森達也監督に聞く『i -新聞記者ドキュメント-』であぶり出した“忖度の正体”

ひとびとが“自動忖度機”と化す日本の怪現象は、いまに始まったことではない。『放送禁止歌』から20年、「事態ははるかに進んでいる」と言う。
1980年代前半からテレビのディレクターとして、報道、ドキュメンタリーのジャンルで活動してきた森達也さん
1980年代前半からテレビのディレクターとして、報道、ドキュメンタリーのジャンルで活動してきた森達也さん
YOSHIKA SUZUKI/鈴木芳果

森友・加計学園問題、普天間基地移設問題、そして現在の「桜を見る会」問題──7年続いてきた安倍政権は、幾度も大きな疑惑を抱えてきた。その際、記者会見で官邸の防波堤としてマスコミに対峙してきたのが菅義偉官房長官だ。

そんな彼に敢然と立ち向かって注目されてきたのが、東京新聞社会部の望月衣塑子記者だ。記者クラブでときに政治部記者たちが丁々発止に行う会見の雰囲気をぶち壊し、厳しい質問を菅にぶつけてきた。

彼女はリベラル陣営の新たなスターとして、もてはやされることも多かった。

森達也監督の新作『i -新聞記者ドキュメント-』は、その望月記者を追ったドキュメンタリー映画だ。この作品には、菅官房長官と望月記者のやり取りも多く収められている。

定例会見で厳しい質問を繰り返す望月を、菅は面倒くさそうにのらりくらりと処理する。そこにはまだ「桜を見る会」問題で苦しい顔を見せる菅はいない。国民の知る権利など知らんとばかり、不遜な態度を隠さない。

映画『i -新聞記者ドキュメント-』
映画『i -新聞記者ドキュメント-』
©2019「i -新聞記者ドキュメント-」

リベラル陣営に対する森監督の違和感

『i -新聞記者ドキュメント-』に先駆けて、望月をモデルとした劇映画の『新聞記者』が、今夏に公開されてスマッシュヒットした。両作とも河村光庸プロデューサーであることを踏まえると、劇映画の『新聞記者』とドキュメンタリーの『i』はワンセットの構図だ。

結論から言ってしまえば、『i』に劇映画版のようなシンプルさはない。かと言って、けっしてわかりにくい内容になっているわけでもない。

劇映画版は観賞者のカタルシスを招く、わかりやすい構図の純朴なエンタテインメントに仕上がっていた。その彩度を抑えた冷たい映像の裏でリベラル陣営の熱い「エイエイオー!」が反響し、小規模公開ながら興行収入4億円を超えるスマッシュヒットとなった。

それに対し、森のドキュメンタリー版は鑑賞者に対してなんともやさしくない。そこにリベラル陣営に対する違和感があるのではないか、と森監督本人に振ると──。

「と、地の文で書いてください(笑)。『森は、ニヤリと笑った』くらいにしといて。まぁでも、そういうことですよ。もちろん僕はシンパシー的にはそっちですけど、だからといってなにかちょっと違うんじゃないの、ってのもあったし」

本作『i -新聞記者ドキュメント-』で、森の違和感はどこまで伝わるか。

森達也さん
森達也さん
YOSHIKA SUZUKI/鈴木芳果

森達也のフィルモグラフィーを知る者にとって、『i -新聞記者ドキュメント-』はやや異質なものに映る。それは被写体となる望月衣塑子記者が、きわめて真っ当な人物だからだ。

これまで森が描いてきた対象は、社会から排除されたり、その辺境にいたりすることを余儀なくされたアウトサイダーが目立つ。『「A」』シリーズではオウム真理教の荒木浩、『ミゼットプロレス伝説』では当時テレビから追い出されていたミゼットレスラー、『職業欄はエスパー』では3人の超能力者、『FAKE』ではゴーストライター問題で猛バッシングされた音楽家・佐村河内守等々。

森の方法論のひとつは、こうした「キワモノ」扱いされる人物を通して、日本社会のいびつさをあぶり出すことだった。観る者の「普通」と「異常」の価値を転倒させ、従来の視座を混乱させる。

こうした過去作の主人公に比べると、望月衣塑子はやはりきわめて真っ当だ。新聞社に勤務し、日々記者としての職務を真面目にこなす。アウトサイダーでも「キワモノ」でもなんでもない。もちろんジャーナリストとして彼女のなかから湧き出る強い使命感も感じられるが、しかし人格的な過剰さは感じられない。なにより佐村河内守のような胡散臭さはまったくない。

森さんらしくないな──。そう思いながら観ていた。実際、この企画自体が河村プロデューサーからのものだった。

「キワモノ」は社会のいびつさ照らす特殊なフィルター

「映画でこうしたオファーを受けるといった仕事は、もしかして初めてかも。『「A」』や『「A2」』は自主制作だし、『FAKE』も僕から撮りたいと言ったから。

望月さんはそれ以前から面識はあったけど、撮影を進めてみてあまり印象は変わらなかった。裏表がない人なので、だれに対しても同じように接するし、距離を作らない。最初から、よく喋ってよく食べてよく動くってイメージは同じ。

まぁでもやっぱり彼女は面白い。周囲とうまくコミュニケーションが取れないのは、いったいなにに由来しているのか、いろいろ面白い材料はあった」

そして映像作家らしく、望月記者に対して、こう評価を付け加える。

「撮っていくうちに、思った以上にコケティッシュなところがあるなと思いました。ドキュメンタリーの被写体って、フォトジェニックであることが大事なんですよ。それは、ハンサムとか美人とかって意味じゃなくて“画になる”こと。

