はじめてのSDGS
2020年01月05日 08時46分 JST | 更新 2020年01月05日 11時00分 JST

「スター☆トゥインクルプリキュア」の涙が教えてくれた、分断の時代を生き抜く勇気 「違い」が私たちを苦しめるの?

憧れるのは、そううまくいかない現実の裏返しでもある。今回のスタプリは、あえてその「現実」に踏み込んでいた。

さまざまな個性や価値観の違いを大切にする「多様性の尊重」は、とても大事なことだと思う。でも、学生時代からずっと好きになれなかった歌があった。『世界に一つだけの花』だ。

「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly One」という詞から始まるその歌は、私たちを「花屋の店先に並ぶ花」にたとえ、「誇らしげにしゃんと胸を張っている」「どれもみんな綺麗だね」と称える。

嘘だ、と思った。私たちは「認められた存在」として花屋の店先に並ぶために、日々必死だというのに。

世の中には「学校」とか「会社」とか、いろんなタイプの“花屋”がある。

例えば、私が新卒で入社した新聞社という場所は、学生時代までは想像もできなかった男性中心社会だった。過酷な長時間労働に耐え、そのために「プライベートを犠牲にしています」ということを美徳として強調し、男だらけの酒の会では「華」を添える存在としてあれこれ気を回し、パワハラもセクハラも「必要なコミュニケーションですよね、平気です」という振りをしないと、大っぴらに疎まれた。

私は「男性」という種類の“花”に限りなく近いですよ。そりゃあ、ちょっと違うところもあります。でも、皆さんを脅かすような存在ではないからこの店においてくださいね――。そんな感じで、違いは災いのもとだった。

同じ経験を持つのは私だけじゃない。男性の中にも、そういう空気を息苦しく感じる人はいた。それに、問題はジェンダーだけでもない。この社会のありとあらゆる場所で、マジョリティとマイノリティが生み出されている。私たちは「規格外だから雑草だね」と言われることのないように、どこかの花屋では“花”と認められて「しゃんと胸を張って」いられるように、一生懸命になっている。

その現実を綺麗だとか歌われるほどに、「違いは素敵」という正しい言葉が薄っぺらく思えた。

でも、そんな暗い考えから抜け出すヒントをくれたアニメがある。2019年2月から放送中の『スター☆トゥインクルプリキュア』(スタプリ、毎週日曜、ABCテレビ・テレビ朝日系列)だ。

公式サイトより
スター☆トゥインクルプリキュア

プリキュアは、「女の子だって暴れたい」というコンセプトで、2004年に初代シリーズの放送が始まった。以来、登場人物や敵の設定が代替わりするシステムを取り、15年間続いてきた人気アニメだ。共通するストーリーは、女の子が「プリキュア」という戦士に変身して敵と戦うというものだ。

私はもともと、このアニメが大好きだ。プリキュアの世界では「違っていること」は尊いこととされるから。例えば初代の主人公たちは、性格も得意なことも全く異なる2人。教室の中では違うグループにいて、交わることもなさそうなのに、プリキュアとしてバディを組まなければならなくなる。そのおかげでぶつかり合ったりもするけど、「違い」を合わせることですごい力を発揮できる2人の姿は、私の憧れだった。

憧れるのは、そううまくいかない現実の裏返しでもある。今回のスタプリは、あえてその「現実」に踏み込んでいた。

注目すべきはプリキュアと、敵側であるノットレイダーの関係の変化だ。襲ってくるノットレイダーは、単純な「勧善懲悪」の“悪”ではないことが、作中で徐々に明かされていく。彼らは、さまざまな理由で自分の居場所であった星を追われたり、奪われたりした異星人たち。冒頭の歌になぞらえれば、彼らは「かつて、“花”でありたかっただけの人たち」なのだ。

これは、プリキュアにとって分が悪い。なぜなら、プリキュアは元来、女の子に「女の子らしくあれ」と強いてくる世の中に対するアンチテーゼから生まれた作品だからだ。シリーズの“生みの親”である初代プロデューサーの鷲尾天さんも、以前インタビューしたとき、「プリキュアはマイノリティの居場所を守るために戦う存在」と語っていた。その彼女たちが、“花”になれなかった苦しみを訴える彼らを攻撃することは、難しい。ノットレイダーたちは、「自分」だったかもしれないからだ。

ノットレイダーは、プリキュアが15年間大切にしてきた「異質な他者同士が手をつなぐことで生まれる力」の存在を鼻で笑う。悪役だから、そうするのではない。「多様性の尊重」に可能性を感じられなくなるに至った個人的経験を、それぞれが背負っている。

