トモヤ、20歳。なぜ彼は顔を出して、虐待と児童養護施設について語るのか?

母親から虐待を受けて、児童養護施設で育った20歳の若者を主人公にしたドキュメンタリー映画の撮影が始まっている。彼はなぜ顔を出して、撮影に応じたのか。
トモヤ(左)とマット・ミラー(右)
トモヤ(左)とマット・ミラー(右)
Satoru Ishido

虐待と児童養護施設

トモヤ、20歳。福島県浜通りで祖父母に育てられた。2011年、東日本大震災が発生し、津波で祖母が亡くなった。その後、数えるほどしか会ったことがなかった実の母親に引き取られた。東京で母親と新しい家族と暮らしが始まったが、それは彼にとって「安心な生活」ではなかった。

2012年6月、母親とその夫は1000円だけを残して数日間、外泊する。9月には学校の健康診断で背中にあざが見つかり、児童相談所に保護され、その後一時保護所で2ヵ月過ごす。学校の勉強をしたかったのに、何もできなかった。その後、児童養護施設に入所する。

親を失う、あるいは虐待を受けるなど「社会的養護」の対象になっている子供は4万5000人(2017年3月末時点)ほどいる。このうち、3分の2にあたる約3万人は、児童養護施設か乳児院で生活している。

彼は4万5000人の中の一人だ。今は保育士を目指して、学費を貯めるために連日、カレー屋でアルバイトに励んでいる。

私が、トモヤと出会ったのはまったくの偶然だった。アウトドアブランドのKEEN Japan本社内で、ドキュメンタリー映画撮影のためのクラウド・ファウンディングを募る記者会見イベントをやるので、ついては司会をしてほしいというオファーを受けたことがきっかけだった。

軽い気持ちで引き受けたが、件のドキュメンタリー映画『ぼくのこわれないコンパス』制作の背景は私の想像以上に興味深いものだった。

トモヤとマット・ミラー
トモヤとマット・ミラー
Satoru Ishido

長崎で孤児だった監督マット・ミラーの父

監督を務めるマット・ミラーは、アメリカ人で、父親は日本の児童養護施設で育った。父のルーツを知るために日本にやってきた。

彼の父親は、第二次世界大戦終戦後、長崎県佐世保市にやってきた米兵と日本人の女性との間に生まれた子供だった。やがて米兵は日本を離れることになったが、母親に育てるだけの余力はなかった。

ミラーの父親は孤児として佐世保に残されてしまった。

彼を引き取ったのが佐世保の児童養護施設「ワールド・ミッション・ツウ・チルドレン」の光冨栄子さんだった。彼女の回想が記録された新聞記事(毎日新聞2016年1月28日付)を読むと、スタッフは女性の宣教師も含めて4〜5人というところから始まっていた。

最初にやってきた子供は5人で、日本人が3人、米兵と日本人の間に生まれた子供が2人いた。5人は1歳半〜4歳で母親を求めて、いつも泣いていた。

アメリカで引き取り手が見つかったミラーの父親を訪ねて、光冨がアメリカまで訪ねてくることもあった。一体なぜわざわざやってくるのか不思議に思ったミラーが聞いても、父親はあまり自分の過去を語りたがらなかった。

やがて、その理由が長崎時代に受けた精神的な傷にあったことを知る。ミラーはイベントでこう語っている。

「ミックスの子供たちに対する人種差別で受けた傷が、成人後も重くのしかかっていた。10歳の時に父親は養子に迎えられたが、その後のメンタルケアは十分なサポートが得られなかったように思う。

2006年に来日して、父の足跡を辿る旅をしている間に、現在の養護施設で暮らしている子ども達の問題に気づいた。それを知って自分に何かできないかと思い立ち、ドキュメンタリーを撮ろうと思った」

養護施設で暮らす子ども達の問題とは何か。

「父も綺麗な洋服を着て生活面のケアは受けていた。しかし、心のケアを得られなかった。それは今も変わっていないのではないかと思った。トモヤに会って、多くの子どもたちに精神面のサポートが必要だと思っている」

トモヤとミラー、交錯する人生

トモヤの人生とミラーのそれが交錯したのも偶然としか言いようがないものだった。養護施設の子ども達の支援活動に関わりながら、カメラを回していたミラー。そのなかにいたのがトモヤだった。

実際、児童養護施設、そこにいる子供たちの撮影には高いハードルがある。私自身も何度か取材したが、顔や名前はプライバシー保護を理由に施設側からも当然ながらNGがでる。

どこかトモヤに惹かれるものがあったのだろう。少しずつ信頼関係を築きながら、撮影を進め、被写体になってほしいと本人にオファーした。

今のトモヤを撮影できたのは、施設を出て曲がりなりにも自立した生活を送っていること。そして、一人の大人として彼自身がOK を出したからだ。

「初めて、撮影が入るとなったのは15歳のときだったと思います。それから映画を撮るとなって、映画!って驚いた。僕は少しだけ映るという話だったけど、いつの間にか主人公になっていた(笑)」(トモヤ)

トモヤのようなケースは非常に珍しいし、実際に映像を見ても、顔と名前が出ることでしか伝わらないものがあると思った。顔に浮かぶ表情は一つ一つが強い情報であり、固有名詞は「その人」が実際にこの社会で生きていることを伝える。

彼はなぜ被写体になったのか?

カメラを通して伝えたい思いがあった。

「施設にいるときはプライバシーが守られている。虐待問題が起きて施設にいるっていう子は自分からは(その過去を)言えない。施設に入ったこと、出たあとのことも含めてどういう現状なのかを広めていきたい。僕が映画に出ることで、施設にいる子供たち、一人一人の助けにつながってほしい」とトモヤは語る。

知ってほしい現実

彼が出演を決めたのは、自分を通して、児童養護施設の現実を知ってほしいという思いからだ。強い覚悟は話していても伝わってきた。

楽屋では「言葉に詰まったらどうしよう」と緊張気味に語っていたが、トモヤはイベントでまったく動じることなく、堂々と受け答えをしていた。気持ちがこもった言葉で、一緒に登壇した私のほうが驚いた。

精神的な傷が完全に癒えることないだろうし、トモヤ自身もこれからも自分と向き合うことがあるのかもしれない。だが、彼は周囲のサポートも得て、「子どもと関わる仕事をしたい」と保育士の資格を取るという目標に向かって動き出した。

ミラーはこんなことを言っていた。

「この映画を施設にいる子どもや卒業生が見たとき、トモヤの姿を通じて、自分が壊れているわけでもなく、パーフェクトでもなく、サポートが必要なんだということを感じてほしい」

個人の自助努力よりも、必要な社会からのサポートとは何かを考えるために。トモヤとミラーの挑戦が問いかけることは多い。

注目記事