表現のこれから
2019年12月24日 07時33分 JST

春画展は「わいせつ物陳列」なのか? 表現の自由を萎縮させる日本人の「体質」とは

2019年、日本は「表現の自由」に揺れた。日本人が自ら規制し、表現の自由の萎縮を生んでいる「見えない何か」の正体とは? 『春画と日本人』が私たちに語りかけるもの。

©️大墻敦
2015年、私立博物館「永青文庫」で開催された「春画展」。年間2万人の来館者だった永青文庫に、会期中の3カ月で21万人が押し寄せた

2019年、日本は「表現の自由」に揺れた。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」への電凸からの展示中止、出演俳優の不祥事での自粛による放送中止や上映中止、映画『宮本から君へ』への助成金取り消し問題、しんゆり映画祭における映画『主戦場』上映問題、竹田恒泰氏の富山での講演会が脅迫で中止になるなど、様々な分野にまたがって表現活動の萎縮を招くような出来事が起こり、その度に大きな議論が巻き起こった。2019年は今後の日本の文化・創作活動にとって重要な意味を持つ1年であったのかもしれない。

しかし、日本の表現規制は今年に入って急に厳しくなったのだろうか。

2013年、イギリスの大英博物館で日本の春画を特集する展覧会「Shunga:Sex and pleasure in Japanese art」が開催された。大きな成功を収めたこの展覧会の巡回展を、母国である日本でも開催しようとの機運が高まり、日本を代表する美術研究家や歴史研究家が実行委員に名を連ねた。

しかし、全国の博物館に開催の打診をしたものの、手を挙げるところはなかった。紆余曲折を経て2015年に、細川護熙元首相が理事長を務める永青文庫にて春画展は開催され、3カ月で21万人を動員する大成功を収めた。

その顛末を追いかけたドキュメンタリー映画『春画と日本人』が今年、静かに公開された。

なぜ、大英博物館で高く評価された春画展の日本開催が困難を極めたのか、春画展日本開催実行委員会や春画研究者などへのインタビューと春画を巡る表現規制の歴史を紐解きながらその謎に迫っていく。

本作は春画という日本独自の芸術を、当の日本人が自ら規制し、タブー扱いしてきた歴史をつまびらかにし、日本における表現の自由を脅かすものの正体に迫る。

それは他ならぬ日本人の気質そのものではないか。

本作を観るとそんな気がしてくる。

本作の監督、桜美林大学教授の大墻敦(おおがき・あつし)氏に話を聞いた。氏の言葉は今年起きた「表現の自由」を巡る事象への理解を深めてくれる示唆に富んだものだった。

映画『春画と日本人』で監督を務めた、桜美林大学教授の大墻敦(おおがき・あつし)さん

春画展開催を断った博物館を責めるべきではない

日本の芸術である春画の展覧会をなぜ日本の博物館が断るのか。

公立・私立合わせて20もの博物館に開催を断られたことが映画で触れられているが、大墻監督は、その事自体は「全く責められるべきことではない」と言う。

「各メディアに独自の方向性があるように、博物館にもそれぞれ存立基盤や運営方針があります。

例えば、家族連れをターゲットにしている博物館が春画展をやらない事に不思議はないでしょう。そういうそれぞれの事情で断った事例がたまたま20ほど重なったということでしょう。私はそれがおかしなこととは言い切れないです。巡回展の打診が平均的にどの程度断られるものなのかわかりませんから」

博物館にもそれぞれ展示物を決める自由がある。個別の判断による選択の自由の範疇で春画展の開催を断ったにすぎないと大墻監督は語る。

しかし、と大墻監督は続けた。「結果として永青文庫でしか開催できなかったという状況そのものが、私たちの社会の何かを反映している気がします」

「博物館や美術館は今、集客にとても苦労されているんです。そういう状況の中、大英博物館のお墨付きのある巡回展というのは良い話であるはずです。実行委員の先生方も日本を代表する研究者ばかりです。