特に印象的だったのが、テンジョウというキャラクターだ。彼女(地球人の性別に当てはめると、彼女は女性のように見える)は、いつも天狗のように長い鼻に見える仮面を付けている。「鼻の長さ」が社会的ステータスとされる星に生まれ、鼻が短い自分は常に周囲からあざ笑われていると感じて生きてきたからだ。

彼女が特に憎しみを向けるのは、変身後はキュアソレイユとなる中学3年生の天宮えれな。メキシコ人の父と日本人の母の間に生まれ、太陽のようなおおらかな笑顔が学校中から慕われている。でも、シリーズ後半ではその「笑顔」の陰に、テンジョウと同じように周囲との違いがもとで差別された辛い過去があったと明かされた。

公式サイトより
テンジョウ(左)と、キュアソレイユこと天宮えれな

憎しみを公然と発散させるテンジョウは、笑顔をふりまくえれなが気に入らない。当然だ。えれなが「プリキュア側に行けた」のは、いつでも自分を受け入れてくれる、明るく楽しい家族がいたからだ。テンジョウにしてみれば、えれなは自分と似た境遇に置かれていたにもかかわらず、まんまと“花”として受け入れられた存在なのだ。

第43話(12月8日放送)で2人は一騎打ちになるが、キュアソレイユはテンジョウを倒すことも、救うこともできなかった。

「何がフェアと感じるか」は人それぞれ。さらされている地獄も人それぞれ。そんな世界で、暫定的に正義とされる側が、悪とされる側に苦し紛れに言えることは、「度を超えた仕返しはいけない」なんていう言葉しか残っていないのだろうか。

でも、その背中が冷たくなるような予感を、えれなは裏切ってくれた。得意の「笑顔」によってではない。変身を解き、中学生の姿に戻って帰宅した後、彼女は初めて、大粒の涙を流す。自分のためではなく、テンジョウの苦しみに対して何もできないことがたまらなくて、泣いたのだ。

私はその場面を前にしたとき、プリキュアとノットレイダーを、確かに分かつものが見えたと思った。それは、自分の中の「憎しみ」に抗えるかどうかだ。勇ましく敵を殴り飛ばせない戦士は、一見弱々しく感じられるだろう。だけどえれなは、憎しみに駆り立てられて正気を失った相手を前にしてなお、自分自身は憎むことを拒否した。

同時に、私たちを分断するのは、「違い」ではなく「憎しみ」なのだと、教えられた気がした。

ジャーナリストのカロリン・エムケは、難民政策に揺れるドイツでベストセラーとなった著書『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』(みすず書房)の中で、「憎しみ」の本質をこんな風に語っている。

「明瞭にものを見ようとすれば、うまく憎むことができなくなる。優しい気持ちが入り込み、よりよく見てみよう、よく耳を傾けてみようという意志が生まれる。(中略)だが、一度輪郭がぼかされ、一度個人が個人として認識不能になれば、残るのはただ憎しみの対象としての漠然とした集団のみであり、そんな集団のことなら、好きなように誹謗し、貶め、怒鳴りつけ、暴れることができる。『ユダヤ人』『女性』(中略)、『メディア』『知識人』。憎しみの対象は、恣意的に作り出される。憎むのに都合よく」

えれなが涙を流せたのは、テンジョウを「敵」としてではなく、はっきりと輪郭を持った「世界に一人の個」として、見つめようとしたからだろう。自分自身を憎しみに染めない覚悟こそ、異質な他者と共に生きるために必要な勇気なのではないか。

公式サイトより
宇宙を舞台に戦ったスタプリ。第34話(9月29日放送)では、地球にやって来た言葉が通じない異星人との交流も描いた

憎しみに支配されると、性別とか人種とか、目の前の相手との一つの「違い」が、越えられない溝であるかのように思えてくる。でも、そこから意識的に視線をずらし、他の部分もじっくり見てみる。聞いてみる。反応するスピードを少し緩めて、同じところも探してみる。そうすることで、この世界はほんの少しだけ、今より自由になると思う。

そんなスタプリの戦い方を見ていたら、あの歌も、以前とは違う意味に響いてきた。

私たちは世界に一つだけの花。「NO.1にならなくてもいい」とは、そういう風に自分自身の心のあり方を決めることで、私たちを選別し、序列をつけようとしてくる眼差しを内面化しないための抵抗の言葉にも聞こえる。

そして僕らは、一人ひとりが違う種を持つらしい。

その種が、もしも憎しみに染まらない想像力のことを指すのだとしたら――。そんな色とりどりの意思が育ち、あふれる世の中は、きっと綺麗だろうな、と素直に思える。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko