昭和天皇と単独会見した伝説のジャーナリスト、バーナード・クリッシャーを悼む

ジャーナリズムの先達は戦後の日本と寄り添って多くの会見記を残し、天皇の代替わりの時に逝った。

東京・丸の内の日本外国特派員協会で5月16日夕、バーナード・クリッシャー氏を偲ぶ会が催された。かつての日本に駐在する外国人記者の間で「ミスター・ジャパン」と呼ばれ、赴任したら「クリッシャーに会いに行け」と言われたジャーナリスト。昭和天皇に単独インタビューした米国人記者といえば、覚えている人もいるだろう。

東京の自宅で気分が悪くなり、3月5日に心不全で死亡したクリッシャー氏の訃報は、米国ニューヨークでの葬儀が終わった後の3月18日、カンボジア・デイリーが配信した。1993年に同氏が創刊した日刊紙は同国政府の圧力で17年9月に印刷から撤退したもののウエブでの発信を続けている。

ドナルド・キーン氏との落差

私は翌日、日本の新聞で死亡記事を探したが、朝日新聞の国際面に246字のべた記事が載っているだけだった。(以下)

バーナード・クリッシャーさん (元米ニューズウィーク誌東京支局長・英字紙カンボジア・デイリー創始者)。5日、東京都内の病院で死去、87歳。
ナチスの迫害から逃れて故郷ドイツから米国に渡り、ジャーナリストとして活動。ニューズウィーク誌東京支局長だった1975年には、昭和天皇への単独インタビューを行った。カンボジアのシアヌーク前国王との親交が縁で、93年にカンボジア初の英字紙カンボジア・デイリーを創刊(17年9月に廃刊)。学校の建設などを通して、内戦後のカンボジア復興にも尽力した。(ハノイ)

扱いがあまりに悪いと感じて他紙を広げたが、アジア関連の報道に力を入れているはずの日経をはじめ、私が目を通した範囲では記事そのものがどこにも見当たらなかった。

新聞の扱いが当を失しているのではないか、と感じたのは、2月24日に亡くなったドナルド・キーン氏の取り上げ方との落差があまりに大きかったからでもある。確かに日本文学研究の世界でキーン氏の業績は際立っている。各紙は一面をはじめ、多くの面で訃報を展開し、社説を掲載する新聞もあった。他方クリッシャー氏が戦後日本のジャーナリズム界に残した足跡も相当なものだ。それを同業者や新聞社がほとんど無視するとはどうしたことか。生前多少縁のあった私がこの文章を書こうかと思いたったきっかけである。

ちなみに米コロンビア大学で「キーンさんは私の日本語の先生だった。彼のようにはうまくならなかったけれどね」とご本人から聞いていたから余計にそう感じたのかもしれない。

佐藤栄作首相へのインタビュー
佐藤栄作首相へのインタビュー
遺族提供
田中角栄首相との会見
田中角栄首相との会見
遺族提供

総理からやくざまで、絢爛たる会見実績

クリッシャー氏がニューズウィーク誌などに掲載した単独会見記事はもちろん昭和天皇に限らない。政治家でいえば佐藤栄作、福田赳夫、田中角栄、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘、宮澤喜一ら歴代総理、経済関係では盛田昭夫、土光敏夫、大来佐武郎各氏、三島由紀夫、川端康成、安部公房、黒澤明、丹下健三、棟方志功、中根千枝、森英恵各氏ら文豪、芸術家らとも親交を結んだ。一方で広域暴力団山口組、稲川会の最高幹部らにもインタビューし、ロッキード事件の黒幕とされた児玉誉士夫氏にも渦中に会見して特ダネとした。

天皇や歴代総理から文化人、やくざまで幅広くインタビューを成功させ、報道できたのは日本に長年滞在し、ニューズウィークの東京支局長という看板を背負っていたからだという見方はあろう。確かに政治部、経済部、社会部と縦割りの組織の中で記者クラブに縛られ、2,3年に一度は持ち場を変える日本メディアの記者では、政治・経済・社会・文化を縦横かつ多彩に取材することは不可能に近いだろう。しかし、外国人だからと珍しがられて、あるいは米国に発信されるからというだけでこれほど多くの単独会見や特ダネが取れたわけではない。12歳でガリ版刷りの雑誌を自ら発刊し、ジャーナリストを文字通り天職とした記者魂が忍耐強い取材を支えていた。

1975年、昭和天皇との会見
1975年、昭和天皇との会見
遺族提供

天皇会見への根回し

昭和天皇会見をいかにしてものにしたか。その経緯を後に著書に記しているし、私も直接お聞きしたが、同業者として頭が下がる奮闘ぶりである。

天皇が初訪米するという情報を聞きおよんだ時に「単独会見をねらう」という発想がまずすごい。戦前戦後を通じて例はなく、日本人の記者のみならず、駐在していた外国人記者らもおそらくそんなことが可能だとは想像もしなかったろう。

時の官房長官や外相、蔵相らの実力者にあたり、外務省、宮内庁の高官に根回しを繰り返した。あたった関係者の数は100人近くにのぼったという。

「私のプランに賛成しないまでも、報告があがってきたら反対しないで欲しい。この話を口外しないで欲しい」

単独はまずい、共同会見にしようと画策する宮内庁を牽制し、ニューヨーク・タイムズの方が格上だろうという関係者には「新聞だと翌日は魚を包む紙になるかもしれない」。タイム誌の方が部数は多いという高官には「あちらの支局長は着任から日が浅いから事情に疎い」と説き伏せる。最後の最後になって「米国から編集長を呼んで同席させろ」という声には「それなら私は日本を去る」と言い放った。オフィスを共有していたワシントン・ポストの名物記者オーバードーファ支局長に気づかれないよう暗号でテレックスを送った・・・。単独会見に向けて障害をひとつひとつ超えていくさまはスリリングでさえある。

