中国のLGBT運動はどのように広がっていったのか? 北京LGBTセンター事務局長・辛穎さんは語る

同性愛が「犯罪」「病気」とみなされてきた中国の歴史は変わりつつある。だが、LGBTに対して厳しい環境は依然として続く。
辛穎(シンイン)さんの講演会「1995世界女性会議の後 中国LGBT運動は野火のように拡がった」のポスター
辛穎(シンイン)さんの講演会「1995世界女性会議の後 中国LGBT運動は野火のように拡がった」のポスター
ふぇみゼミ提供

台湾では同性婚を認める特別法が可決され、5月24日から、アジアで初めて同性カップルの結婚登録がスタートした。

一方日本では、同性婚を認めないのは、憲法が保障する「婚姻の自由」や「法の下の平等」に反するとして、2月に全国各地の同性カップル13組が国を相手取り、損賠賠償を求めて一斉提訴。現在、各地で口頭弁論が行われている。

各国がそれぞれのスピードで、同性婚を求めたり、性的マイノリティ(LGBT)の人への差別や偏見をなくしたりする活動を進めている。

同じアジアの中国では、LGBTの人たちの権利はどのように考えられているのだろうか。

ジェンダーやフェミニズムについて考え、実践している研究者たちのグループ「ふぇみゼミ」企画で、 北京LGBTセンター事務局長・辛穎(シンイン)さんによる講演会「1995世界女性会議の後 中国LGBT運動は野火のように拡がった」が行われた。

中国におけるLGBT運動発展の歴史とは…。辛穎さんのトークをレポートする。

日本には「LGBT」を意味する日本語はあるか?

まずは自己紹介からしたいと思います。私は辛穎と言いますが、中国のLGBTコミュニティの人たちは私を小鉄(シャオティエ)というアクティビストネームで呼びます。北京LGBTセンターのディレクター(事務局長)であり、中国のフェミニストでもあります。

生理学的な性別は女性であり、性的指向はパンセクシュアル(どんな性別の人も対象)です。

日本には「LGBT」意味する日本語はありますか? 中国語ではLGBTを「同志」と言います。香港の劇作家、エッセイストである林奕華(エドワード・ラム)が、1989年に行われた第一回香港レズビアン&ゲイ映画祭で、同性愛のことを「同志」と名付けたのがはじまりです。

そもそもは、ソ連から入ってきた言葉で、社会主義の革命の中で一緒に戦う仲間の絆を表しています。林奕華がこの言葉を「LGBT」の中国語訳に当てはめた理由は、比較的大衆が受け入れやすく、中国国内で当時同性愛という言葉が持っていた病理化されたイメージがないことです。

さらに、「革命未だ成らず、同志なお努力すべし」(革命尚未成功 同志仍須努力)という言葉がありますが、多くの人にLGBT運動へ参加してほしいというメッセージ性もあります。

同性愛のことを中国語では「同性恋」といいます。これは1919年の「五四運動」の時期に、日本社会から中国に逆輸入された「同性愛」という言葉が転じたものです。清代の小説集『聊齋志異』には女性同性愛のストーリーがあります。ですから、中国では歴史的に「同性愛を語ること」がずっと禁じられていたというイメージをもっている人も多いですが、それは間違いです。

北京LGBTセンター事務局長・辛穎(シンイン)さん
北京LGBTセンター事務局長・辛穎(シンイン)さん
ハフポスト日本版

中国のLGBT運動は1980年代に本格化

その一方で、世界的にあったことですが、中国でも同性愛が「犯罪」そして「病気」とみなされてきた歴史があります。

1984年に流氓(りゅうぼう)罪が制定され、男性同士の性行為も犯罪とされました。1997年になるまで同性愛は犯罪者扱いをされ続けていました。

また中国の精神疾患の診断基準である「CCMD」の1989年に発表された第二版では、同性愛は治療を必要とする病気であるという内容が組み込まれています。これは2001年のCCMD第三版で同性愛の一部が脱病理化されるまで続いていました(現在でもトランスジェンダーは病理化されている)。

そんな中で、1983年に中国で初めての性別適合手術が行われ、1989年に前述の第一回香港レズビアン&ゲイ映画祭が行われ「同志」という言葉が生まれたわけです。

中国のLGBTの権利発展の歴史についてご説明する前に、中国におけるLGBTに対するイメージを象徴するような、私のストーリーをお話ししたいと思います。2012年に北京LGBTセンターで仕事を始めたばかりの頃の私は、同時に中国女性映画祭の共同創始者も務めていました。

