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2019年10月04日 15時31分 JST | 更新 2019年10月04日 15時31分 JST

128点差の大敗から24年。ラグビー日本代表はいかに復活したのか

オールブラックス戦の大敗は、人を変え、組織を変え、ついに日本ラグビーは飛躍した。

時事通信社
ラグビーW杯/アイルランドに勝利した日本

現在開催中のラグビーW杯で10月5日、日本代表はサモア代表と対戦します。

9月28日の試合で、世界ランク2位(当時)のアイルランドを破る「ジャイアントキリング」を見せた日本代表への期待が高まります。

いまやブレイブ・ブロッサムズ(ラグビー日本代表の愛称)は世界の強豪と堂々渡り合えるチームです(世界ランキング8位)。

しかし1995年の第3回ワールドカップで、オールブラックスに145対17で大敗したことをご存知でしょうか。

大敗は人を変え、組織を変え、ついに日本ラグビーは飛躍します。ラグビー解説者、ラグビージャーナリストの村上晃一さんに、20年の復活ストーリーを聞きました。

プロ化、戦術、本気の強敵…要因が重なり起こった大敗

―日本代表が大敗した原因は何だったのでしょうか?

1995年の第3回ワールドカップ(南アフリカ大会)は、日本代表と世界のトップチームとの実力差がもっとも大きく開いた大会でした。

ラグビーは長い間プロリーグがなく、ワールドカップにもアマチュア規定がありました。しかし90年代、強豪国ではラグビーで生活する、実質的なプロ選手が当たり前になりました。ラグビーの研究は盛んに行われ、世界の技術・戦術が急速に向上した時代です。

一方、日本はアマチュアリズムを守り、選手も監督も別の仕事とラグビーを両立していました。ワールドカップにかける意気込みも現在の日本代表とは違ったと、言わざるを得ません。

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とはいえ、100点以上も差がつく大敗は避けられたと思います。長いキックを多用して、プレーする時間を極力短くすれば、相手の得点機会も減らせます。実際にラグビーでは、力の劣るチームがそうした時間稼ぎの作戦をとることがあります。

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しかし、日本代表は安易にキックせず、むしろプレー時間をできるだけ長くとる戦い方をしました。オールブラックスと対戦できるチャンスなど滅多にありません。世界一のチームに、正面からぶつかっていったのです。

いっぽう、オールブラックスは格下の日本相手に若手中心のメンバー構成を組みました。レギュラーの座を狙う選手たちは、一切手を抜きません。本気の相手とまともに戦った結果が、あの大敗でした。 

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大敗した選手たちの直談判から改革がはじまった

―大敗が世界の力を肌で感じる機会となり、日本ラグビーはどのように復活していったのでしょうか?

ワールドカップ終了後、大敗の当事者である代表選手たちが、ラグビー協会に改革案を提出しました。世界との差を痛感したのでしょう。当時中心選手だった太田治氏らが、「このままじゃダメだ」と上層部に直談判したのです。

日本ラグビーの改革がはじまります。このころ、後に日本代表を24年ぶりの勝利に導くエディ・ジョーンズ氏を、スポットコーチとして呼び寄せています。
そして1997年、大敗を喫した南アフリカ大会の代表選手だった故・平尾誠二氏(ニュージーランド戦には出場せず)が代表監督に就任しました。平尾監督は世界でも先進的なゲーム分析、指導法をどんどん取り入れていきました。

大敗に関わった選手たちが立ち上がり、日本ラグビーを大きく動かしたのが1996〜98年の強化です。1999年の第4回ワールドカップ直前には、強豪のサモアに勝利しパシフィック・リム選手権で優勝します。世界との差が急速に縮まったことを実感しました。

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しかし、ワールドカップの初戦でサモアに完敗します。本番とテストマッチの違いを痛感しますが、真剣に強化に取り組んだからこそわかったことです。なす術ない大敗というより、「差は詰めたが届かなかった」といった負けでした。

