ふたつの名字を、私が並べて書く理由。

今の私は、父親の名字も、母親の名字も、両方大切にしたいと思っている。二人がいてくれたおかげで、私が生まれることができたのである。
Vintage old red quill pen with inkwell on wooden table front gradient mint green wall background. Retro style filtered photo
BrAt_PiKaChU via Getty Images
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自分の名前をどう名乗るべきか、私はずっとわからなかった。

1982年4月吉日、生まれて7日後の私は『千代』と名付けられた。昭和50年代の日本における新生児の大半がそうであったように、私は父親の戸籍に登録された。『渡邊千代』として。

それから12年後、私の両親は離婚した。母は旧姓に戻った。私の親権は父が獲得したが、監護権は母のものとなった。学校での呼び名を変えたくないという理由から、私は自分の名字を変更することなく小学校を卒業し、中学校もそのまま過ごした。

しかし、私は母と異なる名字で生活することに違和感を感じていた。学校や塾に提出する書類の保護者欄の名を、いちいち「母です」と説明しなければならないことが嫌だった。当時父と疎遠になっていた私は、18歳になったのを期に自分の意志で自らの戸籍を変更し、母の戸籍に入り『神野千代』になった。

私の名字変更は、当時通っていた高校のクラスメイトたちから不評をかった。出席番号が変わるので、自分の新しい番号を覚えるのが面倒だというのが理由である。3年間同じクラスだったこともあり、それまでの2年間で自分の出席番号に愛着を感じていた生徒も多かった。

「卒業も近いのに、なんで今さら名字変えるの?」と尋ねられたことも多かった。「ごめんね」と私はそのたびに申し訳ない気持ちになり謝った。「どうしても変えたいの」としか言えなかった。家庭の込み入った事情を彼女らに説明する気にはなれなかった。当時、渋々ながらも新しい出席番号を受け入れてくれたクラスメイトたちに、私は今でも心から感謝している。

大学に進学して自己紹介するたび、「神野千代です」と名乗るのは新鮮な経験だった。新しく知り合う人たちが皆、私の過去を知らず、私のことを『神野さん』として受け入れていってくれることにほっとした。私自身、新しい人格を得て、自由になったように感じた。

“CHIYO KAMINO”と記されたパスポートを持って、私は世界中を旅した。海外に出ると、ファーストネームで“Chiyo!”と呼んでくれる人たちばかりだった。空港のグランドスタッフ以外、誰も私の名字など気にしないことが心地よかった。

留学先のアメリカでは、夫婦別姓を選択しているカップルも少なからずいた。何度も結婚や離婚を繰り返す人や、親の違う兄弟姉妹や、何年も連れ添って子供までいるのに籍を入れていない男女や、男女の組み合わせでない配偶者も、珍しい存在ではなかった。自分の中で長く引け目に感じていた「ふつうではない家庭」というわだかまりは、「いろいろなライフスタイルがあっていいんだ」という発見に変わっていった。

語学学校で出会ったクラスメイトには、南米から来た人が多かった。彼らは皆、長い名前を持っていた。ファーストネーム、ミドルネーム、父方の名字、母方の名字。理由を尋ねると、スペイン語圏では父方と母方の両方の名字を名乗るのが普通なのだと教えられた。

驚くと同時に「そうか、ガブリエル・ガルシア=マルケスってそういう成り立ちの名前なのか」と納得した。父と母の二人がいて自分が生まれたのだという、自らのルーツをわかりやすく認識させる文化に好感を持った。また、結婚しても自分の名字は一生変わらないというシステムは、私が経験してきたような煩雑な手続きからは無縁なように思えて羨ましく感じた。

それらの知見を得て、私の中で家族に対する価値観はゆるやかに変わっていった。また、両親の離婚から25年を経て父との関係も少しずつ改善し、長らくくすぶっていたわだかまりよりも、かつての両親の決断を許したい気持ちのほうが大きくなっていった。また、両家の祖父母が皆他界したことで、私は「家」と「名字」とを切り離して考えられるようになった。自分の名字は単なる記号に過ぎず、家督や血筋や養育費の支払い義務の象徴ではないとようやく理解できた。