人としてどんなに面白くても、シチュエーション的にどんなに面白くても、フォトジェニックでないとメインの被写体としては辛い。荒木浩さんも佐村河内さんも画になるからね」

とは言え、やはりひとつ気になるのは、望月が真っ当すぎるくらい真っ当なことだ。森作品において、荒木浩や佐村河内守は日本社会のいびつさを照らす特殊なフィルターとして機能する。

しかし、望月は、彼女自身が日本社会の問題を直接追求している張本人だ。従来の森作品と異なった印象を受けるのは、そもそも被写体の質が違うからだ。

「ドキュメンタリーって、いかに豊かなメタファーを紡ぐかが大事です。荒木さんや佐村河内さんを撮っても、彼ら自身がテーマだったわけじゃない。僕はこれまで、彼らをメタファーにして社会とメディアを描いてきたつもりです。

ただ、今回はまさしく望月さんそのものがメディアを体現してるわけですから、彼女がメディアのメタファーにはならない。じゃあ、さらにもっと大きなものにするしかないな、と」

もっと大きなもの──それは、現在の政権であり日本という国家そのものだ。

映画『i -新聞記者ドキュメント-』
映画『i -新聞記者ドキュメント-』
©2019「i -新聞記者ドキュメント-」

1999年の『放送禁止歌』で、森はテレビやラジオで一部の曲が「放送禁止」とされている状況を探った。そのオチはなんとも拍子抜けするのと同時に、日本的なヤバさが立ち込めるものだった。

実は放送禁止など、だれも決めてはいなかった。単に放送局のスタッフが“なにか”を畏れて、放送していなかっだけ。最近の言い方をすれば“忖度”によって、「放送禁止」という現象が生じていた。

ひとびとが“自動忖度機”と化す日本の怪現象は、いまに始まったことではない。森はずいぶん前に、放送局を取材する過程でそれを知った。それから20年経ったいま、森は言う。

「あのときよりも、事態ははるかに進んでいる──」

森達也さん
森達也さん
YOSHIKA SUZUKI/鈴木芳果

日本に蔓延する忖度パンデミック、なぜ?

森友・加計学園問題をはじめ、ここ数年、“忖度”が引き起こす不祥事が目立つ。

強大化した権力と不安定な社会は、権力に対する忠誠に奔走する孤独な権威主義者を跋扈(ばっこ)させてきた。ひとびとは“流れ”に逆らうことなく、その先になにが待ち構えているか考えずにひたすら同調する。

「同調は人の本能だと思っています。だって人は群れるイキモノだから、それはもう大前提。ただ日本は、ちょっとその度合いが強いんじゃないかと思います。

これにはメリットもあって、かつてこの国は同調性が高いがゆえに、企業戦士を生み出して高度経済成長を成し遂げてきた」

しかし、いまはそのマイナス面が日本のいたるところで噴出している。

「同調圧力が過剰に働くときがあります。どこに向かっているのか、なんのために走っているのかわからないまま、みんな必死に走り出す。

それが、結果としてとんでもないことになるときがある。例えば、戦争中は皇国兵士を生み出した。企業戦士とも共通するのは、滅私奉公ですよね。自分を捨てて、帰属する集団に奉仕する。きっと、安心できるんでしょうね。歴史的に何度も起きているのに、またそういう傾向になっている」

放送局が自主規制をしていた状況が、現在、日本社会全体に蔓延している。まるで伝染病のように。なぜ、これほどの忖度パンデミックは起きているのか。

「セキュリティ意識だと思います。みんなもう怖いんですよ。行政や展示会関係のひとたちは、炎上が怖いわけです。そうすると、なるべくリスクを軽減したい。

しかし、万が一を気にしてたら何もできなくなる。車に絶対にひかれないためには家から出ない方がいい、という話になる。リスクはけっしてゼロにならないのに」

おそらく、そこで忖度をしたり自粛をしたりするひとは、責任を取らされるのを怖がっているのではないか。

「たぶん、そうですよね。いまは万が一があまりにも強くなって、『なにかあったら責任とるのか!』と言われると、なにも言い返せなくなっている。『ガソリン携行缶を持っていく』と電話があっても、本気でそう考えていれば電話なんてしてこない。だからそんなのは相手にしなきゃいいんだけど、でも万が一はある。もしひどいことが起きたら、だれも責任の取りようがない。 でも、そういう社会になっちゃったんですよね。そうした状況の中でいちばん良いのは、リスクをゼロにすること。つまりやらなきゃいい。そして自主規制が起こる」

同調圧力が、メリットよりもデメリットを軸に働く状況が強まっている。

「悪い部分がいまどんどん出てきてしまっている。目的がなくなったら暴走するばかりですから。いま日本はそういうところが悪いんじゃないかな。目的を失っているから怖いし、同じ動きをするために強いリーダーが欲しくなる」

ひとと同じことをし、ひとと違うことをする。人間は、同調化と差異化を繰り返す。

もうすぐ終わろうとしている2010年代は、世界的にひとびとの極端な志向が強まった時代だった。トランプ大統領もそうして誕生し、Twitterでは日々さまざまな陣営が感情をむき出しにして“敵”を攻撃している。そして若者たちは、なにかにつけて炎上リスクを口にする。

『i』は、そんな時代に対しての処方箋だ。森のやさしくない「やさしさ」は、はたしてどこまで届くか。

(編集:毛谷村真木

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