あの人のことば
2019年04月03日 07時57分 JST

「平成」から「令和」に変わっても、日本人は印鑑を必要とするの? グローバルとローカルのせめぎ合いはどこへ向かうのか

次の時代を迎えることを節目と考え、物事の整理にあたる人も少なくないだろう。まもなく訪れる平成との別れにはどんな整理が必要なのだろうか。

maroke via Getty Images
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平成が終わる。

新たな元号は万葉集を出典とする「令和」に決まった。5月からは「令和元年」がスタートすることになる。

日本に長らく住んでいるアメリカ人として、「元号」が変わるというイベントには不思議な感慨を覚える。多くの外国人から「馴染みのないもの」に見えているものでも、長く付き合えば愛着はわくものだ。

次の時代を迎えることを節目と考え、物事の整理にあたる人も少なくないだろう。まもなく訪れる平成との別れにはどんな整理が必要なのだろうか。

 

 

「今年は平成何年?」と計算するのは、正直面倒

 

まずは、元号が変わることで公的書類や印刷物、硬貨の刷新などさまざまな影響が出てくるだろう。「投資のチャンスだ!」「平成の年号が記されたモノにはプレミアがつくのでは?」と情報番組では報じられ、新しい元号を予想するインターネットのサイトも活況である。

 この原稿を書くにあたりスタッフと話していたら、おもむろに運転免許証を財布から取り出して「あ、そういえば去年書き換えた免許証、平成33年まで有効だ!」と言い出した。

そもそも存在し得ない平成33年という年号が堂々と書かれているのはおかしなものだが、次は一体いつ免許証の更新に行けばいいのか不安だとそのスタッフはやや顔を曇らせていた。

そんな中、私はふと「平成4年」のことを思い出した。

当時、私は弁護士として、とある日本企業の代理人を務めていた。

裁判で証拠となるもの(出来事)の日付が平成4年の前か後かが重要なカギを握るという状況下で、片っ端から日本の書類を調べる日々…。

その際、日本の元号と西暦を照合するのに非常に苦労した。だからだろう、「平成4年は1992年」だといまだにはっきりと覚えている。

私が初めて日本の「年号」の存在を知ったのは、アメリカの大学で受けた日本史の授業だった。

その時はそれほど気にも留めなかったが、長く日本で暮らしていると、年号は日本人にとって生活に深く浸透しているのだと感じる。

例えば、役所や銀行などで公式な書類を書く際には必ずと言っていいほど、「今年は平成何年だっけ?」と計算をしなくてはならない。

「正直、面倒くさいな」と思うことも多い。

しかし負けず嫌いな性分で、こんな些細なことでも「誰よりも早く計算したい」と思ってしまうのだ。

これだけグローバル化が進んでいるのだから、年号を廃止して西暦に統一すればいいという声もあると聞く。

でも私は、そんな簡単に片づけてしまうのはなんとなく惜しい。 

私が日本に馴染んできたせいであろう。

 

印鑑にまつわる、苦々しい思い出。

 

西暦と元号の照合のほかにも、日本の慣習が肌になじんできたなと思う瞬間がある。

 ひとつは印鑑だ。公的書類にいくつも自分の印鑑を押す作業もすっかり板についてきて、スタッフに感心されるほどだ。

実は、年号と同じく、印鑑にも深い思い出がある。アメリカから留学してきて間もない頃、銀行口座を作る際に窓口の担当者とひと悶着あったからだ。

 「印鑑がないと口座は開けない」という担当者に、「私はアメリカ人だし、数か月しか滞在しない。帰国の際には口座を閉めるので、何とかサインで受け入れてくれないか」と訴えた。

必死の訴えもむなしく、「できません」の一点張り。

若かった私は相当激昂し、すぐに印鑑を作って「これでいいのか?!」と語気荒く印鑑を担当者に見せつけてやると…。

担当者は微笑みながら言った。

「通帳は、こちらのかわいいワンちゃんの絵柄でよろしいでしょうか?」

 

本人にも見分けがつかない、偽物のサイン

 

苦々しい(?)思い出はさておき、私は本気で印鑑の信頼性を危惧している。

なぜならば、技術革新が著しい昨今、3Dプリンタなどを用いればあっという間に模倣できてしまうからである。印影や本人確認など、ほかにもセキュリティチェックが厳しく行われているとはいえ、印鑑の信用のみに頼るのはもはや現実的ではないだろう。

 直筆のサイン等、印鑑に変わる存在が浸透することが急がれる。

例えば、アメリカでは小切手(チェック)を切る機会が多い。チェックには本人のサインが必要なのだが、かなり厳しく真偽を確認される。

実際に私の偽のサインが発見され、銀行から連絡が来たたことがあった。

そのサインを確認したけれど、自分の書いたものと見間違えるほどのクオリティだったことは驚きだ。

本人が間違えそうなほどのサインでもしっかりと真偽を判定するセクションが行内にあるのだから頼もしい。日本には同等の技術はすでに存在するだろうから導入は難しいことではないはずである。

 それなのに、なぜ印鑑を重んじるのか。

そこには元号と同様、「しきたり」を「文化」と捉える側面もあるのかもしれない。

 ビジネスにおいてグローバルスタンダードは重宝する。

しかし、「日本だけ」というものには、また愛着がわいてくるというのも事実である。マーケティングでいう希少性の原理が働いているのかもしれない。グローバルスタンダードとローカル文化の双方の醍醐味を味わえる時、それが元号が変わる今の時期かもしれない。