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2019年10月31日 11時33分 JST | 更新 2019年11月02日 22時14分 JST

首里城の歴史を振り返る。大国の狭間で揺れた沖縄を見つめ続けた「沖縄人の心のシンボル」

史上5度目の焼失。沖縄出身の男性は「ようやく復元が終わったばかりで、本当に綺麗な城だったんです。もう見られないなんて…」とショックを語りました。

時事通信社
沖縄復帰30周年を記念して無料開放された世界遺産「首里城」(2002年5月、那覇市)

沖縄の聖地、首里城の火災は日本中に大きなショックを与えている。沖縄の人たちは大きなショックを受けている。

首里城とはどんな城だったのか。

 

首里城は、1429年から1879年までの約450年間にわたって統治が続いた琉球王国のシンボルだった。 

首里城公園の公式サイトによると、首里城は国王と家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、宗教上のネットワークの拠点としての機能も持っていた。さらには、首里城では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家も活躍。文化芸術の中心でもあったという。

 

大国の間で揺れ続けた琉球王国と首里城

鮮やかな朱色が印象的な首里城は、内郭と外郭に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術が用いられており、今回焼失した正殿や南殿、北殿にも中国と日本の建築文化の影響が見られた。

時事通信社
琉球王朝の王城だった首里城で、中国皇帝が使者を派遣して琉球国王を任命した「冊封(さっぽう)儀式」が初めて再現された。大勢の観光客が厳かに進行する儀式の様子を見守った。「冊封」は本来、中国国内で親王などを任命する制度だったが、14世紀後半から周辺諸国にも広がり始め、琉球王国では1404年の武寧王の時代から約460年間続いた(=2004年10月30日、那覇市)

 琉球王国は、1609年には薩摩藩が3000人の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠。以後、表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で形式的には独立国家として存続していた。1853年には浦賀を訪れる前のペリーが一足先に来航し、首里城を訪問している。

日本に明治政府が誕生すると、1872年には琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰 (しょうたい) が藩主となった。一方、中国(清)も、琉球王国に対する宗主権を主張。1879年、日本への首里城明け渡しとともに琉球王国は崩壊し、沖縄県が誕生した。

 

全焼は史上5度目

首里城の焼失は史上5度目となる。

1度目は1453年、王位をめぐる争いによって全焼した。2度目は1660年、3度目は1709年。再建にはそれぞれ10年以上を要した。

「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地などに利用された。1925年には首里城の正殿が国宝に指定され、昭和の大改修が行われたが、1945年の沖縄戦で焼失。戦後は跡地が琉球大学のキャンパスになったが、1992年に本土復帰20周年を記念して国営公園として復元された。

2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。「九州・沖縄サミット」では各国首脳の夕食会が開かれた。2020年の東京オリンピックの聖火リレーでは、首里城公園が出発地点となる。

毎年この時期には、首里城祭が行われている。10月27日も琉球王国時代の華やかな行列の様子が再現されるイベントが行われたばかり。琉球国王・王妃の行列をはじめ、中国皇帝の使者や伝統芸能が続き、約700人による壮観な世界が繰り広げられた。

首里城公園公式サイト
琉球王朝絵巻行列の様子

「ウチナンチュ(沖縄人)アイデンティティの象徴だった」

沖縄県名護市出身の会社員、城間恒斗さん(36)は、「朝起きて、家族や友人からもLINEが来ていてニュースを知った。言葉にならないほどショックです」と話す。

小高い丘の上に位置する首里城は、「ウチナンチュ(沖縄人)の心のシンボルで、アイデンティティの象徴だった。地元に帰って、あの綺麗な朱色を見えると心が落ち着いた」と言う。

炎に包まれる首里城を見て「沖縄戦をイメージしてしまった」と言う。

「戦争を知るおじいちゃんやおばあちゃんの気持ちを考えてしまった。30年以上かけてようやく復元が終わったばかりで、本当に綺麗な城だったんです。もう帰っても見られないなんて…」