三宅精一さんをGoogleが称える。世界に広がった「点字ブロック」を生涯をかけて発明

道半ば、56歳で亡くなるまで点字ブロックの普及に人生を捧げました。

道路を歩くとき、ふと足元を見ると目に入る黄色い突起。3月18日は、点字ブロックが初めて道路に敷かれた日だ。

Googleのトップページに掲載されるGoogle Doodleには、開発者を称えて点字ブロックがアニメーションで表示されている。

点字ブロックが初めて世に出た3月18日、Google Doodleは点字ブロックがアニメーションで表示されていた
点字ブロックが初めて世に出た3月18日、Google Doodleは点字ブロックがアニメーションで表示されていた
Google Doodleより

点字ブロックは、目の不自由な人が外出するときに、危険にさらされないよう開発されたもの。

重要なインフラの一つとして、筑波大学の徳田克己教授(バリアフリー論)の2016年までの調査では、アメリカや中国、イギリスなど75カ国に広がっている。

実は、この点字ブロック、岡山県の発明家・三宅精一さん(1926~1982)が、生涯をかけて開発した製品だった。

視覚障がい者の目の前を勢いよく走り去る車。安全な「道しるべ」を考え続けた

安全交通試験研究センター提供

三宅さんは岡山市で旅館を経営しながら、町の発明家としても活躍していた。

1963年ごろ、三宅さんが道路を歩いていた時に、交差点で白い杖を持った視覚障がい者が車道を横断する姿を目にした。

その時、白杖をつくその人の横を車が勢いよく走り去ったという。

間一髪の危険な場面に遭遇し、目の見えない人も自立して外を歩けるようにできる仕組みはないかと考え始め、日夜頭から離れなくなっていった。

三宅さんには、愛犬のセントバーナードの訓練士を紹介した縁で知り合った岩橋英行さん(1925~1984)という友人がいた。

岩橋さんは、目が不自由な人のための福祉施設を運営する日本ライトハウスの理事長で、自身も視覚障がいがあった。

岩橋さんと話をするうちに、三宅さんのなかで視覚障がい者の道しるべとなる点字ブロックの構想が一気に膨らんでいった。

最初の点字ブロックはコンクリート。公益的事業として、全国へ広げる夢を追いかけた

目が見えない場合、どうすれば道路の切れ目が安全に判断できるだろうか。

岩橋さんの著書「白浪に向いて」などによると、三宅さんと話している際に、岩橋さんが「突起物なら分かる」と言ったことがブロックの原型になったという。

三宅さんの弟・三郎さんは、建設会社に勤めていたスキルを活かし、図面を引いてその発想を形に変えていった。

三宅さんらは、地元のユーザーにも聞き取りに行き、正方形のなかにドーム状の突起が7×7列で49個並ぶコンクリート片を作った。

その形が点字を並べたように見えたことから「点字ブロック」の名前が付いた。

同時に、三宅さんは視覚障がい者も、1人で安全に外を歩けるよう、安全誘導のブロックを全国の道路に敷く目標を掲げた。

1965年、公益的な事業に身を投じようと自宅に「安全交通試験研究センター」の看板を立て、生涯をささげる決意をした。

第一号点字ブロック、1967年3月18日に岡山で設置

三宅さんは建設省(当時)の出先機関などと交渉を重ね、ついに1967年3月18日に実用化にこぎつけた。

世界で初めての点字ブロックは、岡山県立岡山盲学校の近くを通る国道2号線の横断歩道への敷設だった。

機械の設備も乏しく、手作業で一枚ずつ230枚のブロックを車に積み上げていった。手洗いする水はまだ刺すような冷たさが残り、ブロックをつかむ軍手は指先に穴が開いたという。

開発に携わった岩橋さんは、渡り初め式を前に歩行テストを行った。

初めての点字ブロックの点検をする岩橋英行さん
初めての点字ブロックの点検をする岩橋英行さん
安全交通試験研究センター提供

その後、岡山盲学校の生徒たちが初めての点字ブロックを踏みしめた。

点字ブロックの渡り初め式で感触を確かめる岡山盲学校の生徒たち
点字ブロックの渡り初め式で感触を確かめる岡山盲学校の生徒たち
安全交通試験研究センター提供

各地に点字ブロックを贈呈。高度経済成長期に軽んじられた福祉の視点

三宅さんらは、開発した点字ブロックの改良を続けながら、関係省庁をまわり、福祉事務所などに赴いて普及に努めた。

岡山のほか、東京や仙台、大阪など全国各地に点字ブロックを贈呈していった。

しかし、時代は高度経済成長期。経済の成長に主眼を置く日本では、福祉に対する目線は冷たいものだった。

ブロックの考案から6年が経ったころ、三宅さんは資金が底をついた。

しかし、1970年に、東京で点字ブロックを敷くための依頼が入った。視覚障がい者のための福祉施設が多くあった高田馬場駅東側一帯を、全国で初めて「交通安全モデル地区」に指定したのだ。

この頃から、49個だった突起は6×6で36点に変わり、いまでは馴染みの黄色いブロックに変わった。

70年代は、石油ショックなどを機に「経済から福祉へ」の転換がはかられた時代でもあった。

1974年には旧建設省が、視覚障がい者のための道路誘導システムの研究に乗り出し、点字ブロックに光が当たった。

知名度とともに、出回る模造品…志半ばで倒れる

一気に知名度が上がるにつれて、問題も出てきた。

普及のために身銭を削り、自己破産寸前まで追い詰められた三宅さんたち。

知名度が上がったことで、事業も軌道に乗るかと思われたが、その価値に目を付けた他業者から粗悪な類似品が出回り始めた。

デザイン性を重視して、千鳥柄のブロックができたり、色がバラバラなものや、通常使われる階段のすべり止めのような素材を転用するものも出てきた。

視覚障がい者の歩行を助ける、という信条は無視され、統一基準のなかった点字ブロックは、利益優先の類似品によって分かりにくい標識になってしまった。

全国だけでなく、ヨーロッパなどでも点字ブロックの有用性を説きに行くなど、普及活動に飛び回っていた三宅さんは、1976年に慢性肝炎で入院。

その後、過労をおして活動に奔走した結果、1982年に56歳で帰らぬ人となった。

三宅さんの遺志を継いだ三郎さんや安全交通試験研究センターのメンバーは、粗悪品による混乱をなくし、視覚障がいを持つ人が使いやすい形を求めて活動をつづけた。

2001年には、工業製品の統一規格をつくるという念願が叶い、JIS規格に制定された。

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