲に打ち明けられるまでは、少し時間がかかった。

「妹に障害があることをおおっぴらに言えない自分もいたけど、他人に馬鹿にされると腹が立つのも事実。真ん中の妹と一緒になって、悪ガキどもに食って掛かったこともあったよ。『障害者でなにが悪いんだ』って」

「いま思えば、あんたのお母さんから教えてもらったこともたくさんあった。一緒に裁縫したり、料理したりね。だから妹が結婚して子どもを生んだときは、うれしかったよ。もちろん、親としてできないこともある。そのときは、姉として手伝おうと思っていただけなのよ」

母は、ふたりのきょうだいと過ごしたことで、世の中を知ることができたのだ。

伯母に対して大きな謝意が生まれた。今度会ったときに、直接「ありがとう」と伝えたい。

五十嵐 大

フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。

(編集:笹川かおり)