女装する男に向けられた「不可解な笑い」。「キンキーブーツ」から「男らしさ」の檻について考えた。

「今回は『美』を追究した」と答えたドラァグクイーンのローラ役の三浦春馬さん。すると、報道陣からザワザワと笑い声が起こった。

ブロードウェイミュージカル「キンキーブーツ」の日本人キャスト版が2019年4月から再演され、話題を集めている。

気になることがある。それは、この作品の消費のされ方――より具体的にいえば、この作品を取り巻く「笑い」についてだ。

キンキーブーツは、イギリスの田舎町で家業の靴工場を継ぐことになった青年チャーリーと、ドラァグクイーンのローラとの友情を描く物語。日本版はチャーリーを小池徹平さん、ローラを三浦春馬さんが演じている。

2019年4月、公開ゲネプロ後の囲み会見。三浦さんは、記者から「身体づくりで意識したことは?」と問われ「今回は『美』を追究した」と答えた。すると、報道陣から、ザワザワと笑い声が起こった。

三浦さんは「美」という言葉を自分に対して使うことを照れ臭そうにしていたので、何となく「笑うところ」という空気になったのかもしれない。だが、「男が美を追究すること」の何がおかしいのか。

「おかしくない。大事なことだから」。笑いが巻き起こった直後、小池さんが私の気持ちを代弁してくれた。

2016年の初演時の会見でも、一部の記者たちの質問は気分のよいものではなかった。

「(女装に)ハマりません? クセにならない?」
「そのうち街中も女装して歩くようなことがあったりするかもって感じですか?」

笑いながら、そんな質問を浴びせていた。

ローラは男性だが、性別にとらわれず「美しくあること」に誇りを持つドラァグクイーンだ。劇中では「女装癖のお方」と呼ばれたことに対して、反論する場面もある。

三浦さんはその舞台姿に説得力を持たせるために、厳しい稽古とトレーニングを重ねてきた。当時は「ご想像にお任せします」などと流していたが、茶化すような質問をどう感じただろうか。

日本版初演から2年半。ブロードウェイ初演でローラを演じた俳優ビリー・ポーターは2019年2月、アカデミー賞授賞式にタキシードドレスを着て登場し、世界から賞賛を浴びた。

それなのに、日本のローラはまだこんな眼差しを向けられるのか。私は失望を覚えた。

Dan MacMedan via Getty Images

危機にさらされる「男らしさ」の行方

キンキーブーツが包含する重要なテーマの一つに「男らしさとは何か」ということがある。

ドラァグクイーンとは、派手な衣装や化粧などで女装するパフォーマンスの一つだ。ゲイ文化から生まれたとされるが、近年では性別や性的指向に関係なく扮装するようになっている。

三浦さんの演じるローラは、指先の動きや体全体でつくるフォルムにまで意識が行き届き、強さと激しさをほとばしらせながら、同時に繊細で上品だ。その存在は「男性的」でも「女性的」でもあり、ゆえに、どちらにもカテゴライズされない。

そのありさまを、直接的に「オカマ」といった言葉で侮辱し、目の敵にするのが、保守的な男性工員のドンだ。

デザイナーとして工場で働くことになったローラが、周囲に馴染もうと男性服を着て登場する場面。ドラァグクイーン姿のときとは打って変わって所在なさそうなローラを、目を輝かせてからかうドンの「笑い」は、前述した記者たちの「笑い」と本質的に通じているのではないか。

「男性が女性の恰好をするのは何だか笑っちゃうよね」という感覚は、「男性が男性の恰好に馴染めない様子は何だか笑っちゃうよね」という感覚と裏返しの関係だからだ。

なぜ、笑うのか。

カナダの編集者・ジャーナリストのレイチェル・ギーザさんの著書『ボーイズ』(DU BOOKS、2019年)が、それを考えるヒントになる。

同書は、社会で理想化された「男らしさの幻想」が、男性たちにストレスを与えている現状を指摘している。

フェミニズムが広がりを見せる今や、ドンがまさに体現しているような伝統的な「男らしさ」は、否定的に語られる局面が多くなった。しかし、その「男らしさ」は男性が生まれ持つ性質のように受け止められているがために、批判されるとまるで自分自身の存在が脅かされたかのような拒否反応を示すケースがあるという。

同書で引用されている米カリフォルニア州の男子高校生に対して行われた研究結果によると、「ゲイ」や「オカマ」という言葉で、従来の男らしさの基準に沿わない振る舞いをからかうことは、彼らの文化の中で「重要な要素になっていた」。

つまり、「嘲笑」によって排除するというかなり後ろ向きな方法で、ホモソーシャル(同性間の絆、一般的には男同士の体育会系的なつながり)を守っているというわけだ。弱みや感情の起伏を表に見せるな、ただ強く、タフであれ――。そんな「男らしさ」のプレッシャーは、ある状況では男性たちを「強く」してくれるかもしれないが、結局は「親密なつながりを築く力を奪ってしまう」とレイチェルさんは指摘する。

