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2019年07月02日 08時18分 JST | 更新 2019年07月02日 09時44分 JST

「だって、わたしは“できない子”だから」。異国の地で心が折れていた頃の私へ

「できない」現実に傷ついたときこそ、自分が「できる」ことに目を向けて、自分の可能性を諦めない。

Hinterhaus Productions via Getty Images
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無邪気に調子に乗れていた大学生時代

わたしはわりと、器用なほうだと思う。小学校の頃からある程度勉強ができたし、楽器をもてば「飲み込みが早い」といわれたし、スポーツをやっていないのに運動会ではリレーの選手になったりした。

 一流になれない程度の器用さではあったけど、それでも大きな挫折をすることなく20歳になった。

 大学3年生。ドイツ留学の切符を手にしたわたしは、あこがれのヨーロッパでの生活を思い描いて、期待に胸を膨らませていた。みんなが「いいなぁ」「カッコいい」なんて言ってくれるから、わたしも「いいだろう、カッコいいだろう」と思っていた。端的にいえば、調子に乗っていたのである。

 留学中は、とにかくマジメにドイツ語を勉強した。何冊ものマイ・単語帳ができあがり、「いままで会ったどの留学生よりドイツ語が上手」と何回言われたかわからない。端的にいえば、調子に乗っていたのである。

 4年生の夏に帰国し、就活せずに卒業後もう一度ドイツに戻ることを決めた。とくにやりたいことがあったわけでも、目標があったわけでもない。ただ、日本で働くよりドイツで生活したかっただけ。そんなわたしに対しまわりは「海外移住なんてすごい」と言ってくれるのだから、満更でもない。端的にいえば、調子に乗っていたのである。

そう、わたしは調子に乗っていた。

 苦労や挫折なんてたいして知らなかったわたしは、大学卒業後にドイツに移住し、現実を知ることとなる。

 

人生ではじめて「劣等生」になったわたしは、大学を辞めた

 留学生というのはあくまで、「海外から来た期間限定のお客さん」だ。だからみんな優しくしてくれるし、困ったら大学に相談すればいい。

 でも卒業後にドイツに移住したわたしは、ただのひとりの人間。外国人だからって、みんなが特別に配慮してくれるわけではない。

 半年間のワーキングホリデーを経てドイツの大学に入学したけれど、留学時代とはまったくちがうその環境に、心がぽっきりと折れた。

 ゼミの議論で手を上げられない。テストで問題自体がわからない。資料を音読したときに人名の読み方をまちがえる。

 大学に入学できるくらいのドイツ語力はあったが、語学テストの点と現実的なスキルはちがう。そのギャップに戸惑い、落ち込んだ。「ドイツ語力は足りているはずなのに、なんで自分はできないんだ」と。

 そこで「わたしは外国人だから、語学力のハンデがあるのはしかたない」と思えればよかったのだが、そうは思えなかった。

 あんなにがんばって勉強して、「ドイツ語がじょうずだね」と言われていたのに。それなのになんで、思うようにいかないんだろう。

 なによりつらかったのは、しっかりと勉強したわたしより遊んでばっかりのドイツ人のほうがテストの点数がよかったり、グループワークではそれとなくかんたんな作業がまわってきたりしたことだ。

 わたしはたくさん勉強したのに。できない子なんかじゃないのに。そう言いたいけど、実際ネイティブと同じようにはできないのだからなにも言えない。

 自尊心が傷つく一方で、「生まれも育ちもドイツのドイツ人に対して嫉妬してもしょうがない」という気持ちもあった。そして、だからこそ「なんでそう割り切って、がんばれないんだろう」とさらに気落ちする。

 まわりには、わたしよりドイツ語ができずとも、目標に向かって努力する外国人学生もいた。なんでわたしは、そうなれないんだろう。

 そんなこんなで、結局、大学を辞めた。

 

自分はなにもできないんだ、と自信喪失

 

その後わたしは、すっかり自信を失ってしまった。カフェでバイトをはじめるものの、ドイツ語で他人と話すのがイヤで、積極的に人とかかわろうとしなかった。だって、わたしは「できない子」だから。

 本来自分でできるような手続きも、「まちがってしまうんじゃ」と思って、当時付き合っていたドイツ人パートナーにいちいち確認をお願いした。役所からの電話も、誤解してトラブルになるのが怖くてメールで返信。そうやっておびえる自分がバカみたいで、気はふさぐばかり。

 留学中は「ドイツ語がじょうずだね」と言われたら素直に喜べていたのに、褒められても「どうせ社交辞令だろうな……」と素直に受け入れられない。留学生のときはどんどん質問できていたのに、他人の目が怖くて「それってどういう意味?」と無邪気に聞けない。

 ネイティブに囲まれ、まわりはみんなできるのに自分だけができないというのは、精神的にかなりきつかった。しかも努力ですぐにどうこうできる問題ではないから、なおさらどうしようもない。

 受け入れるしかないのに、受け入れられない。そのあいだに立つわたしは、長いこと苦悩していた。

 それでもいまなおドイツに住み続けているのは、「できないことに引きずられて、できることを見失わないようにしよう」という、自分なりにひとつの答えを見つけたからだ。

 

劣等感と向き合うために、できない自分に引きずられない

 一度「自分はできないんだ」という沼にはまってしまうと、すべてダメな気がしてしまう。なにもできない、自分じゃムリなんだ、どうしてこんなこともできないんだ。そう思う。

 でも落ち着いて考えてみると、「なにもできない」なんてことはない。だれにだって、「できること」はあるのだ。

 自信を失っていたとき、なんでもかんでもネイティブであるドイツ人パートナーに相談していた。「これであっているか」「代わりにやってくれないか」と。

 そのとき彼は「自分でもできるだろう」と言っていたけど、わたしは「外国人の苦労も知らないで!」と完全に腐っていた。

 でもそういうもののなかに、自分のドイツ語能力でもこなせる手続きや連絡はたしかにあった。失敗したくないから、どうせできないからと弱気になって、「怖いからやらない」「できない」と逃げてしまっていたのだ。

 たしかにわたしのドイツ語はネイティブには到底及ばないし、外国人のなかでも際立って秀でているわけではない。でも現地の大学に入学できるくらいのレベルではあるんだから、ある程度のことは自力でできるはず。

 ドイツ語で統計や法律の授業で発言するのはしんどかったけど、しっかり予習すれば講義内容はちゃんと理解できたのだ。それなのに、それも全部「できない」と思ってしまった。まずはできることをやればよかっただけなのに。

 劣等感により自信を失うことの厄介さは、「できることもできないと思ってしまう」ところだと思う。

「できない」現実に傷ついたときこそ、自分が「できる」ことに目を向けて、自分の可能性を諦めない。そういうふうに考えられるようになってからは、ずいぶん気持ちが楽になった。

 大丈夫、できることをちゃんと丁寧にやっていこう。そして余裕があるときに、できないことをできることにする努力をしていこう。

 そうやって、定期的に突きつけられる「ノンネイティブのできない自分」という現実を受け止めつつ、なんやかんや楽しくドイツで暮らしている。

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