世界が認めたブレイブ・ブロッサムズ

故・宿澤広朗氏が強化委員長に就任したことは、日本ラグビー界の大きなターニングポイントでした。1991年の第2回ワールドカップで日本を率い、初勝利を得た監督であり、エリート銀行マンとしても活躍していたスターです。宿澤氏は強力なリーダーシップで改革を進めました。

監督に向井昭吾氏を選出、選手の一部プロ化も実現しました。さらに、当時3つに分かれていた社会人リーグを統一し、ジャパンラグビートップリーグを開幕させます。

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満を持して挑んだ2003年第5回ワールドカップ。向井ジャパンは残念ながら全敗に終わります。しかし、スコットランド、フランスといった強豪に善戦し、海外メディアは日本の実力を認め始めました。「ブレイブ・ブロッサムズ(BRAVE BLOSSOMS)」=「勇敢な桜戦士」と呼び名がつけられます。

2007、2011年のワールドカップは、オールブラックスのスーパースター、ジョン・カーワン氏をヘッドコーチに招き挑み、2引き分けはしたものの勝利はなし。確実に強化は進んだ一方、まだ先があることを実感した戦いでした。

壮大にして非情!復活へと導いた世界一流のコーチング

―改めて、大敗からの復活には紆余曲折があったことがわかります。次のワールドカップで24年ぶりの勝利を、しかも優勝候補の南アフリカからもぎとります。その要因は何だったのでしょうか?

いよいよ、「日本と世界のラグビーをよく知る指導者でなければ!」との機運が高まります。白羽の矢が立ったのが、当時トップリーグでサントリーを指揮していたエディ・ジョーンズヘッドコーチです。
彼は2003年ワールドカップでオーストラリアを率い準優勝、2007年は南アフリカのテクニカル・アドバイザーとして優勝を経験するなど、世界的な指導者になっていました。

2012〜2015年の日本代表は、目覚ましい実力の伸びをみせました。「これが世界のトップコーチの仕事か」と感銘を受けたものです。 

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最初に驚かされたのは、5年間代表を離れていた廣瀬俊朗選手をキャプテンに任命したことでしょう。彼は皆の尊敬を集める人格者で、チームを引っ張ってくれる選手でした。ほかにも、就任1年目は各チームの人格者を多く招集しています。ジョーンズコーチは、まずチームのためにハードワークする文化を日本代表に根付かせました。

「メンタリティでチームの役に立つ選手がいる」というジョーンズコーチの考え方は、日本人に合っていたのかもしれません。ところが2年目からは、必ずしも人格重視ではなく、能力の高い選手を選んでいくようになります。キャプテンも廣瀬選手からリーチ・マイケル選手に交代します(交代を告げるときは、「エディさんも言いにくそうだった」と廣瀬選手は振り返っています)。

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「コーチングはアートだ」とジョーンズコーチは語っています。最後に美しい絵が完成するよう、彼が立てた緻密で壮大なプランの下、日本代表は強くなり南アフリカ相手に歴史的な勝利を遂げました。

いざ史上初のベスト8へ

エディ・ジャパンは練習の厳しいことで知られました。練習量は世界のトップクラスでしたが、選手に聞くと今のジェイミー・ジョセフヘッドコーチの練習はさらに厳しいそうです。

それは、選手が強度の高い練習に耐えられるレベルになった証左でもあります。世界のレベルも上がっているので結果はわかりませんが、史上最強の日本代表であることは確実です。

相手がオールブラックスでも南アフリカでも、本気で勝てると信じて戦うでしょう。今の選手たちに大敗のトラウマはありません。

編集部まとめ:大敗したからこそ

あの大敗は日本ラグビーにどんな意味があったか? 気になる問いは9月のワールドカップ、ジェイミー・ジャパンを応援することで、私達自身が考えていきましょう。

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24年前を振り返り、「(結果は大敗だったが)選手たちがポジティブに戦ったことは良かった」と村上さん。やり切る姿勢は私達の生活に置き換えても、貴重なヒントとなります。傷口を大きくしない慎重さも大事ですが、やり切った末の大敗で得たものなら、周囲を動かす力にも、将来の復活の糧にもなるのです。

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ラグビーW杯・1次リーグ/日本-アイルランド