劇中で、ローラと友情を築くチャーリーも、ドンと同じ「男らしさの檻」に苦しめられる。

チャーリーは、亡き父親をどこかで意識し「信頼され、冷静でクールな」社長であろうとする。しかし、周囲の声に耳を傾けられなくなり、孤立を深めると、「普通じゃない」「主流じゃない」といった言葉を振りかざしてローラを傷つけてしまう。

父親と同じやり方で乗り切れないことは明らか。でも「自分らしさ」なんてそう簡単には見つからない。

チャーリーが、男としての自分に失望感を抱いたとき、男性なのに、軽やかに女性でもいられるように見えてしまうローラのことを、本名の「サイモン」と呼びながら――つまり、「君は男なんだぞ」と強調しながら罵倒する様は、悲痛だ。

つまり、男性たちは粗野で乱暴であるから、ホモソーシャルを形成するわけではないということだ。優しく繊細なチャーリーも、不安に苛まれると、偏見にすがってしまう。そしてその感情は、批判されればされるほど、増幅する。

キンキーブーツでは、そうした人間の影の側面を見事にあぶり出している。

シンディ・ローパー
シンディ・ローパー
Bruce Glikas via Getty Images

「不安な笑い」は伝染する

記者たちやドンの笑いは、決して喜びや幸せを体現していない。それらとは真逆の、不安の兆候なのではないだろうか。

そして、この「不安な笑い」は、公の場で乱発されると「伝染」するようだ。

というのも、私がこれまでに足を運んだいくつかの公演では、多くを女性が占める客席の一部からも「不可解な笑い」が起きていたからだ。

例えば、4月20日夜の回では、前述したローラが男性服を着て登場した瞬間、ドンの薄笑いに誘発されたかのように、相当数の客から笑い声が上がった。

直後、ローラは工員にトイレの場所を尋ねるが、ドンに「男性用と女性用しかない」となじられ、たまらず逃げ込んでしまう。追おうとしたチャーリーが、男性用と女性用のどちらに逃げ込んだのか迷う場面があるのだが、ここでクスクス笑いが漏れたことは、とりわけ初演時では1度、2度の話ではなかった。

最大限の想像力を働かせてみるならば、笑った人たちは、実はローラのことを「女装癖のお方」としてしか認識していないのではないか。いわゆる「オネエ系タレント」が、性別や性的指向にかかわることをネタにしたり、されたりするのを笑って眺める感覚と言い換えてもいいかもしれない。

きっと、何となく、誘われるように笑ってしまうのだろう。

私だって、別の局面では、この「誰も幸せにしない笑い」を浮かべながら誰かを排除していることがあるのかもしれない。

Plume Creative via Getty Images

三浦春馬演じるローラの笑顔が眩しい理由

「怯えてるのね 私があなた 映す鏡だから」

ローラが終盤で歌うナンバー「Hold Me in Your Heart」は、そんな客席を含む全体を包み込む、アンサーソングになっていると思う。

三浦さん演じるローラの優しく、遊び心に満ちた笑顔の奥底には、「主流」を自任する人たちから虐げられてきた過去が確かに存在している。むしろ、「はみ出している」と常に眼差されてきたからこそ、はみ出せない人の辛さにも寛大になれるのだ。

ローラは、正反対の存在に見えるドンのことも理解し、変える。その「笑顔」が象徴するのは、共感、寛容、冒険――。「排除」を生む乾いた笑いとは対照的だ。不安を受け入れ、たくましさと温かさに昇華する。そこにはもう、男らしさも女らしさも関係ない。だからこそ、底抜けに眩しいのだ。

この作品は一言でいうと「ハッピー」で、最初から最後までとにかく楽しい。シリアスな場面も、その余韻は残しつつ、次の場面へとテンポよく展開していく。クライマックスでは観客も全員立ち上がり、踊り出し、一体になって「Just be beautiful!」と歌い上げるのがもはや恒例の風景になった。

でも、ノリよく踊れば現実が変わるわけではないことに、そろそろ私たちは自覚的になるべきではないだろうか。

ローラも初め「ドンみたいな奴がいるから田舎とはおさらばした」と言っていた。私も正直、分かり合う前に立ち去る選択をしたくなってしまうことの方が多い。でも、そうして殻に閉じこもっていったら、私たちは敵をつくることで築いた脆すぎるつながりを、怯えながら守っていくことしかできなくなってしまう。

互いを一人の人間として見直して、自分の信じてきたものから「はみ出すもの」も受け入れる。キンキーブーツという作品を見たとき、私たち観客がもれなく幸せな気持ちになれのは、「世界を変えるために、まず自らが変わる」という最も難しく、時に痛みを伴う作業を「やってのけた先」の景色を見せてくれるからだ。

本作のメッセージが、客席にも、その外側にも、広く深く、伝わってほしいと願う。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko

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