また「3人産め」発言と、女性議員がいなかった市と、私が貶められた言葉

ある大物議員に言われた「そーんな短いスカート履いて」という言葉。「徹底的に“女扱い“”お姉ちゃん扱い“しかしない」というそのやり方に、私はざっくりと傷ついた。
働く女性のイメージ写真
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“失言担当大臣”・桜田前オリンピック担当大臣がまたやらかした。

5月29日、自民党のパーティーで「子どもを3人くらい産むようお願いしてもらいたい」と発言したのだ。この発言には与野党問わず非難が集まり、桜田氏はその後、「子どもを安心して産み・育てやすい環境を作ることが重要だとの思いで発言した。それを押し付けたり、誰かを傷つけたりする意図はなかった」と釈明。が、自民党議員によるこの手の失言には、枚挙にいとまがない。

少し遡っても、2018年にはやはり自民党の加藤寛治議員が結婚式で「ぜひとも3人以上、子どもを産み育ててほしい」とスピーチするなどと発言して大きな批判を受けた。また、19年2月には、麻生大臣が「年寄りが悪いという変な野郎がいっぱいいるけど、子どもを産まなかった方が問題」などと発言、やはり非難を浴びた。

政治家に限らず、18年から振り返ってみても、セクハラや性差別に関する出来事は呆れるほど続いている。ざっと思い出すだけで、18年だけでも財務省事務次官のセクハラ問題、東京医大の女子一律減点問題などが続き、「#MeToo」関連では、アラーキーへの告発、また、はあちゅう氏による告発などが相次いだ。芸能界ではTOKIOのメンバーが未成年へのわいせつ疑惑で書類送検され、またその年の瀬には、広河隆一氏の性暴力問題が大きく報じられた。

そして今年は新年早々、『SPA!』の「ヤレる女子大生ランキング」に大学生たちから非難の声が上がる。同時期、大手コンビニが相次いで「エロ本」の販売をやめることを発表。そうして今年の3月から4月にかけて、性暴力を巡る裁判での無罪判決が続き、4月11日に初めての「フラワーデモ」が開催された。

このように、着実にジェンダーへの意識が高まっている中、桜田大臣はその流れをぶった斬るような「子どもを3人くらい産んで」発言をしたわけである。

が、こんなことは氷山の一角だ。最近、私が一番ショックを受けたのは、統一地方選における鹿児島県垂水市を巡るあれこれだ。なんでもこれまで女性議員が一度も誕生したことがないそうで、それは全国でも垂水市だけだという。この4月に行われた統一地方選の報道に戦慄した人も多いのではないだろうか。

それは垂水市の男性市議たちの発言。ある市議は、女性市議誕生の是非について、「期待はない、かえってやりにくいと思う」「下手な言葉を言えばセクハラ、パワハラと言われる恐れもある」などと発言。また、別の市議は、女性市議がいないデメリットについて問われると「それはない」と発言。強制的に昭和に引き戻されたような感覚に、そしてこのご時世、取材に答えてそんな発言をできてしまう男性市議の感覚に、ただただ言葉を失った。

「パリテ」などが言われる時代、女性市議が約50年間にわたり、ただの一人もいなかったことに疑問を持たずにいられる男社会に生きる男性市議たちの、暴力的なほどの残酷さ。無自覚さ。この4月に行われた統一地方選は、男女の候補者数をできる限り平等にするよう求める「候補者男女均等法」の施行後、初のものだった。そこで選挙前月の3月、垂水市議会議長は朝日新聞のインタビューにて、以下のように語っている(朝日新聞2019年3月8日 男女均等 政治では? 「女性ゼロ 弊害は感じない」)。

「『男尊女卑がある』とか『封建的な土地柄だ』とか指摘を受けますが、そんなことは絶対にない。たまたま誕生していないだけ」

「女性議員がいない弊害を感じたことはありません」

「女性議員の発言に気付かされることはあるかもしれないですけど、間近で聞いたことがないので」

「市役所でも、女性が課長以上の役職に就いたことがありません。役所からは『何度も打診はしているけど、断られる』と聞きました。議会で質問を受けるのが大変というのが理由で、『課長になりたくない』という人は男性にもいます」

「昨年、候補者男女均等法が成立しましたが、私としては、昔から男女平等だと思うのに、女性の背中を押そうという法律ができることは不思議です。女性も被選挙権があるので自分で勝ち抜けばいい。女性議員がここまで生まれてこなかったのは、本当にたまたまだと言いたいわけです」

このようなインタビューを読むにつけ、日本社会は「男の、男による、男のための社会」なんだなと遠い目になってしまう。しかし、これを読んで「まったくその通り、何が問題なの?」という人たちがいることもわかっている。そのような人にどんな言葉で何を言えばいいのだろう、とずっと思っている。

例えば、女性が課長になりたくないことについて。「本人が断ってるんだから仕方ない」という声はもちろんあるだろう。が、断る理由は本当に「議会で質問を受けるのが大変」だからなのだろうか。それだけなのだろうか。もしかしたら、他にも男性モデルの働き方しかないとか、女性に負担が集中しがちな家事や子育て、介護と両立できる働き方を提示していないとか、そんな理由があるのではないだろうか。そしてそのような、「なぜ女性が断るのか」を、より深く考えるのが市議の仕事ではないのだろうか?