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そんな中、父と旅行する機会があった。父が手配してくれた航空券の搭乗者名は、『ワタナベチヨ』になっていた。

「お父さん、チェックインの時にID確認されることあるから、名前はちゃんと『カミノチヨ』にしてよ」

何気なくそう伝えると、父は一瞬、悲しそうな顔をした。その時私はふと、生まれた時の名字に戻すべきだろうか、と考えた。

自分の名字を変えた決断を後悔したことはなかった。ただ、私が『神野千代』であり続けることは、父にとっては辛い過去を思い出させることでもあるのだと、その時初めて気づいた。

しかし、もはや『渡邊千代』よりも『神野千代』として生きて来た年月の方が長い。卒業論文も保険証も、受賞した盾に掘られた名前もフェイスブックの名前も、すべて『神野千代』だ。今さら『渡邊千代』に戻したところで、実生活上の不便が大きい。

今後日本で日本人と結婚すれば名字を変えなければならない可能性もあり、そうなった場合はさらに自分が誰だかわからなくなってしまう。結局、名前など個人を特定するためのラベルに過ぎないのだから、あまりこだわる必要はない、と私は割り切ろうとした。

しかしそれ以来、私の中で「名字」に対する疑問がたびたび頭をもたげるようになった。夫婦別姓や共同親権に関する議論が昨今盛んになってきてはいるが、私がいちばん気になるのは、それらの議論に「両親が離婚した子供の意見」がほとんど反映されていないように思えることである。

今の私は、父親の名字も、母親の名字も、両方大切にしたいと思っている。二人がいてくれたおかげで、さらに言えば父の家系と母の家系の両方が続いて来てくれたおかげで、私が生まれることができたのである。たとえ両親が婚姻関係を続けていけなくなったとしても、私が二人の遺伝子を受け継いで生まれたという事実が変わることはない。

それなのに、夫婦が離婚するや否や、片方の貢献を無視して、もう片方の所有物や製造品のように子供を扱うことに対して、私は強い抵抗を感じる。また、どちらか片方の親の名字しか選べないという現行のシステムに対して、もっと別のオプションがあれば良いのになと思っている。

そう考えた時、スペイン式の名字を羨ましく思い出した。もちろん、日本で同じようなシステムをそのまま使うのは現実的ではないとは思う。『渡邊神野千代』って、いささか長いように思えるし、画数が多すぎるので習字で名前を書く時がとても面倒そうだ。

けれどどこかで、「なんで親が離婚しただけで、私がこんなめんどくさいことに巻き込まれなきゃいけないの?」という12歳の不服が聞こえるような気がした。「私は私。名字が変わるだけで、私を愛せなくなったりお金を払わなくなったりするのって、おかしくない?」と思っていたかつての生意気な子供に対して、大人の私に何かできることはないのだろうかと考えはじめた。

「名刺に載せる名前、どうしますか?」

最近新しく名刺を作る機会があり、私は”Chiyo Watanabe Kamino”として名刺を作ってもらうことにした。私なりの、ささやかなステイトメントである。純日本人のくせに妙なラストネームを名乗る新人だが、オープンマインドな会社なので誰も大して気にも留めず、そのまま受け入れてくれている。

これまでに、名刺交換で深く突っ込まれたことはない。たまに「名字がふたつある…」と言われることもあるけれど、「そうなんです。両親の名字、両方名乗ろうと思って」と答えている。

今のところ、たいていの人はそれを面白がってくれる。そういう人が増えてくれるといいなと思う。そうすると、自分の名前に不自由さを感じている少年少女たちが、ほんの少しだけ生きやすくなるんじゃないかなと思っている。

Chiyo Watanabe Kamino「A Thousand Years」『ふたつの名字を、私が並べて書く理由。』より転載。