昔話はどれも面白かった。「三島と石原を自宅に呼んでごちそうした時、三島は参院選に出た石原をなじってね」「ずいぶんと失礼なことを聞きますな、と大平に言われたけれどそれが仕事だから」。クリッシャー氏にとって、インタビューに応じてくれた人は、主義主張が異なれど「良い人」だった。

「今太閤」としてわが世の春を謳歌していた田中角栄首相の金脈問題を追及したレポートを立花隆氏らが文藝春秋で発表したとき、発売前にゲラを入手して報じたのもクリッシャー氏だった。ワシントン・ポストなどが追随した。当時、日本の新聞社やテレビ局が雑誌の記事の後追いをする例はほとんどなく、田中金脈問題も直ちには報道されなかった。米国メディアが報じたことで日本の新聞、テレビも追随せざるをえなくなり、2か月後の田中退陣につながった。

アジアの巨星らと相次ぎ会見

取材範囲は日本にとどまらず、アジア各地に及んだ。韓国の朴正煕大統領には強権的な政治手法を質し、誘拐された金大中氏が解放させた後、大きなインタビュー記事を掲載した。その縁で金氏が大統領になったとき、クリッシャー氏は真っ先に単独会見にこぎつけた。

インドネシアのスカルノ大統領が来日した際、宿泊先の帝国ホテルに張り込み、地下アーケード街の骨董品屋で待ち構えて会見の約束を取り付けた。メディアをほとんど相手にしなかったスカルノ氏からインドネシアに招待されて滞在中、カンボジアのシアヌーク国王を紹介され、生涯の友誼を結んだ。

私が晩年のクリッシャー氏を訪ねた主な目的は、カンボジアでのNGO活動について聞くことだった。2013年、プノンペンへの旅も取材させてもらった。

「日本の精神を伝えたい」とプノンペンに立てたハチ公像の前で
「日本の精神を伝えたい」とプノンペンに立てたハチ公像の前で
柴田直治撮影

クリッシャー氏は長年の取材で培った人脈をたどって寄付を募り、カンボジア各地に病院や560の学校を建て寄付していた。170万人とされるポル・ポト派による虐殺、長い内戦で荒廃した国土の復興に力を貸してほしいとシアヌーク国王に頼まれたことがきっかけだが、こんな思いも語っていた。

「ホロコーストの生き残りである私は、ポル・ポト時代の虐殺を生き延びたカンボジア人の手助けをしたい」

ドイツ・フランクフルト生まれのユダヤ人であるクリッシャー氏は9歳の時、パリへの最終列車に乗ってナチスから逃れ、スペイン、ポルトガルを経て米国へ渡った。一家は助かったが、叔父叔母ら親族の多くはアウシュビッツの露と消えた。

「私は米国で無料の教育を受けてジャーナリストになり、良き家庭を築いて幸せな人生を歩んだ。カンボジアの子供たちにも教育を、と学校建設に精を出した」

ジャーナリズムを根付かせたいとカンボジア・デイリーを創刊したほか、欧米や日本の名著の版権を譲り受けてクメール語に訳して出版していた。カフカの「審判」、リンカーンの伝記、ハリー・ポッターやハチ公の物語に交じってドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」もあった。ナチス時代を振り返り、人はなぜ自由を捨ててファシズムに走ったかを分析した名著だ。私の大学時代には、学生の必読書のひとつとされていた。

カンボジアのフン・セン首相と
カンボジアのフン・セン首相と
遺族提供

フン・センとの因縁と裏切り

なぜ「アンネの日記」ではなく、「自由からの逃走」なのか?

カンボジアのフン・セン首相のことが念頭にあるのではないかと私は考えた。30年以上も首相の座にあるフン・セン氏は近年、反対派に圧力をかけ、NGO活動に介入するなど独裁色を一層強めていた。「せっかく選ぶ自由を手に入れたカンボジアが独裁体制に向かっていくことへの警告」の意を込めて出版したと私は勝手に解釈したのだが、クリッシャー氏の返答は「フン・センは権威主義的ではあるが、独裁者とまではいえない」だった。歴史の証人としては、大虐殺、内戦を経て荒廃しきった国を曲がりなりにも安定させ、庶民の暮らしぶりを安定させたフン・セン氏の業績を否定できなかったのだろう。

かつてフン・セン氏が来日した際の記者会見で、クリッシャー氏は「カンボジア・デイリーを検閲するか」と直接尋ね「やらない」との答えを引き出していた。以後、首相は同紙を掲げて「この新聞には間違ったことが書いてあるが、検閲はしない」と語り「報道の自由」の存在を強調していた。

ところがカンボジア政府は17年、巨額の納税突然命じることでカンボジア・デイリーの紙面を休刊に追い込んだ。翌18年の総選挙で野党の躍進が見込まれていたことから、野党党首を逮捕、解党するなどなりふり構わず権力維持を図っていたなかでのできごとだった。

娘のデボラさんによると、クリッシャー氏はこのとき、フン・セン首相の「裏切り」にとても憤っていたという。それでもデボラさんに後を任せたカンボジア・デイリーは、いま米国ワシントンに本拠を移し、新たにクメール語で発信を続け多くの読者を獲得している。

ジャーナリズムの先達は戦後の日本と寄り添って多くの会見記を残し、天皇の代替わりの時に逝った。カンボジアやミャンマーに多くの種をまき、足跡を残した。偉大なる時代の証人に合掌。

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