また、「女性も自分で勝ち抜けばいい」という自己責任論的な言い方にも大きな疑問を感じる。立候補というスタートラインに立つことさえ、男女は決して平等ではないからだ。「女のくせに」という声が身内から上がることもあれば、家事や子育て、介護などを理由に立候補を断念するよう説得される確率は圧倒的に女性の方が高い。ただ単に、自分が女だったら、と考えてみればいいだけの話だ。男性と違い、多くの障害が立ちはだかることに気づくだろう。その意味で、やっぱり決して対等ではないと思うのだ。この非対称性について、「もともと平等だ」と言えてしまう男性は、あまりにも鈍感だ。

さて、今回は桜田前大臣の発言が問題となったわけだが、07年には柳沢厚労大臣(当時)の「女性は産む機械」発言があった。それより以前には、「もっと子どもを産み育てろ」などと政治家が発言しても特に問題にすらならないという時代もあった。そういう意味では、少しは進歩しているのかもしれない。だけど、三歩進んで二歩下がるくらいに、歩みは遅々として進まない。なぜ、この手のことに私はいちいち傷つくのだろう。そう考えて、思った。

それは、一部の男性の中に、「女性は一緒に社会を作っていく主権者」という発想がないからで、そのことに、私は深く傷ついているのだ。働き、納税もし、教育も受けているのに、時に女は「女だから」という理由だけで発言権がない。主権者に、カウントされていない。それは「人」としてカウントされないのと同じことだ。

そんなことを考えるたびに思い出すことがある。それはある場所で、ある自民党の大物議員と一緒になった時のこと。私は野党の女性議員と一緒で、彼女は私をその大物議員に紹介した。「貧困問題を追及している作家で活動家の雨宮さん」というような形で紹介された私は、平気な顔をしながらも、内心、身構えていた。国に対して、これまで散々辛辣な意見を言い、政権批判もしてきたからだ。

たまたま居合わせたその場でその大物議員に何かを言おうという気はなかったけれど、それまで自民党議員に会った際、一方的に持論を展開されて貧困は自己責任、というような言い方をされることもあったので、何か言われたらすぐに反論しなくては、と身構えたのだ。しかし、その大物議員はずーっとニヤニヤしながら私の全身をジロジロ見ていて、私が「はじめまして」と挨拶したのにも答えずにずーっとニヤニヤしていて、そして一言、言った。

「そーんな短いスカート履いて」

予想外の言葉にポカンとしつつ、頭が真っ白になった。同時に、ものすごい屈辱を感じた。は? おっさん何言ってんの? と言いたかったけれど、ぐっと堪えた。

それからその大物議員は、私と一言も話さなかった。その時は移動中で、かなりの時間を一緒にいなければならなかったのに。

あれから、数年。ずーっともやもやしていたけれど、今、思う。あの発言は、大物議員の口からポロッと出たものなんかじゃなく、わざと言ったのだろうと。彼の中で、その手の物言いが、ニヤニヤ笑いが、そして無遠慮に全身を見る目線が、「物言う女」をくじく常套手段だったのではないだろうか。なぜなら、私はその一言で、自分がこれまでやってきた活動すべてが否定された気がした。お前なんか、「女」という「賑やかし要員」で、そもそも「物言う存在」として、一人の人間としてなんてカウントしてないんだからな、という言葉に聞こえた。真正面から活動や言論について否定されることしか経験のなかった私は、「そもそも人として認めない」「徹底的に”女扱い””お姉ちゃん扱い”しかしない」というやり方に、ざっくりと傷ついた(高齢のその議員から見れば、当時30代後半の私でも”お姉ちゃん”枠に入るはず)。貶められた、という言葉がぴったりだった。

そんな人が今も権力のかなりトップの方にいる。この国が変わるのには、まだまだ時間がかかるのかもしれない。だけど、確実に潮目は変わっている。4月の統一地方選では、垂水市に初めての女性市議も誕生したのだ。

この夏の選挙で、女性議員はどれくらい増えるだろう。その点も、しっかりと、チェックしていきたい。

本記事は、2019年6月5日のマガジン9掲載記事

より転載しました。

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