「EU委員長」決定で見えた「メルケル敗北」と「マクロン勝利」

ブレグジットはEUの勢力図を変えた。「メルケル後」の時代において、欧州のリーダーはマクロンとなるのか。
BELGIUM EU COMMISSION COUNCIL
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EPA=時事

7月16日、ドイツのウルズラ・フォン・デア・ライエン国防大臣が、欧州議会によって次期EU(欧州連合)欧州委員会委員長として承認された。欧州議会選挙では候補になっていなかったダークホースが欧州理事会(European Council)によって突如候補として指名され、委員長の座を射止めたことは、アンゲラ・メルケルの弱体化、エマニュエル・マクロンの影響力の増大など、ブレグジットに伴うEU内部の力関係の変化を象徴する出来事だ。

ダークホースを推挙

フォン・デア・ライエン(60)に対する欧州メディアの評判は良い。医師の資格を持つ7児の母として、家族・高齢者・女性・青少年大臣、労働・社会大臣、国防大臣を歴任。彼女はドイツ人であると同時に、欧州人でもある。

父親エルンスト・アルブレヒト(後年のニーダーザクセン州首相)がEUの前身・EC(欧州共同体)で働いている時にブリュッセルで生まれた他、英国留学、米国滞在経験もある。このためフランス語と英語で交渉できるほどの語学力がある。

約3万人の職員を擁し、約5億人の市民の生活に大きな影響を持つEUの委員長の座に女性が就くのは初めて。ドイツ人の就任は52年ぶりだ。米国や中国と切り結び、欧州の立場を強く主張するという任務には、うってつけの国際派政治家である。

スイスの日刊紙『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング』は通常ドイツについて辛口の論評で知られるが、フォン・デア・ライエンについては「根っからの欧州人。第2次世界大戦後の良きドイツ人の典型であり、市民に対して政治をわかりやすく説明するのがうまい。EUにとっては大きなプラスだ」と珍しく褒めている。

フォン・デア・ライエンは保守中道政党「キリスト教民主同盟(CDU)」に属するが、7月16日の採決前に欧州議会で行った演説には随所にリベラルな主張をちりばめ、左派勢力の心をひきつけようとした。

たとえば、欧州で拡大しつつある右派ポピュリスト政党に向けて、「欧州を分断しようとする勢力にとって、私は手ごわい敵だ」と述べ、断固として戦う姿勢を示した。さらに、11月1日の就任後に「欧州のためのグリーン・ディール」というキャンペーンを始めて、地球温暖化対策を加速することを約束した。彼女は、欧州市民、特に若者たちの間で気候変動対策が最大の政治的テーマとなりつつあることに配慮したのだ。加えてEU域内共通の最低賃金制度や失業保険制度の導入にも触れ、ギリシャやイタリアなどユーロ危機の後遺症に悩む南欧諸国への心遣いも忘れなかった。

フォン・デア・ライエンは、ドイツのメルケル首相の庇護を受けてきた腹心の1人だ。メルケルはフォン・デア・ライエン選出について、「ブリュッセルに良いパートナーが生まれることを嬉しく思う」と述べた。だが彼女の脳裏には無力感も去来しているはずだ。ドイツが擁立していた委員長候補だけではなく、同国が支持していた委員長の選出方式まで、フランスのマクロン大統領の強引な態度によって、なきものにされたからだ。

7月2日の欧州理事会で、EU加盟国首脳が委員長候補としてフォン・デア・ライエンを指名したことは、欧州の政界、言論界にとって青天の霹靂だった。ドイツ以外の国に住む多くの有権者はこの女性の名前を聞いた時、「一体誰だろうか」と思ったという。彼女の名前は、欧州議会選挙の選挙戦の期間中には委員長候補として全く挙がっていなかったからだ。

このダークホースの突然の推挙は、EUでドイツが主導権を握る時代が過ぎ去り、マクロンの影響力が急拡大したことをはっきりと示した。メルケルは首脳会議の席上、自分が推していた候補マンフレート・ヴェーバー(ドイツのキリスト教社会同盟=CSU)を、居並ぶ各国首脳の前でみじめにも拒絶された。かつて欧州の女帝と称されたベテラン政治家・メルケルの「レームダック化」は決定的になった。