そんな時に実家に里帰りをしたところ、母に「お願いだから、正直に話してちょうだい。北京であなたは何の仕事をしているの?」と聞かれました。ですが私はすでに、家族に自分の性的指向をカミングアウトし、北京LGBTセンターで仕事をしていたにもかかわらずです。なんと、母は私に「あなた、もしかしたら北京で同性愛のAVを撮っているんじゃないの?」と言ったのです。私はふざけて「お母さんは、私は監督だと思うの?それとも出演者だと思うの?」と逆に質問しました。そうしたら母は、「黙りなさい!」と怒ってしまいましたが。

何で母親がこんなこと言うんだろう? 不思議に思いましたが、母親世代の中国人は同性愛=変態だと思っていて、精神的な障害であり、犯罪でもあると考えるものなのです。だから、自分の子どもが同性愛であると親が聞いたら「この子の人生はとても苦しいものになるだろう」と思ってしまいます。

このような社会の反応を変えるには、非常に長い時間がかかります。中国のLGBT運動は、1990年代から本格的にはじまります。その大きな分水嶺になったのは、1995年に北京で行われた世界女性会議です。この時、同時に中国の懐柔区でNGOフォーラムが開催されました。

当時の中国ではLGBTは資本主義の思想の産物であり、国内には存在しないと考えられていました。そのうえ、それまで行われていた中国のLGBTをめぐる議論は専門家主導で公衆衛生の観点からのものでした。

しかし世界女性会議とNGOフォーラムによって中国のレズビアンは国際社会に触れ、レズビアン当事者が自分たちでグループを作るNGOを知りました。そしてレズビアン・ライツは公衆衛生の観点ではなく、人権の観点から語られるようになります。その後、世界女性会議に参加した人たちが自分たちのレズビアンやフェミニストのグループを作り、中国の市民社会を変える主体になっていきます。

ですから、中国のLGBT運動はその当初から、フェミニズムと密接な関係を持っていました。私自身も、以前、若手フェミニストの行動派(アクティビスト派)と呼ばれる人たちのアクションやパフォーマンスによく参加しました。

もちろん、フェミニズムとLGBT運動の間には矛盾もあり、実は、多くの現在の行動派のフェミニストはLBT(レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー)だったのですが、フェミニズムを語る時、そのアイデンティティはあまり表には出てこなかったのです。また、LGBT運動の中でも、時にフェミニストは過激だという偏見がありました。

北京LGBTセンターサイトのトップページ
北京LGBTセンターサイトのトップページ
北京LGBTセンター事務局公式HPより

2001年、一部の同性愛が脱病理化される

1997年に流氓罪が撤廃されます。そこに1994年以降のインターネットが発展の流れが加わり、LGBTの人たちが交流できるネット上の掲示板が作られてきます。

そもそも、中国は、例えば90年代は中国人、外国人問わず自由にホテルに部屋をとることができないなど、ずっと公共空間が制限をされてきました。そのため、LGBTの人たちは、お互いに出会うことができませんでした(男性同性愛者は公園やトイレで出会うケースもあったけれど、女性同性愛者の出会いの場は、公共空間にほぼなかった)。

しかし、こうしたLGBTの人たちが出会い、交流する場所として掲示板が生まれました。また、同じ頃さまざまな団体が作られ、1998年の世界華人LGBT大会(香港)、全国LGBT会議(大覚寺)といった集まりも開催されるようになっていきました。

そして2000年には中国公安部が「性別を選ぶのが公民の個人の権利だ」と宣言します。これはつまり性別適合手術を受けたら、身分証明書上でその性別を変えることができるようになったということです。

2001年に一部の同性愛が脱病理化され、メディアでもLGBTに関するイシューが取り上げられるようになることで、LGBTの可視化がより進みます。2003年にはHIVに関する一つの報告のなかで、政府が中国にも男性同性愛者がいることを公式に認めるに至ります。中国のLGBT研究の第一人者である、李銀河さんが初めて中国で同性婚の議論をはじめたのも、この年です。

ただ、中国は性に対して否定的な文化があります。同性愛に限ったことではなく、セクシュアルなことは1対1でなければならないし、婚姻の中になければならず、お金を払ってはならないという昔ながらの考えが根付いていました。当時は性教育も行われていなかった。だから李銀河さんが同性婚の議論をはじめたときは、昔ながらの考えに縛られた人が多く、婚姻の平等をきちんと議論する土壌がまだ育っていなかったと言えるでしょう。

この時期になるとSNSがさらに発展してきます。当事者たちがSNSで出会い、組織化されていき、設立された団体、グループの情報交換も盛んになっていきました。この段階で、中国におけるLGBTの可視化はとても進み、2005年に中国中央テレビが真正面から同性愛について報道するまでになったのです。さらにLBTに意義のあることとして、2007年には、華人ララ連盟(ララとはレズビアン、もしくは非男性のセクシュアルマイノリティのこと)ができ、アメリカ、台湾、香港、中国などを含めた中華系のLBTが共に議論し、多くのアクティビストを育てるようになります。