にもかかわらず、誰も開催に名乗りを挙げなかった。刑法175条は確かに存在しますが、春画の展示に関してこの法律から生じるリスクは、今回に限って言えば限りなく低かったはずですが、やはりリスクを負いたくない気持ちがあったのだと思います」

大墻監督は、日本社会全体でリスクを避ける傾向が強まったことで、横並びのように春画展の開催を断ってしまうという現象を起こし、結果として永青文庫春画展に大きな注目が集まり、大成功につながったことは、皮肉な現象ではないかと考えている。

©️大墻敦
映画『春画と日本人』

刑法175条とわいせつ性の問題

春画展を開催することの具体的なリスクとはなんだろうか。

映画の中でも、春画展が大きなトラブルなく終えた時に関係者が「逮捕者を出さずに済んだ」と安堵した様子が映されている。また、春画展日本開催実行委員の一人である古美術商の浦上満氏も、作中で「逮捕者が出たらどうするのか」という関係者の抵抗にあったことを語っている。

仮に春画展で逮捕者が出るとすれば、その根拠となるのは刑法175条だ。

「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する」

明治40年に形作られたこの法律は、なにをわいせつと見なすのか、そして公然と陳列とはどのような状態を指すのか、極めて曖昧な記述で、その判断の裁量は警察権力に委ねられており、時代によって警察の解釈も変化し続けている。

刑法175条に詳しい弁護士の園田寿氏はブログにて、「警察官が当該作品が芸術かどうか、文化的価値があるかどうかを判定することになる。しかし、これは戦前の〈検閲制度〉につながるおそれのある発想」だと指摘している。

この刑法の存在によって春画を見せることは取り締まりの対象となってきた。

江戸文学研究者、林美一氏の研究書『艶本研究国貞』がわいせつとされ、13年にも渡る裁判となった事例などを始め、江戸時代から明治、そして戦後春画がどのように公権力によって取り締まられてきたのかを本作は紐解いている。

しかし、1991年には無修正の春画を掲載した『浮世絵秘蔵名品集』が出版され、以降雑誌などでも無修正の春画が掲載されるなど、事実上、出版に関して春画は刑法175条で問題とされない状況となっている。

出版によって「公然と帆布」することは認められているにもかかわらず、なぜ本物を博物館に展示することはできないと考えるのか、という疑問をこの映画は投げかけている。

©️大墻敦
「永青文庫」で開催された「春画展」は18歳未満の入場禁止だった

わいせつ物ではないが配慮は必要という矛盾

大墻監督は、春画をわいせつ物ではなく、歴史資料であるという見解で本作を製作したそうだ。

しかし、本作の上映館は18歳未満の鑑賞を禁じている。これは映倫審査によるものではなく自主的な規制とのことだ。18歳未満の入場を禁止した永青文庫に倣った形だが、わいせつ物ではなく歴史資料ならばそのような自主規制は必要ないのではないだろうか。

「春画はわいせつ物ではなく歴史資料なのでスクリーンで上映しても問題ないというスタンスでやっています。

では、なぜ18歳未満への配慮が必要なのかというと、そこは自分でも矛盾はあると思いますが、歴史資料でも、何らかの配慮が必要な類のものだと思うんです」

展示する意義はあっても、見たくない人への配慮を忘れてはいけない。例えば残酷描写のある表現は意義深いものだったとしても誰にでも公開すべきかどうかは慎重に考えなくてはならない。

春画の展示や上映もまた、公開する際のキュレーションなどの展示・上映のやり方をデリケートに考える必要のあるタイプの題材であるのだろう。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」の検証委員会では、騒動の要因についてキュレーションの問題を中間報告で指摘している。

「特に強く批判を浴びた3つの作品はいずれも作者の制作意図等に照らすと展示すること自体に問題はない作品だった。

しかし作品の制作の背景や内容の説明不足(政治性を認めたうえでの偏りのない説明)や展示の場所、展示方法が不適切、すなわちキュレーションに失敗し」たと中間報告でまとめている。

表現の自由の範疇で守られるべき作品であっても、展示の仕方一つで不適切なものに見えてしまうこともあり得る。キュレーションとは極めて繊細な作業であり、本作がある種の矛盾を飲み込む形で18歳以上の入場を制限していうるのもそうした繊細さの表れと言えるかもしれない。