「密室政治」と批判

この混乱の焦点となったのは、EU委員長人選のための「筆頭候補モデル」だ。EUには、2014年以来、この方式によって委員長候補を選ぶ「慣習」があった。私が「慣習」という言葉を使うのは、この方式がEUを規定する「リスボン条約」に明記されておらず、法的な拘束力を持たないからだ。EUの事実上の「憲法」であるリスボン条約は、「委員長候補については欧州理事会で加盟国首脳が決定し、欧州議会の承認を受ける。この際に欧州理事会は、欧州議会選挙の結果に配慮しなくてはならない」とだけ記している。各国首脳は選挙結果に配慮しさえすればよく、筆頭候補モデルには縛られないわけだ。

つまり2014年まで、欧州理事会つまり加盟国首脳たちは、事実上独自の判断で委員長候補を指名できた。その決定過程は不透明であり、右派ポピュリスト政党から「密室政治」と批判される原因の1つとなった。このため欧州議会の議長だったドイツのマルティン・シュルツ(社会民主党=SPD)は、この批判をかわすために2014年に筆頭候補モデルを導入し、決定過程の透明性を少しでも高めようとした。

この方式によると、欧州議会の各会派は、選挙戦が始まる前に筆頭候補を決める。欧州理事会を構成する各国首脳は、選挙で最も得票率が多かった会派の筆頭候補をEU委員長候補として指名する。欧州議会で議員の過半数が賛成すれば、筆頭候補が委員長に就任する。ジャン・クロード・ユンケル現委員長はこの方式で選ばれた。

今年5月の欧州議会選では保守中道の「欧州人民党(EPP)」グループの議席数が最も多く、2番目が社民党系の「社会民主進歩同盟(S&D)」だった。このため本来ならばEPPが事前に選んでいた筆頭候補ヴェーバーが、最有力の委員長候補だった。

マクロンが手にした「果実」

しかし問題は、欧州議会選で最も多い議席を取った会派の筆頭候補が自動的に欧州議会に推薦されるのではなく、EU加盟国首脳の合意を必要とするという点だ。つまり欧州理事会で各国首脳が反対したら、選挙の得票率が高くても委員長として推薦することができない。

フランスのマクロン大統領は、ヴェーバー指名に真っ向から反対した。その理由は「ヴェーバーは大臣の経験が1度もない上、国際政治の舞台での経験が浅い。EU委員長はフランス語に堪能であるべきだが、ヴェーバーはフランス語を話せない」というものだった。さらにハンガリーのオルバン・ヴィクトル首相など東欧諸国も、ヴェーバーを拒絶した。マクロンと東欧諸国は、議席数が2番目に多かったS&Dのオランダのフランス・ティンマーマン候補(オランダ労働党)も拒絶。東欧勢による反対の理由は、過去にティンマーマンが「ハンガリーやポーランドはEUの法治主義重視の原則に違反している」と厳しく批判し、これらの国への制裁措置を求めていたことだ。つまり各国首脳は「どちらの候補も、欧州議会で過半数を取れない」と判断した。

ドイツが重視していた筆頭候補モデルは、リスボン条約の中で法制化されていない慣習にすぎなかったので、マクロンの強引な態度はEU法の上では全く問題はない。元々マクロンはドイツ人が考え出した筆頭候補モデルについて懐疑的だった。フランスは伝統的に議会よりも、政府の独占的な権限を重視する傾向が強い。つまり筆頭候補モデルをめぐる対立は、民意を委員長人事に反映させようとしたドイツと、エリートの専制を重んじるフランスの対立でもあった。この独仏対立で、かつて欧州の女帝と呼ばれたメルケルは、一敗地にまみれた。

交渉が紛糾する中、7月2日にEU加盟国の首脳は、筆頭候補ではなかったフォン・デア・ライエン国防大臣を委員長候補として欧州議会に推薦することで合意。しかも欧州理事会の席上でフォン・デア・ライエンを推挙したのは、マクロンだった。当初ヴェーバーを推していたメルケルも、欧州理事会で過半数の確保に失敗したため、ヴェーバー擁立を断念し、フォン・デア・ライエン支援に回った。ただし、マクロンが筆頭候補モデルを事実上破壊したことに、ドイツ国内でSPDが強く抗議したため、メルケルがフォン・デア・ライエン指名に関する欧州理事会での採決で棄権するという異常な事態となった。