2028年までには、中国でも婚姻の平等を

その後、専門性開拓の段階に入ります。2013年に長沙で中国初のLGBTパレードが行われる(主宰者は後に拘留)など、中国のLGBT運動は発展していきます。そうした流れを受けて、LGBT運動にも変化が出てきます。それぞれの団体が専門化するようになります。

例えばある団体は、活動の内容をLGBTに対するDVに特化し、ある団体は学校の中での多様な性について活動するといったように。ともに活動していくパートナーもジェンダー・セクシュアリティの学者だけではなく、弁護士、カウンセラー、学校の先生、企業など多様化していきました。

しかし2015年にさまざまなことが起こります。例えば、大学の教科書に不満を持ったレズビアンの学生・秋白(チョウバイ)が中華人民共和国教育省を訴えたり、クイアの映画監督・范坡坡(ファンポウポウ)が国家新聞出版広電総局(テレビや放送の審査をする部署)を訴えたりといったセクシュアリティに関する訴訟がたくさん起きました。それに行動派のフェミニスト5人姉妹の逮捕がありました。

この頃から、法律面での戦いも含めて、LGBTの活動が圧縮されていきました。私たちも、運動の方針を研究や調査をもとに正しい意見を発信することに切り替えました。

そして2017年から現在にいたるまで、中国ではLGBT運動に対するメディアの規制が厳しくなりました。バックラッシュの潮流が激しくなってきています。若者のなかには理解のある人が増えていますが、中国社会はいま、メディアを中心にLGBTに対してフレンドリーとは言えません。

国内メディアはLGBTの話題を検閲するようになっています。2018年、中国版のツイッター「Weibo(ウェイボー)」がLGBT、特に同性愛に関する性的な内容の投稿は削除していく方針を決めるという出来事が起こります。

しかしこれは、LGBT運動にとってはチャンスにもなりました。若い世代のアクティビストがとても主体的に活動し、この方針が出されて72時間以内に、大規模な抗議運動をインターネット上で展開。発表72時間後に、Weiboはこの方針を取り下げざるを得なくなったのです。

一方、バックラッシュのなかにあっても、昨年から広東省では性の多様性を視野に入れた性教育が行われるようになったり、教育部のいじめをなくす取り組みにSOGIの視点を入れるべきだという議論が出ています。

残念ながら、現在でも中国ではトランスジェンダーの脱病理化はされていませんが、2018年に6月18日に世界保健機関(WHO)が「国際疾病分類」最新版(ICD-11)を発表し、性同一性障害を「精神疾患」から外した流れを受けて、中国でもトランスジェンダーの脱病理化が完全に果たされることでしょう。

おそらく10年のうちに日本やベトナムなどアジアのさまざまな国で婚姻の平等が実現されていくと思います。だから、私たちは2028年までには、中国で婚姻の平等を実現することを目標に据えています。

中国でカミングアウトしている人は、たった5%

これまで中国で展開されてきたLGBT運動は草の根のもので、お金があったり、権力がある人は、自分がLGBT当事者であることを表明したがりませんでした。現在、中国において日常生活でカミングアウトしているのは、たったの5%にすぎません。職場でカミングアウトしている人は、そのうちの5.1%です。ですから私たちはすべての人たちが生活空間で権利を保障されるようにしていかなければならない。もちろん恵まれた人たちもカミングアウトして、是非私たちの活動に参加してほしい。

2014年以降、LGBT運動をめぐる環境が悪くなる中で、私たちが今すべきことはコミュニティを深く耕して、社会を変える運動に多くの人が参加できる環境を作ることだと考えています。すべての人が自分の価値、自らが他者に影響を与える可能性に目を向け、市民としての権利を持っていると信じる必要があります。それでこそ自分を信じて、私たちの運動に関心のない人や敵を仲間にしていくことができます。

私たち全員の心の中に恐怖があります。恐怖は、傷ついたり、差別を受けたりした経験から生まれるものです。でも自分自身の価値や可能性を見つめれば、他の人と手を取って社会を変えることができると思えるようになるはず。

ですから私は、いつかプライドパレードのレインボーフラッグが中国すべての道を埋め尽くす日がくると信じています。性的指向や性自認がどうであろうが、どのような性表現をしていようが、どんな姿でも、大人であってもなくても、みんな平等な権利を持っています。

私たちの社会は差別に満ちた世界です。そのスタート地点は私たちが選ぶことはできません。でもゴールは選ぶことができます。私たちが目指すゴールは、平等な社会なのです。

注目記事