©️大墻敦
映画『春画と日本人』

見えない何かへの怯え

永青文庫理事長の細川元首相は、春画展の開催を決めたのは「義侠心」であると映画の中で語っている。

全国の博物館がリスクを恐れる中、非常に勇気のある決断で、このようなリスクに負けない勇気を持つことが、結果としてこの国の表現の自由を拡げることに繋がるのではないかと大墻監督は考えている。

「映画に登場する研究者の方々は、それこそ刑法175条で春画が取締の対象だった頃から、リスクを負って活動されていたわけで、それは大変勇気のいることだと思います。

私自身は、憲法第21条『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。』を、そのまま素直に受け取る立場です。そして、公共の福祉に反しない限り、他者の権利、たとえば著作権、肖像権を大切にする、また名誉を毀損しない、など、人として当然のことを守った上で、表現の自由は国民に無限に付与されていると考えます。

展覧会の場合、見たくないものを見なくていい権利を尊重するなど、様々な配慮が必要な場面がありますが、基本的に人には無限の自由があり、その自由によって民主的な国家が保たれるのですから。

研究者の方々のように表現の自由を守る立場であり続けるために、見えない何かに怯えないようにしたいと思っています

「見えない何かへの怯え」という言葉は、映画『主戦場』の上映中止・再開問題で揺れたしんゆり映画祭の代表、中山周治氏も使った言葉だ。

「不様に思えるかもしれませんが、見えない恐怖に怯えています。

もしお客さんに何かあったら?『爆弾を仕掛けた』と言われたら、嫌がらせや脅迫に対して抵抗する手段がない。

当事者の問題として、近くに住んでいる人と遠くに住んでいる人の反応は違う。そういった中での恐れ、それが一番です」

「見えない何か」とは何だろうか。

その正体こそが日本で表現の自由の萎縮を生んでいる元凶ではないだろうか。大墻監督は、それを「過剰な懸念」というキーワードで語る。

「大英博物館のお墨付きもあって、超一流の先生方が巡回展やりませんかと言っているのに断るのは、そこにはある種の過剰な懸念だと思います。

やはり、日本人はみんなで同じ方向を向いているのが好きで変化を好まない体質なんだと思います。春画展のケースでも、実際にはほとんどリスクがなかったはずですが、ここで無理することないかなとなってしまう」

件の『主戦場』は配給会社によれば、全国各地の映画館でトラブルなく上映され、妨害も脅迫も受けたこともないそうだ。

しかし、京都アニメーション放火事件や川崎市の登戸で起きた児童殺傷事件など、別件の事件が頭によぎり萎縮し、一度は上映の中止を決定した。

春画展開催を断った博物館もやはり「何かあったらどうするのか」という思いがよぎったことは想像に難くない。

しかし前述のように、春画に関しては無修正で出版が可能な時代に、本物を展示して逮捕される可能性は限りなく低い。だが、そういう「見えない何か」に怯えるという気持ちは、筆者自身胸に手を当てて振り返れば、自分にもそういう傾向がないとは言い切れない。

©️大墻敦
映画『春画と日本人』

体質を自覚することが大切

日本人は調和を重んじるあまりに、気がつくと表現の自由を狭めてしまうことがある。大墻監督が春画展開催を追いかけて見えてきたのは、日本人のそんな体質だった。

本作のタイトルが『春画と日本人』であるのは、単に春画の規制問題や表現の自由についてのみならず、日本人とは何かという問いが潜んでいるからだ。

「それは、例えば体脂肪が溜まりやすいといった体質みたいなものだと思うんです。

でも、自分の体質を理解していれば、生活習慣を改善しようと心がけますよね。そうやって私たち一人一人が、表現の自由を萎縮させやすい体質を自覚すれば、気をつけるようになれると思うんです。

私自身、無自覚に萎縮している時がありますから、そうならないよう普段から心がけようということを、この映画の製作を通じて学びました」

(編集:毛谷村真木

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