確かにドイツの政界では、「欧州議会選挙で最も有権者の支持が多かった会派からの委員長候補であるヴェーバーとティンマーマンがあっさり拒否され、フランス大統領のお気に入りが突然推薦されるのでは、民意が反映されない。『EUでは有権者の意見が軽視され、首脳たちによる密室政治が続いている』という不信感が市民の間で強まる」という意見が強い。

7月16日の欧州議会での採決で、747人の議員の内、フォン・デア・ライエンを選んだのは383人(51.3%)にすぎなかった。同候補が承認に必要な総議席の過半数374票をわずか9票しか上回らなかったことには、筆頭候補モデルを粉砕したマクロンら各国首脳に対する議員たちの不満と不信感が表れている。

さらにマクロンはもう1つの大きな「果実」を手にした。彼はEU委員長の座をドイツ人に与えることの引き換えとして、欧州中央銀行(ECB)の総裁にフランス人を据えることに成功した。

ドイツの経済界では、国際通貨基金(IMF)のクリスチーヌ・ラガルド専務理事がECBの総裁に就任することについて、懸念する声が強い。ECB総裁については、欧州議会の承認は不要である。これは、フランスだけでなくイタリアやギリシャなどの南欧諸国にとって大きな勝利だが、ドイツやオランダなど北部の国々にとっては、手痛い敗北だ。

ドイツの経済界では「フランス人が次期総裁になることで、マリオ・ドラギ総裁の金融緩和政策がさらに続く。フランスおよび南欧諸国は緊縮策よりも財政出動を重視しているが、今後ECBはそうした政策に理解を示すようになるだろう」という危惧を強めているからだ。ドイツでは長年にわたる低金利政策によって、銀行預金や生命保険の利率が低下し、市民の老後のための蓄えや金融機関の経営に悪影響が生じている。

弁護士資格を持つラガルドは米国の大手法律事務所ベーカー・アンド・マッケンジーで働いた経験もあるが、経済学者ではない。このためECBの通貨政策が、経済理論よりもEUの政治力学によって強い影響を受ける恐れがある。メルケル政権は同国のドイツ連邦銀行のイェンツ・ヴァイドマン総裁を推していた。ヴァイドマンは低金利政策の長期化と、ECBによる南欧諸国などの国債買取りに批判的で、緊縮策を重視することで知られていた。彼をECB総裁とすることで、低金利時代に終止符を打つというメルケル政権の目論見は水泡に帰した。

ブレグジットで変わる勢力図

「メルケル後」の時代が近づきつつある今、マクロンは自分が欧州の事実上のリーダーになることを考えている。その背景には英国のEU離脱(ブレグジット)による欧州政界の勢力図の変化がある。

ブレグジットはこれまでに比べて南欧諸国の力を強くする。EUで最も重要な意志決定機関の1つは、EU理事会(Council of the EU)だ(前述の欧州理事会とは異なる)。

EUの政策の基本方針はここで決められる。この理事会には、テーマごとに各国の財務大臣、外務大臣などが参加するので「閣僚理事会」とも呼ばれる。リスボン条約によると、2017年以降、閣僚理事会での採決には「二重の多数決」という規則が使われている。つまり採決の際に、EU加盟国の55%と人口の65%を同時に満たさなければ、議題は可決されない。これは加盟国の人口の違いに配慮するためである。これはEUの人口の35%を超える国家のグループは、あらゆる議題の通過を妨害できることを意味する。

中東欧を除くEU加盟諸国は、大きく2つの「派閥」に分けられる。1つは欧州の北部に位置する国のグループ。市場原理、自由貿易、規制緩和を重視し、国の競争力を強めるには政府の財政出動よりも民間活力を重視する国々だ。北の国々は、政府が野放図な借り入れを行い、国民にばらまくことは債務危機につながるとして、反対する。これらの国には、ドイツ、オランダ、オーストリア、フィンランド、英国が属していた。

ドイツ、オランダ、オーストリア、フィンランドはユーロ導入以前に、通称「ドイツマルク・ブロック」とも呼ばれて、閣僚理事会の採決で共同歩調を取ることで知られていた。英国もドイツと共同歩調を取ることが多かった。

逆に過度の緊縮政策に反対し、経済成長のための政府の財政出動を重んじるのが、地中海に面するフランス、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの南欧諸国だ。南の国々は、ドイツなどが求める財政緊縮に批判的で、経済を活性化するために政府が借入金を増やすのはやむを得ないと考えている。

欧州北部の国々と何宇野国々の人口比率の変化
欧州北部の国々と何宇野国々の人口比率の変化
新潮社フォーサイト
欧州北部の国々=ドイツ、オランダ、オーストリア、フィンランド、英国欧州南部の国々=イタリア、フランス、ギリシャ、スペイン、キプロス、ポルトガル、マルタ資料=EU統計局による2018年の各国の人口を基に筆者が計算筆者注=この比率は、どの国を選ぶか、またどの年の人口を使うかによって異なる。たとえばハンス・ヴェルナー・ズィン教授は、ある論文の中で「ブレグジット後には北の国の比率が35%から25%に減り、南の国の比率が36%から42%に増える」としている。しかしドイツなど北の国々が南の国々の提案をブロックする能力を失うという全体の趨勢に変わりはない。

難題山積の前途

2018年の人口で計算するとドイツや英国など北部連合の人口はEUの人口の35.1%なので、結束すればいかなる議題の通過も妨害できる。つまり南欧の国々が無理難題を求めてきても、北の国々は閣僚理事会の採決でブロックすることができた。同様にギリシャなど南部連合もEUの人口の38.1%なので、採決でのブロックが可能だ。

だがブレグジットは、ドイツなど北の国々を不利な状況に陥れる。それは、北部連合が英国を失うために、人口比率が25%に減少するからだ。逆に南部連合の比率は43.9%に増える。

要するに、閣僚理事会で南欧諸国が財政出動を容易にしたり、保護主義を強めたりする政策を要求した場合、ドイツはブレグジットにより、そうした要求をブロックすることができなくなる。過度な財政出動は公的債務や財政赤字を増やし、財政状態を悪化させる可能性がある。南欧諸国の政府が自国経済のGDP(国内総生産)増加ではなく、国債を売って借金をすることで、国民の福利を増大しようとした場合、2009年に表面化したユーロ危機が再発する恐れもある。

ドイツの経済学者ハンス・ヴェルナー・ズィン、ミュンヘン大学名誉教授は、「ブレグジット後は、北の国々が採決でブロックすることができなくなるので、南欧諸国が閣僚理事会で自分たちの主張を貫くことが可能になる。たとえばドナルド・トランプ米大統領の貿易戦争に対抗して、南欧諸国が保護主義的な政策を強めてEUを要塞のようにして自由貿易を阻害しようとするかもしれない」と警告する。ブレグジットが閣僚理事会での力関係を大きく変えることによって、南欧諸国の影響力が強まり、ドイツなど北部の国々が押し切られる場面が増えるかもしれないというのだ。ドイツの経済学者や政治家の間では、「EUの南欧化」によって財政規律が緩むことを懸念する声が多く出されている。

マクロンがEU委員長、ECB総裁の人事で見せた強引な態度の裏には、EU内部でのドイツの影響力の低下があるのだ。

フォン・デア・ライエンが7月16日の演説で、「筆頭候補モデルを強化するとともに、欧州議会が法案を提案できない現在の制度を変えて、議員たちが新しい法律を提案できるシステムを作りたい」と述べたことには、欧州議会の議員たちの不満の強さを緩和しようとする態度が感じられる。

フォン・デア・ライエンは右派ポピュリスト政党の伸長に歯止めをかけるためにも、欧州議会の影響力の強化に努めざるを得ないだろう。その他にも米国との貿易摩擦、中国の一帯一路への対応、ブレグジットによる経済への悪影響、強権的な姿勢を強めるロシアとの対立、イランの核開発問題の再燃、今後も深刻化が予想されるアフリカや中東からの難民問題、欧州諸国が人工知能といったIT(情報技術)技術などで米中に水を開けられている現状、経済のデジタル化が生む所得格差、西欧と東欧間の法治主義をめぐる価値観の対立など、難題が山積している。新委員長の前途は険しいものになるだろう。(文中敬称略)

熊谷徹 1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住ジャーナリスト。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』(SB新書)、『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。

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(2019年7月22日フォーサイトより転載)

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